お知らせ
■来月からこのサイトをMITIS(水野通訳翻訳研究所)ブログに変更します。研究所の活動内容は、研究会開催、公開講演会等の開催、出版活動(年報やOccasional Papers等)を予定しています。研究所のウェブサイトは別になります。詳しくは徐々にお知らせしていきます。
■『同時通訳の理論:認知的制約と訳出方略』(朝日出版社)。詳しくはこちらをごらん下さい。
■『日本の翻訳論』(法政大学出版局)。詳しくはこちらをごらん下さい。
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■川口良・角田史幸(2010)『「国語」という呪縛-国語から日本語へ、そして○○語へ』(吉川弘文館)が面白かった。タイトルだけなら、ああまたあの手の本か、と買わないところなのだが、たまたま本屋で手に取ってみたら、「国語と和語をめぐって」という章が目についた。たとえば、
「どんなに時代をさかのぼっても、日本語の実態として見いだされるのは、この漢語と和語、和語と漢語との相互作用、それらの相互変容、そしてそれによる両者の混合と混血でしかありません。」
そして、純粋な和語(大和ことば)の探求は「まったく虚妄」だと言う。その理由は(1)何の資料もないので原倭語がどのようなものであったか、そもそも存在したのかどうかもわからない、(2) 原倭語自体が多種の言語の混合・混血であると推定されるからである。「混合」とか「相互作用」というのは、たとえば「いわばしる」という和語は「いわ」と「はしる」による造語だが、それが結合するためには合成力が必要である。それは端的に言えば漢字の造語力である、つまり漢語の影響に浸透された和語であるというわけだ。この論理(仮説)は少し弱く、しかも語彙に限定されてはいるが、面白い。シンタックスの側面については、訓読とピジン・クレオール語との類似性を指摘する高津孝が、「文法的簡略化=助詞、助動詞の使用の減少、機能語の単純化」を挙げている。結局、日本語は昔から広い意味で「和漢混淆文」(その現代的形態が漢字かな交じり文)なのだが、和漢の比率の違いによって漢文読み下し風(強い漢文脈)から漢語の少ない和文脈の強い文章になるということだろう。
問題は明治以降、ここに欧文脈が加わったという点だ。大量の語彙はとりあえず漢字の造語力を利用して翻訳したが、語法や統語法はどうであったのか。言語接触(主に翻訳)によって語法やシンタックスはどのような変容を被ったのか。ここに翻訳理論上の問題があると思う。
■さて本木貞夫訳述『ニューナショナル第五読本直訳』(文盛堂)は明治24年初版で、これは明治31年の改訂第3版である。370頁ほどある。明治時代の英語の参考書というか「虎の巻」なのだが、初期は「独案内」といって、英文に訓をふり、それに番号を付けて、番号通りに読めば英文の読み下しができるようになっているものだった。それとは別に「直訳本」というのが発行されており、これは最初から読み下し体が基本である。同一の原本に対して複数の「直訳本」があり、著者(訳者)によって読み下しの仕方が違っている。いずれも原文は付いていない。言ってみれば、同一の原著に対して複数の翻訳があるようなものだ。大きな違いは直訳本には語句と文法の説明があることだろう。直訳の読み下し文だけのものが多いが、この元木の本は直訳の読み下し文の後に、よりこなれた「意訳」をつけている。
(直)曾てジェノアの共和政治が貴族と人民の党派の間に分裂されしときに 賤しき門地の人し高尚なる心の人で且優りたる才能の人なるユーバートが 彼自身に人民党の首領であるべく高めた所で 著しき時の間民主政体(デモクラチック、フォーム、オヴ、ガヴァメント)を維持せし
(意)昔ジェノア共和国政治が貴族平民の両党の間に分裂したるとき 門地卑賤なれども心志高遠にその才能他に勝れたるユーバートと云へる人 自ら平民党の首領と為て久しく民主政体を維持したり
原文は以下の通り(New National Fifth Reader)
Once, when the Republic of Genoa was divided between the factions of the nobles and the people, Uberto, a man of low origin, but of an elevated mind and of superior talents, having raised himself to be the head of the popular party, maintained for a considerable time a democratic form of government.
