彦四郎の中国生活

中国滞在記

明智光秀の丹波攻略で落城した丹波三大山城❶八木城①、三度の落城の歴史をもつ内藤氏の居城

2021-01-28 16:05:20 | 滞在記

 京の都の北に位置するかっての丹波国。その範囲は現在の京都府亀岡市、京都市右京区京北町、京都府南丹市、京都府京丹波町、京都府福知山市、京都府綾部市、兵庫県丹波篠山市、兵庫県丹波市にまでおよぶ広大な地域だった。その丹波国の5分の4ほどの地域を1554年頃から十年間あまり支配下に治めて戦国大名としての地位をもっていたのが内藤氏(内藤宗勝)だった。そしてその居城が丹波三大山城の一つ「八木城」。八木城は南丹市八木町と亀岡市の境の城山(標高330m)に築かれていた。

 1467(「人の世むなし」)年から1477年の11年間続いた応仁の乱、乱終結からの110年間あまり、丹波国は「動乱の時代」であった。丹波国は室町幕府(足利幕府)将軍に次ぐNO2の地位にある室町幕府三管領家(細川家・斯波家・畠山家)の一つ細川氏の領国(守護)ではあったが、細川氏の内部分裂、三好家の台頭と近畿支配、丹波国守護代となった国人たちの台頭、地域豪族たちの動きなど、およそ100年間にわたって絶え間ない戦(いくさ)が繰り広げられた。

 有力国人・内藤氏の居城・八木城は1500年ころに築城されたと伝わるが、1538年には丹波篠山の八上城に拠点をおく有力国人・波多野氏の攻撃によって1か月あまりで落城したが、その後の城の奪還に成功。そして再び1553年に波多野氏らによって落城させられた。この戦いで城主の内藤国貞は戦死した。その状況下、内藤一族は四国・畿内で勢力を拡大していた三好長慶勢力をたより、長慶の有力家臣である松永久秀の弟・松永長頼を養子として迎え、再び八木城を奪還した。(戦死した国貞の娘の婿となる。そして、まだ幼い国貞の息子・貞勝の後見人となる)。

 その後、松永長頼は内藤宗勝と名乗り、波多野氏を降伏させ丹波国の多くを支配下におく一大勢力(1555―1565)へと内藤家を復活した。(※1530年代〜60年代には「内藤氏」「波多野氏」「赤井・荻野氏」の三大国人勢力が分裂した細川家や三好家などの諸勢力とむすびつき丹波国にて勢力拡大を争った40年間となった。)

 その内藤宗勝が1565年に赤井・荻野氏との戦いに遠征していた際に突然に討ち死にしてしまったため、丹波国におけるる内藤家の支配力は低下・衰退したが、それでも丹波国3分1程度を支配下におき続けた。後を継いだのが宗勝と国貞の娘との間に生まれた内藤如安(後の内藤ジョアン―キリシタン信仰者)だった。(※1565年、13代足利将軍・足利義輝が三好の勢力によって二条御所を攻められ殺された。享年29歳だった。)

 織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて1568年に上洛、その後畿内の多くを支配下に治め、1569年に義昭は第15代将軍に就任する。しかし、3~4年で信長と義昭の対立が生じ、1573年義昭は反信長を掲げ京都にて挙兵。内藤如安は将軍方として✝(クロス)の旗のもと2000の軍兵を率いて京都に進駐した。しかし、将軍方は信長軍に敗れ、義昭は京都から放逐される。ここに室町幕府は終焉した。

 織田信長にとっても京都の背後にある丹波国の掌握は難しかった。この丹波国の掌握・支配下におくために明智光秀に「丹波進攻」(攻略)を命じる。1575年、光秀は丹波攻略にとりかかった。1575年、まず丹波国で京都に近い東丹波で反信長の旗幟を鮮明にしていた内藤ジョアンの立て籠もる八木城と宇津頼重の立て籠もる宇津城(京北町)の攻城に取り掛かった。(※八木城が落城した年月は明らかになっていない。1575年説が有力だが、1579年説もある。宇津城が陥落したのは1579年で、宇津頼重は最後のさいごまで信長軍に抵抗し続けた。)

 有力国人で丹波篠山の八上城を本拠地とする波多野氏はいちおう信長への恭順を表明していた。また、西丹波氷上郡をの黒井城を本拠地とする赤井・荻野氏は旗幟を鮮明にはしていなかった。

   落城にともない内藤ジョアンは、西国の毛利家が支援する足利義昭が滞留する鞆の浦(広島県福山市)へと逃れた。三度の壮絶な攻城戦と落城、二度の城の奪還戦を経たこの城が八木城だ。私は10年ほど前の2010年に、立命館大学の城郭研究会(サークル)の学生たちとともにこの八木城に初めて登った。

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、明智光秀の丹波攻略の放映がそろそろ近くなった2020年12月6日(日)、早朝に自宅を出て、10年ぶりに八木城に行くこととなった。ここ八木城は、標高330mの城山の山頂から放射状に広がるように曲輪が配置されいる巨大な山城である。丹波国北部から京都に向かう京街道と保津川を眼下に望む。八木城登山口から山を登り始めるとすぐにかなり広域な「北屋敷跡」と呼ばれる「武家屋敷群」の場所がある。かなりの数の家臣たちの屋敷敷地があったことが推定される。

 「国史跡」となってもいるためか登山道はかなり整備されていて、「🔴🔴合目」の看板も設置されている。本丸のある山頂までは約40分と記されているが、老齢の私はその1.5倍以上の時間をかけてゆっくりと登る。登るにつれて大手道の勾配がきつくなってきた。丹波古生層と地質学では呼ばれる地層が露出していて、チャート(海の古生物の死骸が埋まる岩石でとても硬い。)岩石が転がってもいた。

 五合目あたりは朴木(ほうのき)の葉が一面に敷き詰められていた。春の5月頃には、このあたりは朴木の高貴な花の香りに包まれることだろう。7合目あたりに「対面所曲輪(郭)群」が見えてきた。

 ここの郭群は、この八木城の正門的な番所機能をもつ防衛機能郭群だ。おそらく三度の攻城戦では最も激しい戦闘が繰り広げられた場所かと思う。12月上旬だがまだ一部紅葉している樹木が残っていた。本丸郭とを遮断する堀切も見える。この郭群をさらに登って8合目あたりまで登ると、若い2人づれの女性が下山してきた。

 9合目をすぎて息が上がるが、ようやく本丸(本郭)が見えてきた。本丸郭を囲むように石垣が見える。

 本丸郭に到着。時刻は午前11時。本丸には男女10人ほどの人がいた。この山城の見学に来た団体のようだ。本丸郭の周囲は土塁で囲まれる。

 ここ本丸からは眼下に保津川に沿った京街道、園部・船井郡方面、亀岡・京都方面が一望に見渡せる。本丸郭の裏手に行くとここにもかなりの石垣群が残り、丹波篠山方面の山々が見渡せた。明智光秀軍の侵攻に抵抗して豪族たちが立て籠もった丹波一ノ宮「出雲大社」の背後の山(ご神体)に築かれた「御影山城」(この山城もなかなか見応えのある山城)も正面に見下ろせた。

   はるか向こうにはひときわ高い愛宕山の山頂もよく見える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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