MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

construal 事態把握について

2008年04月26日 | 翻訳研究

昨日に続いてBelgian Journal of Linguistics 21 (2007) The Study of Language and Translationから。

Halverson, Sandra L.:A Cognitive Linguistic Approach to Translation Shifts
翻訳による変化(shifts)についてはCatfordやVinay & Darbelnetらによって枠組みが作られてきたが、この論文ではそれを包摂し、より説明力のあるアプローチを提案する。つまり、翻訳のshiftsは認知言語学で言うconstrual(事態把握)操作に由来するものであり、基本的に認知的である。

もっともひっかかったのがこの論文で、やっていることはAttention/Salience, Judgement/Comparison, Perspective/Situated ness, Constitution/Gestaltといった4つの基本的な「事態把握」construal概念を使って、原文と翻訳の違いを説明しているだけなのだが、これをChestermanのS-universal(言語にかかわらず翻訳で発生する起点言語との相違のこと。たとえば干渉、標準化、明示化など)やtertium comparationisの議論と結びつけようとしているのである。
しかしshiftの問題をconstrualだけで説明できるものだろうか。そもそも認知言語学のconstrualの概念は単一言語内でのヴァリエーションを想定したものではなかったか(たとえばLee, David (2001). Cognitive Linguistics: An Introduction. Oxford Universiry Press)。これを翻訳のような言語間の問題に適用することはできるが、その場合はサピア=ウォーフ仮説への態度決定も迫られるだろうし、言語の違いによるshiftを排除することは不可能だろう。

construalについての議論は次の論文にも見られる。

Lehtinen, Marjatta: Clause structure and Subjectivity in English and Finnish: What Changes in Translation?
これは英語とフィンランド語の節の構造とthe construal of subjectivity(主観的把握=認知言語学では認知主体が客体の中に身を置く状態のことを言う)の関係を、翻訳を媒介に検討したものだ。英語の他動詞構文は、フィンランド語訳では自動詞の「存在」文となり、いわば「地」と「図」の逆転が起きる。逆にフィンランド語の主観的事態把握を含む自動詞構文は、英語では他動詞構文か、別の語彙的手段によって表現される。しかし、この論文ではこうした翻訳におけるchanges(shiftと同義)の原因は、各言語の類型的差異(主語のカテゴリーや語順、他動詞構文プロトタイプ使用における差異)にあるとしている。この論文と先のHalverson論文では説明しようとする対象が異なるという点は割り引くにしても、こちらのほうがまっとうなアプローチに思える。

construalの翻訳への適用はかなり危うい面がある。主観的把握subjective construalについては池上嘉彦先生も『雪国』冒頭の文のサイデンステッカー訳を素材にして書いていたと思うが、あれとて英語と日本語の類型的対比に結びつけるよりはサイデンステッカー訳がおかしいのだと考えた方がいいと思う。そう考えることで翻訳規範の問題にもつながる。もしパラレルコーパスがあれば、construalの類似と相違が検証できるだろう。大量のパラレルコーパスを作らせる実験研究も可能かもしれない


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1 コメント

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再び、独り言. (落語小僧.)
2008-04-27 08:54:01
なるほど、認知系が認知されつつある潮流。かつてbilingualismからの論考がありましたが、cognitive turn(?)という展開。あと言語類型論も個別・認知・言語類型論とS_W_仮説と絡めるのは筋が良いと踏んでいますが、僕も各言語に義務化された文法範疇のshiftは認知モードの切り替えでは説明できないと思います。類型論も色んなタイプがあり、対象項目が義務的かプロトタイプ的かで議論を峻別せねばと思いますし、文法範疇以外の言語項目に安易に相同性の射程を広げるべきかどうか、悩ましいです(賢明な言語学者は談話・レトリックのレベルにはあまり言及しない傾向がありますが、通訳翻訳学の研究では言及せざるを得ないでしょう)。socio-cultural turn後のlinguistic re-turnのあり方の一つは、(言葉への事態構成=construalと、言葉からの事態構成=interpretationの両方を含む、広義の外界ないし記号に対する)人間の事態把握(=意味表象、記号解釈過程)が個別具体的一回的偶発的な構成主義的ミクロの側面と、社会文化歴史的な枠付け的マクロの側面を架橋することにあるでしょうか(normの議論は後者)。(オマケ:認知系の議論に解釈場という発想が無いのは如何なものか。認知系も原点回帰したらよいと思いますが…)。複数の既訳の比較対象研究に加え、大量のパラレルコーパスを作る実験研究は、賛成!
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