MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

菅季治のこと

2007年04月19日 | 通訳研究

何年かぶりに風邪を引いてしまったのと腰痛のため、更新が途絶えていました。以前から気になっていた菅季治について少し。ジュンク堂池袋店に平澤是曠『哲学者菅季治』(すずさわ書店)が1冊だけ残っていたので買ってきた。(Amazonでは扱っていないが版元にはまだ残っているかも知れない。)シベリア抑留については若い人はなじみがないかもしれないが、僕の場合はよく家に出入りしていたおじさん(姻戚関係はない)がシベリアに抑留されていた人で、酔っ払うと「露助がよう…」とくだを巻いていたのを覚えている。

 「敗戦の年から五年目を迎え、廃墟の瓦礫の中からようやく復興のきざしが見えはじめた1950(昭和25)年4月6日の夜、東京の街は降りしきる春の雨に濡れそぼっていた。
 午後7時25分ごろ、中央線立川発上り東京行き1910B電車が吉祥寺駅にさしかかろうとしたちょうどそのとき、突然左側電柱のものかげから黒い人影が姿を現し、レインコートを電車に投げつけて、雨に鈍く光る鉄路を疾走する車両に頭から躍りこんだ。菅季治(かんすえはる)の生の最後の瞬間だった。」(平澤著p. 7)

菅季治はこのとき32歳。哲学の学徒だった菅季治はシベリアに4年間抑留され、カラガンダの収容所で通訳の役目をしていた。昭和25年に帰還した「日の丸梯団」と名乗る引き揚げ者の一群は、自分たち日本人捕虜の帰国が遅れたのは共産党書記長の徳田球一がソ連に「反動思想を持つ者は帰すな」と「要請」したからだとして、真相解明の懇請書を国会に提出する。これはカラガンダの収容所で、政治部将校のヒラトフ少尉が捕虜からのいつ帰れるのかという質問に対し、「日本共産党書記長徳田球一氏より…思想教育を徹底し共産主義にあらざれば帰国せしめざる如く要請あり云々」と答えたということを指している。この通訳をしたのが菅季治であった。徳田球一は「私が反動を帰すなと要請したというのは作り話である」と「要請」の存在を否定した。菅は国会の引揚委員会に召喚され、執拗な質問を受ける。

「菅は…政治部将校が日本人捕虜の質問に答えたときのことを、「カクダー・ヴイ・モージェテ・パエハティ・ダモイ…」とロシア語を引いて説明した。そして「私は大体直訳する方が間違いないと、いつも通訳の経験から信じておりましたので」と前置きし、政治将校の言ったことを、徳田は「民主主義者として帰国することを期待している」と訳したと証言した。それに対し、保守党議員から矢のような質問が彼に集まった。それは期待ではなく、要請ではなかったのか、と。」(p. 198)

これが「徳田要請問題」といわれるものだが、ソ連が崩壊し、野坂書簡など様々な情報が公開されている今も、徳田書簡の存在は確認されていない。菅季治の自死は喚問の翌月であった。詳しい経緯は平澤の著書か澤地久枝の『私のシベリア物語』を読んでいただきたい。(澤地の本は長い間幻の書だったが今では古書店で簡単に入手できる。)もう一人の悲劇の通訳者とも言うべき菅季治は、戦後史の専門家の間では有名なようだが、通訳の世界ではほとんど知られていないため、あえてここに記しておくことにした。


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