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まず、個より始めよ―― 被災障害者の過酷な現実から考える防災のあるべき姿

2011-11-25 10:17:58 | ダイバーシティ
(以下、DIAMONDonlineから転載)
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まず、個より始めよ――
被災障害者の過酷な現実から考える防災のあるべき姿
災害に強い町づくりを、過疎の町と障害者たちに学ぶ

 前回、東日本大震災の際、高さ2.7メートルの津波に襲われた北海道・浦河町で「完璧」に津波避難を成し遂げた「浦河べてるの家」の精神障害者たちのエピソードを紹介した。

 それでは、障害者が被災するとはどういうことなのであろうか?

「障害者」と一口に言っても、障害の程度や内容は人によりさまざまである。まず、比較的想像しやすい身体障害者の実例を紹介しよう。
障害者が被災するということ
――熊篠慶彦氏の体験

熊篠慶彦氏。特定非営利活動法人ノアール理事長。障害者の性のバリアフリー化に関する多様な活動を展開。

 川崎市宮前区在住の熊篠慶彦氏は、特定非営利活動法人ノアールを運営して障害者の性のバリアフリー化に関する活動を行う、極めてアクティブな身体障害者である。生まれつきの脳性麻痺により四肢が不自由なので、電動車椅子を利用している。

 3月11日、熊篠氏は、自宅で外出の準備を始めようとしたところ、地震に襲われた。川崎市は震度5弱であった。熊篠氏の住まいの中では、家具の転倒は起こらなかったが、本棚の本が何冊か落ちたそうだ。

 地震の発生後、川崎市ではすぐに停電が発生した。このことは、熊篠氏が外に出られなくなることを意味した。熊篠氏が外に出るためには、住まいに設置されている電動リフトを利用しなくてはならない。停電すれば、リフトは利用できなくなる。外出に備えて、電動車椅子のバッテリはフル充電状態だったが、それ以前に外に出ることができない。

 熊篠氏は、まず情報を得ようとした。何が起こったのか。電車は動いているのか。停電しているので、パソコンとインターネットは利用できない。非常時に備えて所有していた電池式のラジオで情報を得た。東京の都市圏に大混乱が起こっていることが判明した。熊篠氏は出かける予定を断念した。

 次に熊篠氏が行ったのは、友人知人たちに無事を知らせることだった。出かけるためにフル充電状態にしてあった携帯電話を利用し、Twitterとブログに「無事」と書き込んだ。この後は、電気の供給が復旧するまで携帯電話の電源をオフにしていたそうだ。いざという時の最後の命綱だからである。

 熊篠氏は独居で自立生活を営んでいるが、四肢の不自由な障害者が自立生活を営むにあたっては、数多くの電気機器が必要である。停電のため、それらは全く利用できなくなった。照明も暖房も利用できず、暗く寒い中で、熊篠氏は数多くの問題について思いをめぐらせた。食事はどうすればよいのか。米は買ってあるし、ふだんから、3日分くらいのレトルト食品の備蓄などの危機管理はしている。しかし、水とガスは止まっていないけれども、電気が使えない。ピザや寿司の出前を取ることも考えたが、電話は不通になっていた。結局、その晩は、冷凍庫にあったおにぎりをガスの火で煮込んで食べたそうだ。

 飲食すれば大小便が出る。しかし停電のため、トイレの局部洗浄機能は使えない。熊篠氏は「大が出たらどうしよう」と心配した。幸いにして、「大」は出なかったそうだ。

 暗くて寒くてすることがないので、熊篠氏は17:30ごろにベッドに入り、ラジオに耳を傾けていた。ベッドは電動ベッドである。熊篠氏はふだん、ベッドをさまざまな高さで利用する。高くして読書用の机がわりに利用することもある。もし、その状態で停電していたら、熊篠氏が自力でベッドに入ることは不可能であったと思われる。幸い、その時の電動ベッドは、熊篠氏がベッドから電動車椅子に移乗した時のままの状態であった。熊篠氏は自力でベッドに入ることができた。

