MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

戦争と通訳

2007年02月18日 | 通訳研究

東京外国語大学でのソーヤーさんの講演も無事終了とのこと。ソーヤーさんはその後、ヒュースケンゆかりの地を訪ねたらしい。

外交と通訳は切っても切れない関係にあるが、外交の延長である戦争とも大いに関係がある。E・ロマックス 長瀬隆(1997)『陸軍通訳の責任』(私家版)は軍属として憲兵隊付きの通訳を務め、あの戦場に架ける橋で有名な泰緬鉄道の作業にあたった捕虜の、拷問を含む尋問を通訳した長瀬隆さんの回想記だ。長瀬さんは憲兵がいないときに、捕虜に対して早く楽になれるよう容疑を認めた方がいいと諭したり、「元気を出してがんばれ」とささやいたりする。50年後、英文著書の出版がきっかけとなり、この元捕虜の夫人から手紙を受け取るが、そこには夫はあなたを許していないかもしれないと書かれており衝撃を受ける。この元捕虜、ロマックス氏と長瀬さんは、その後文通を続け、やがてクワイ河畔の鉄橋を望むテラスで再会するのである。このような末端での通訳についての本は結構出ている。

もう一つは昭和22年刊の、朝日新聞法廷記者団『東京裁判 第二輯』(ニュース社)で、これは全8輯が出版された。その後文庫になったようだ。この中に「IBM談義」という章があり、使用された通訳用機器の様子が具体的に書かれている。ニュルンベルク裁判と同じIBMの機器が使われたようだが、意外だったのは言語の切り替えが今使われているものと違っていることだ。
「左右のレシーバーからのびた送話線は丁度顎の下で一緒になって、記者席なら、腰掛けの右つけねでスイッチにまきこまれ、スイッチからじゅうたんの下をはう複雑な線につながってしまう。このスイッチは、ひねりが三つあり、普通第一のスイッチが英語、次が日本語、三番目が特別仕立てのロシア語の通訳となっている。」日ソ関係の段階に入ると、5人の検事のうち一人は英語、4人がロシア語で話すことになった。「ロシア語で書証をよんでいる間は安心して第二のスイッチの日本語訳にきき入っていられるのだが、この最中に弁護側の異議がさしはさまれると、さあことだ。ゴルンスキー公使がこれに英語でうけこたえすると、その日本語訳は第一のスイッチで行われる。さて第一のスイッチにきりかえてその応酬をきいていると、思わぬところでけりがついて、突然今度は書証の朗読にうつる。ついうっかりしていて二三分第二にきりかえるのを忘れていると、日本語の朗読はもう半分も先へ行っているという始末。」不思議なことに同時通訳か逐次通訳かについては何の記述もない。そもそも区別がつかなかったのか。他にフランス人が英語でしゃべると通訳団から「わかりません」との意義が続出したとある。Hainan Island(海南島)がアイナン・アイランドになっていたという。


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5 コメント

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ソーヤー氏講演会 (米田)
2007-02-19 14:37:27
17日外大の講演会に行ってきました。
直前申し込みだったのでレシーバーがなかったのですが、普段知る機会のない米国務省の研修の話など聞けて勉強になりました。
初めはformal speechというゆったりとした感じだったのですが、途中から結構早口になられて、同時通訳の方々大変だったのではないでしょうか。(院生の通訳聞いてみたかったですが、また次回)。

OHP用に作成された資料が早口に合わせてどんどん次のシートに進むのでメモしきれなかったのが少し残念でした(私の周りの方々も必死にメモしておられました)。事務局宛にメールでもしておこうかと思います。

ところで1981年版の通訳事典(アルク)を持っているのですが、この中に「国連チーフインタープリターMr. Paul Galerに聞く」というページがあります。ここでも言及されていますが、国連通訳者の中にはチャイコフスキー・コンクールで入賞したピアニストだった人もいるとか。今回のソーヤー氏も20代半ばまでは音楽の道を進んでおられたとか。大手エージェントの専属通訳者の中にも元ピアニストの方がおられるようです。ピアノという長年の鍛錬を必要とする道を経てきた人達にとって通訳の訓練は、一般の人達にとってよりも御しやすいものなのかもしれませんね。
専門的な知識は全くありませんが、音楽と語学の関連性というのも興味深いものがあります。



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ソーヤー氏講演会 (Mizuno)
2007-02-20 10:26:51
報告ありがとうございました。僕は所用で行けなかったのですが、やはり早口でしたか。まあスピーカーの常でもあり、通訳者は早口でないとやっていけない面もありますから仕方ないですね。(僕はもう口が回りません。)

そういえば長井鞠子さんがバイオリンをひくのをテレビでやっていたとか聞きました。僕の受講生の中にもピアニストがいて、何度か演奏会に行きました。
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Unknown (平松 進)
2007-02-21 16:32:48
芸術と通訳について
 
 米田先生と水野先生のご意見に「我が意を得たり」と思いました。
 もう10年ほど前でしたか、ISSに勤務していた人から「国連では通訳者は芸術家だとみなされている」と聞いたことがあります。語学と芸術との関係では、私自身、調香師のマネゴトをしながら同時に語学も鍛えると相乗効果がかなりあったことを経験しています。松本道弘先生や國弘正雄先生の言葉を借りればaccerelated agingと言えるのかも知れません。その後、油絵にも取り組みました。松本道弘先生も、当初芸大を目指していて、「今なお憧れを感じる」とおっしゃっていました(どうりでイラストがうまいはずです)。長井鞠子先生もICU時代からウビオラをなさっていたと伺っています。言語と大脳の関係でいわゆる左脳と右脳の双方活性という点からも、ある程度説明できるのでしょうか。
 いずれにしても、大変関心を引くテーマです。
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永瀬隆氏について (平松 進)
2007-02-21 16:58:20
 さすが水野先生、よくぞ永瀬氏の著書をヒロワれました。
 実は、この方、私が高校生時代、倉敷で英語を教えていただきました。中学校の時は、弟の永瀬忠勝先生に教わっていました。この弟さんは、類まれな方で、平日であろうと日曜日であろうと私を特訓し、おかげで50年の歴史を誇る「ライシャワートロフィー中学生英語スピーチコンテスト」(岡山県下で実施)に優勝することが出来ました。
 この兄弟は終生忘れられない大恩人です。
 さて、兄の永瀬隆氏が初めて翻訳をしたとき、國弘正雄先生が最初の章を訳されました。昭和51年のことでしたが、倉敷で開かれた出版祝賀会で國弘先生に初めてお目にかかれました。國弘先生も永瀬先生も同じ青山学院大学を出ておられることも友誼の印でした。ちなみに、永瀬先生が長年営まれた英語学校の名前も「青山英語学院」でした。88歳の現在も、自宅で英語を教えておられるようです。
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長瀬氏について (Mizuno)
2007-02-21 23:57:09
何とも奇遇ですね。
私家版ですが、確かに版元は「青山英語学院」になっています。
しかもまだご存命とは。
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