レシピなんていうものは、あまりあてにならないし、そんなものを伝えていっても
あまり意味がない。古人たちが縄文や弥生やひょっとしたら、その前あたりから、この狭い
島国で採れるものを料理しながら命を紡いでいった「おもい」みたいなものが大事かもなんばん。
たまごかけごはんなんて、ごはんに卵をかけて、醤油かけて、ジエンド。
「お米はちゃんとつくったもの?」「ごはんをうまくたく」「安全な卵とは」「醤油はほんとうに国産の遺伝子組み換えでないものを使っているの」
とかいった愛情よりもっと深いところのものが、大切やと思う。
味噌もしかり。冷蔵庫に入っているわがやの味噌は、「国産の大豆?」「遺伝子組み換えしていない?」「防腐剤などは危うくない?」
とか考えてみると、わたくしたちが毎日命を紡ぐために口から入れる食べ物は、安全とは似て非なる次現のものばかりだ。
今年の2月の「味噌作り」が65人になった。たぶん来年は100人を超すと思う。行列ができるお店の人気とかではなく、「まじめに食を考える」
人が、少なからず増えている、ということだと思う。
昨日の夜は「長屋で女史会」だった。私たちのルーツは、神代のお話で、高天原(たかまがはら)からきた神様、みたいなことに
なっている。人気の源平の話も、美しい義経の話などが神話のように語り継がれているけど、どうもスジがしっかりしていない、
というか「真」がしっかりしていない。だから「こころ」の心もあやふやだし、「おもい」にかけるところがある。昨日はそのあたりの話を
先生がしっかりと裏話も交えながら説明をしてくれたので、もう一度「平家物語」を読み直してみたい、などと思った。
昨日は「暮らしの実験室 農場」からおくらてきた野菜や卵をつくって勉強会にだした。
「暮らし・・・」は安全な卵を食べる、というところからスタートした。ブロイラーみたいに、睡眠まで調整され、薬漬けみたいな餌や、
黄身まで飼料で色つけされ、雄どりもいれずに無精卵を死ぬまで産み続ける、という今どきの卵とは対岸にある方法。
広めの小屋に、何羽までというストレスのない数の鶏を入れ、彼らが無農薬、もしくは有機で育てた野菜を中心にした餌をあたえ、
雄鳥も入れる。やはりにわとりだってセックスはしたいし、無精卵ばかりだと雄鳥も夢精もできへん。やはり自然が一番や。
その卵で、「そばやの卵焼き」で一品。元気ななすときゅうりは糠漬け。糠という字は、よく見ると、米に健康の康と書いてある。
あしたばは、アクぬきして、黒ゴマあへにした。ピーマンがとっても甘いので、マカロニサラダに加え、蕎麦の新芽をそえた。
どの皿も「もうすぐ秋だ」と歌が聴こえてきそうだった。しめは、「そばやの湯豆腐」。煮奴につるむらさきとおあげを入れ、
少し太めにきった「そばどん」と昆浴状態にする。これをつまみにしながらそば焼酎の蕎麦湯割りを飲む。
よく朝は「ほれぼれうんこ」がおはようと大きな産声をあげるに違いない。
ものいわぬ「食材」に、ちゃんとした「ものがたり」をつけてあげると、「おもい」が伝わります。料理のおもしろさ、というのは
このあたりにあると思う。卵かけごはんの時、かたわらで「早朝そばうち教室」がときどきある。そのお弟子さまは、くろうとはだしの蕎麦を
打つようになってきた。今月から月ニのペースで打つらしい。
明日明後日は「卒啄珈琲塾」&「無茶しぃの会」
今月のダンンチュウが「珈琲」の特集。大坊珈琲の大坊さんの近況の記事がよかった。
お店を始めてすぐに、白いリネンのスーツを着て、大坊さんが天真庵に遊びにきてくれた。
ひとことひとことが、彼が入れる珈琲の一滴一滴みたいに、粒々皆辛苦のひとしずく、なのだ。
70億人の「一粒」みたいな、個の花を咲かせた人やと思う。