長屋茶房・天真庵

「押上」にある築60年の長屋を改装して
「長屋茶房・天真庵」を建築。
一階がカフェ、2階がギャラリー。

♪ああああ 長崎は今日も雨だった・・・

2016-10-17 07:16:02 | Weblog

長崎で蕎麦会をやる、となったので、なんとなく毎日ウキウキしている。

昔から大好きな街だ。といっても、最初にいったのが、浪人時代。

宗像というぼくの実家は、簡単にいうと、博多と小倉の真ん中あたりに位置する。

こないだノーベル賞をもらった先生の母校も同じ学区内にあり、ぼくはいかなかったけど、

甥っ子の遊太は、そこを卒業して、立命館にいった。ぼくは、宗像高校を卒業して、

一年間、小倉にあった「北九州予備校」に通って、立命館にいった。

浪人時代のある日、小倉の居酒屋で飲んだ。(その当時の北九州は18歳で選挙権はなかったけど、酒

は飲んでいい、という条例があった?)。今はないみたいだが、小倉発11時くらいの最終電車が「長崎行き」

だった。なんとかそれにのれて、家に帰れるという安心感と酔いがからまって、気がついたら「長崎」だった、という

不思議な日をいただき、長崎の旅人になった「忘れがたき好日」があった。それ以来、ちょくちょく遊びにいくようになった。

煎茶の世界に、不思議な文人があまたでてくる。売茶翁をささえてくれた亀田窮楽という書家なんかはその最たる

ものだ。時々天真庵の二階に軸をかけることがある。売茶翁はお茶が大好き、窮楽は、酒の道を窮めた人。

窮楽と同じように、酒と釣りが好きで、南画家だった「釧雲泉(くしろうんせん)」という人も、煎茶好きだった文人の代表格なのだが、あまり

一般的には知られていない。長崎生まれ。つまり雲泉、という号は「雲仙」からきている。煎茶を始めてから

まだ長崎に足を踏み入れていないので、今回は、彼の生まれ故郷の「千々石(ちじわ)」にいって、魚をつってみたいと

思っている。人生は旅みたいなもんやけど、旅は哲。あこがれのイタリアンのシェフにもあえるし、毎日ウキウキしながら

過ごしている。持っていく「珈琲ドリポット」も、旅人になる。

お茶を日本に伝えた「隠元和尚」も、中国から最初に上陸したところは長崎で、長崎には煎茶人があまたいたし、

いろんな資料や道具が残されていた。京都は空襲がなかったので、そんな資料や道具が残っているけど、

長崎は原爆が落ちて、貴重なものがみな灰になった。70年たった今も、原発や原爆を開発し続けようとしている人間は、

「破滅に向かっている」といかいいようがない。新潟で原発反対の知事が当選した、という記事がうれしい。

運泉は故郷を捨て二度と長崎に帰ることなく、京都や東京で暮らし、最後は新潟の「そば屋」で、あの世に旅立った。

これから「卵かけごはん」夜は「福の会」

明日は「タイムドメイン」

水曜日が「おんなかっぽれ」