天然居士の独り言

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ツタンカーメン・・・

2022年11月05日 18時38分57秒 | 日記
 ツタンカーメンは、エジプトの王の中でも、一番有名かも知れません。
 それまで古代エジプトの歴史の中では、ほとんど無名でしたが、
 未盗掘のその墓が発見され、5000点に及ぶ副葬品などから、
 一躍有名になりました。
 その墓をハワード・カーターが発見したのが1922年11月4日でしたので、
 昨日が、発見されて丁度100年になります。

 ツタンカーメンの父親、アクエンアテンまたはアメンホテプ4世は、
 古代エジプトの歴代の王の中では、極めて特異な存在で、
 王朝の発祥の地であるテーベから、アケトアテン(現在のアマルナ)に首都を移転し、
 多神教だったエジプトで、アテンが唯一の神であると宗教改革を推し進めました。
 この改革はアマルナ改革と呼ばれていますが、
 これによりエジプトは大混乱に陥ります。
 父の死後、ツタンカーメンは10歳目前という幼さで即位します。
 そして、彼は首都をテーベに戻すなど、父親の政策を180度転換します。
 10歳の子どもにそのような判断が出来るとも思えませんので、
 家臣団が元に戻す事を進めたのだと思います。

 10歳目前で即位したツタンカーメンですが、
 治世10年足らず、19歳前後で死亡します。
 遺体は、副葬品とともに第18、19王朝の王族のための墓地「王家の谷」の
 小さな墓に埋葬されました。
 その後のファラオは、首都移転と宗教改革につながりがあった王たちの事跡を
 歴史からほぼすべて消し去ってしまいますが、
 それが、ツタンカーメンの遺体が現代まで保存された理由なのかも知れません。

 ツタンカーメンと言えば、「ファラオの呪い」が有名です。
 1923年2月16日、ツタンカーメンの埋葬室が開かれ、
 その財宝が大きな話題となり、世界を駆けめぐりますが、
 その6週間後、発掘調査のスポンサーだった
 イギリスのカーナボン卿の急死が大々的に報じられると、
 一部のメディアが「呪い」と表現したため、人々の間に広まります。

 僕も小学生の時、子ども向けの本でこの話を読み、
 とても怖いと思った記憶があり、その時ツタンカーメンの名も覚えました。
 しかし、墓が開かれる瞬間に立ち会った26人のうち、
 10年以内に死亡したのは6人のみで、
 真っ先に呪いの標的になるはずの発見者であるハワード・カーターは、
 墓が開かれて15年以上が経過した1939年まで存命でした。
 こうした事実からは、ファラオの呪いはないのでしょうね。

 ツタンカーメンの墓が発掘され、
 概ね3300年前の古代エジプトの様子が分かりました。
 また最近のDNA鑑定などの手法によって、
 アクエンアテンのミイラも確定しています。
 更に、ツタンカーメンの母親は、
 名前が分からず「若い方の淑女」と呼ばれていますが、
 アクエンアテンの同父同母の妹だった事も明らかになっています。
 近親結婚が続き、ツタンカーメンは虚弱体質であったとされ、
 それが死に影響したのだろうと考えられています。

 子どもの頃に覚えたツタンカーメンの墓が発掘されて丁度100年との事から、
 古代エジプトの歴史に思いを馳せました。
 なお、発掘の資金がどこから出たのか、
 以前書いた拙文がありますので、宜しければご覧下さい。
 https://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/s/%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3

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