長崎で蕎麦会をやる、となったので、なんとなく毎日ウキウキしている。
昔から大好きな街だ。といっても、最初にいったのが、浪人時代。
宗像というぼくの実家は、簡単にいうと、博多と小倉の真ん中あたりに位置する。
こないだノーベル賞をもらった先生の母校も同じ学区内にあり、ぼくはいかなかったけど、
甥っ子の遊太は、そこを卒業して、立命館にいった。ぼくは、宗像高校を卒業して、
一年間、小倉にあった「北九州予備校」に通って、立命館にいった。
浪人時代のある日、小倉の居酒屋で飲んだ。(その当時の北九州は18歳で選挙権はなかったけど、酒
は飲んでいい、という条例があった?)。今はないみたいだが、小倉発11時くらいの最終電車が「長崎行き」
だった。なんとかそれにのれて、家に帰れるという安心感と酔いがからまって、気がついたら「長崎」だった、という
不思議な日をいただき、長崎の旅人になった「忘れがたき好日」があった。それ以来、ちょくちょく遊びにいくようになった。
煎茶の世界に、不思議な文人があまたでてくる。売茶翁をささえてくれた亀田窮楽という書家なんかはその最たる
ものだ。時々天真庵の二階に軸をかけることがある。売茶翁はお茶が大好き、窮楽は、酒の道を窮めた人。
窮楽と同じように、酒と釣りが好きで、南画家だった「釧雲泉(くしろうんせん)」という人も、煎茶好きだった文人の代表格なのだが、あまり
一般的には知られていない。長崎生まれ。つまり雲泉、という号は「雲仙」からきている。煎茶を始めてから
まだ長崎に足を踏み入れていないので、今回は、彼の生まれ故郷の「千々石(ちじわ)」にいって、魚をつってみたいと
思っている。人生は旅みたいなもんやけど、旅は哲。あこがれのイタリアンのシェフにもあえるし、毎日ウキウキしながら
過ごしている。持っていく「珈琲ドリポット」も、旅人になる。
お茶を日本に伝えた「隠元和尚」も、中国から最初に上陸したところは長崎で、長崎には煎茶人があまたいたし、
いろんな資料や道具が残されていた。京都は空襲がなかったので、そんな資料や道具が残っているけど、
長崎は原爆が落ちて、貴重なものがみな灰になった。70年たった今も、原発や原爆を開発し続けようとしている人間は、
「破滅に向かっている」といかいいようがない。新潟で原発反対の知事が当選した、という記事がうれしい。
運泉は故郷を捨て二度と長崎に帰ることなく、京都や東京で暮らし、最後は新潟の「そば屋」で、あの世に旅立った。
これから「卵かけごはん」夜は「福の会」
明日は「タイムドメイン」
水曜日が「おんなかっぽれ」