元木のこの本は、訳読の指導書として優れていると思う。彼の意訳は、安井稔の言う読解指導のための「補助線」に該当する。また、複数の直訳本を比較すれば、訳述者たちが何を直訳と考えていたかがわかるだろう。これだけでも研究の入り口になる。(独案内や直訳本の研究はあるにはあるのだが、こんなものがあったとか、こんなやり方をしているというだけの内容で、あまり面白いものではない。資料があればだれでもできる。そうではない別の視角が必要だ。)森岡健二は「蘭学以来、…発達してきた外国語の解読法が、ここに至って原文を離れた読み下し文となって、日本の文章としての独立性を主張し始めた」と述べている(『講座国語史第6巻文体史・言語生活史』(大修館書店))。ただ森岡の場合、欧文脈の形成に果たした直訳本の役割を過大視するのが問題なのだが。
■虎の巻で思い出したのだが、われわれの高校時代にも英語の虎の巻はあった。「参考書」と言っていたが、正式には何というものだったのか。今なら「教科書ガイド」であろうか。これもまた直訳本であり、内容はかなりひどく、実際にはあまり役に立たないものだったような記憶がある。
■ここのところ学会誌の編集作業にかかり切りになっていたが、今日ようやく入稿した。最後の最後でレイアウトの不備が見つかったり、誤変換が残っていたり、キリがないのであるが、本当はもうちょっと余裕をみて、いろいろチェックしたほうがいいのだろうな。ともあれ、去年は1月になってからの入稿だったから、何とか挽回したわけです。ただし発送は1月になります。
■それにしてもMS WordとAcrobatには手を焼かされる。まあこちらの勉強不足もあるのだが、ちょっと信じられないようなことが起きるのである。前回は罫線の処理で懲りたので、今回はできるだけ使わないようにした。それでもどうしても消せない罫線が一本残ったのでテキストファイルに落として再構成し、どうしても縮小できない図はスキャンしてjpegにして貼り付けるという「荒技」で切り抜けた。それから、修正しようとすると二重取消線がかかり、フォントの「文字飾り」のチェックを外しても直らないという、驚くべき書式があった。あと、余白や文字数、行数など同じなのにどうしても詰まって見える原稿とか…。どうぞ皆様、ふつうに書いて下さい。
■この作業と並行して大学の授業の準備をしながら、一月の立命館の国際会議の原稿も書いていたのであった。今回の会議には同時通訳がつくので、通訳者のための原稿である。しかしいくら原稿をもらっても、この内容では通訳者の方では大変だろう。どのみち全部は話せないから、短くやさしいバージョンを作る必要がある。(さらにPPT)も準備しないといけない。その他年末までに書かなければならない原稿がある。
■というわけで、中村さん、メルドラムさん、すみません。もう少しお待ち下さい。
■木通は「あけび」と読む。本郷5丁目の廃屋のようなところで見つけた。熟すと紫色や茶色になる(はず)。野生のはずはないから、この家の住人が植えたのだろう。
■毎日のように10キロから15キロぐらい歩いているので、午後は半日つぶれてしまう。先日柴又の帝釈天に行った帰り墨田区内でさんざん道に迷ってしまった。それなのに道を聞いてくる人がいる。おとといは矢切の渡しの対岸にドーム状の建物が見えたので金町で降りて松戸まで足を伸ばした。栗山浄水場の給水塔であった。途中に「野菊の墓文学碑」があったのでついでに立ち寄る。「野菊の墓」が松戸の江戸川近辺の話だったとは知らなかった。帰り道、例によって今度は荒川区内で迷う。ようやく千代田線の町屋駅を見つけて帰る。今日は今日とて、西武線の練馬駅から東上線の下赤塚に出て、そこから光が丘公園を周回して、また迷いながら何とか目白通りに出て桜台で時間切れとなる。というわけで、いろいろたまっているのですがブログの更新もままなりません。
■明日は例会があります。お忘れのないよう。