中原中也が長谷川泰子と知り合ったのは1923(大正12)年の冬のことだ。16歳。県立山口中学を落第した彼は、京都の立命館中学第3学年に転入学。
そこで高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』に出会い、ダダイズムに傾倒するようになる。
泰子は小さな新劇劇団「表現座」に所属するかけだしの女優だった。芝居の稽古をやっていた小さなビア・ホールで2人は出会う。
ダダの詩を見せてくれた中也に言った一言
「おもしろいじゃないの」
その一言で中也は恋に落ちる。
「表現座」は第1回公演ののちに解散してしまう。稽古場に寄宿していた泰子は行き場を失い、困窮。そんな、泰子に中也は声をかける。
「ぼくの部屋に来てみてもいいよ」
1924(大正13)年4月、2人は市内北区大将軍西町椿寺南裏高田大道方にて同棲生活を開始。この時、中也17歳、泰子20歳。泰子はアインシュタインの相対論からカフカの文学まで、自由自在に語れるような知性の女性だったらしい。
あゝ 恋が形とならない前、
その時失恋をしとけばよかつたのです。
・・・ダダイズムは一切を断言し否定する。
結局、中也は泰子との同棲生活、あるいは、友人たちとの間に生じる僅かな心情の行き違いを理想との間の落差と捉えたのだろうか。
泰子は彼が何を考えているのか分からなかったようだ。希望と野心に燃える若い二人の眼には、お互いの虚像だけが結像していたのだろう。
そんな時に、中也の友人小林秀雄がささやく。
「あなたは中原とは思想が合い、僕とは気が合うのだ」
泰子は自分の女優になる夢のため、小林秀雄のもとへ去る。しかし、1928(昭和3)年小林秀雄とも別れ、1936(昭和11)年、実業家と結婚。
「鎌倉比企ヶ谷妙本寺境内に、海棠の名木があった。こちらに来てその花盛りを見て以来、私は毎年のお花見を欠かした事がなかったが、先年枯死した。
枯れたと聞いてみ無残な切り株を見に行くまで、何だか信じられなかった。中原と一緒に、花を眺めた時の情景が、鮮やかに思い出された」
そんな小林秀雄が中也と妙本寺を訪れ、海棠の散る光景をみつめたのは、昭和(1937)12年の晩春のことだ。
中也は、それから半年もたたない10月、鎌倉養生院(現・清川病院)で病没する。
気に入った写真や記事がありましたら応援のクリックよろしくお願いします。
にほんブログ村