tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

チャイナタウン物語(2)

2010-03-09 22:45:49 | 港町 YOKOHAMA



関帝廟脇の中山路(ちゅうざんろ)が、米兵たちによって“ハッピーアベニュー”と呼ばれていた1950年代。
酒と女を求めて米兵たちが殺到した当時の中華街の夜は、混乱にも似た活況を呈していたらしい。
中華街の裏通りには多くのバーがひしめき合っていた。また、たださえ血の気が多い軍人や船員が集り、酒と女が絡むだけに血なまぐさい暴力沙汰も絶えなかったようだ。
あまりのケンカの多さに、昔の中華街は「ブラッドタウン」とさえ呼ばれていた。当時は物騒な街として知られ、一般の日本人は本通りを歩くことはあっても裏通りには足を踏み入れることはなかった。

ところが、1970年代になるとアメリカのベトナムからの軍事的撤退に伴い、横浜駐留の米軍兵の数が目に見えて減少し始める。
また、横浜港に入港する船舶もコンテナ船が主流となり、コンテナの積み下ろしをするとすぐに出港するといった具合に外国人船員の滞在日数も短くなる。
こうした外国人客の減少に伴い、中華街のバーの外国人経営者は、ほとんどが廃業したり、経営権を日本人に譲渡したりして帰国。1975年ごろには、ほとんどのバーが日本人相手のスナックやパブに変わる。それと同時に、横浜中華街は、「食事をする場所」というイメージとともに、安全で清潔な街に生まれ変わっていく。ヘタレな10代のぼくが、ようやく中華街に足を踏み入れることができたのはちょうどこの頃のことだ。

バブル景気が始まろうとしていた1986(昭和61)年。関帝廟が焼失する。
しかし、この関帝廟の再建へ向け、人々は思想・信条を越えて協力し合い、1990年(平成2)には関帝廟を復活させる。
華僑の人々からなる23の団体が中華街の発展に向けて結束し、横浜中華街はついに東アジア最大の華僑たちによるチャイナタウンとなる。

開港間もない居留地の一角からはじまった横浜中華街。
1970年前後の頃、横浜中華街の人々が、当時、行政からどのような扱いを受けていたか、市民はどのように接していたのか。一方、横浜中華街の華僑の人々はどのようにして対処していこうとしていたのか。ネットで探せる資料などを見たかぎりでは、幸いなことに中華街が差別的な場所として扱われたというような文章はない。だが、戦中、戦後国交が回復するまで、華僑の人々に対する偏見や差別があったのは事実だ。
戦後すら知らないぼくらの世代にも、こうした歴史はいくつかの影を落としている。それでも、いや、だからこそ、闇の時代を乗り越えてきた中華街の発展がこの上なく嬉しく感じられる。
今一度、中華街の歌姫、区愛美さんの歌を聞きたい。そして、彼女の両親の話を聞きたいと思っている。それが戦争を全く知らないぼくらの世代に課せられた使命だと思っている。そして、彼女のことはこれからもずっと見守っていきたい。中華街のこれからの発展とともに、写真に記録していきたいと思っている。。


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