 そのうちに、いわゆる「帰宅難民」の様子がラジオで報じられはじめた。もし熊篠氏が予定通り外出していたら、車椅子で「帰宅難民」になったであろう。

 各自治体は、災害時に障害者の安否を確認して避難などの行動を支援するシステムを提供している。川崎市にもそのシステムはあり、熊篠氏も登録していた。しかし、電話回線のつながりにくい状態が長時間続き、熊篠氏も携帯電話の電源をオフにしていた。結局、そのシステムを利用した連絡は、来なかったのか、来ても通じなかったのか判然としない状態であったそうだ。

 熊篠氏は、「宮前区の福祉課の職員の人数は5人か10人くらいだから、人数を考えると対応できっこないんですよ」という。

 ふだんヘルパー派遣を受けている介護事業所からの連絡もなかったそうだ。介護事業所は、どこもギリギリの少人数でやりくりしているので、このような非常時に対応する余裕はないことが多い。致し方ない事情ではあるのだが、結局、熊篠氏の安否を公式には誰も確認できなかったということになる。

 電気の供給は、22:00ごろに復旧した。熊篠氏は「停電はそんなに長くは続かないだろう」と楽観していた。その後の計画停電も、近くにJRの操車場があるため免れた。
震災後、ライフスタイルは一変
外出を控えざるを得なくなった様々な事情

 しかし、極めてアクティブだった熊篠氏の行動は、震災後、一変した。熊篠氏は「出かけるのが怖い」と考え、なるべく外出を控えるようになってしまったのである。あの震災の日、多数の健常者が「帰宅難民」となり、徒歩で数時間をかけて帰宅することになった。

 熊篠氏は、「障害者だからというつもりはないし、言いたくもないけど」と語るけれども、大型の電動車椅子に乗っており、タクシーを利用することのできない熊篠氏が「帰宅難民」となったら、健常者には想像を絶する困難があることだけは間違いない。

 また震災後、道路の路面の状況が変わったことも、熊篠氏に外出を控えさせる原因となっている。震災で陥没したり、陥没した跡が埋められたりで、路面の凹凸などの状況は大きく変わっている。しかし、そのような細かい路面情報はどこにもない。車椅子利用者は、自分が通過することによって路面の情報を集積して行動に役立てているのだが、震災などで大きく状況が変わると、情報の収集と集積をやり直さなくては安全を維持できないことになってしまうのだ。

 では、次に大きな災害が首都圏を襲ったら?

 熊篠氏は、「どうにもならないものはどうにもならないでしょう。行政に頼る・地域で支えるといったことが絵空事とは言わないけれど、そういう備えが機能しなくなるのが大災害の時でしょう?都市部のように集中していればいるほどリスクが大きいし」と語る。確かに、それはそのとおりであろう。
浦河町役場の取り組み
――自治体の限界の中で必要なインフラ整備

浦河町役場。職員約140人が、町民約14000人の生活を支える。

 では、精神障害者たちが完璧な津波避難をやり遂げた浦河町では、自治体はどう考えているのか。

 浦河町保健福祉課長・吉野祐司氏は、筆者に、「緊急時、自治体が災害弱者すべての避難を支援することは、基本的に無理だと思います。地域の協力をお願いするという方向にならざるを得ません」と答えた。

 正直なところ、筆者は驚いた。「無理」と明言する自治体職員に初めて接したからである。しかし、考えてみれば当然のことである。有事の際、東京23区と概ね同面積の浦河町に点在する災害弱者を、140人(平成22年4月現在)の浦河町職員が支援することは、現実的に不可能だ。

 では、自治体として出来ることは、浦河町の場合は何であろうか。

浦河町保健福祉課長・吉野祐司氏

「行政として行わなくてはならないことは、まず第一に現状の確認と、情報提供、避難所の開設です。その後、物資提供、健康ケアを行う必要もあります。物資も、地域住民全員に行きわたる量は備蓄できないので、足りない場合は、自衛隊や他の自治体に応援をお願いする可能性があります」(吉野氏)

 幸い、今回の震災では、避難所の必要性はそれほど高くなかった。もともと浦河町は、全国平均の数十倍の頻度で地震に襲われてきた地域である。住民は地震に対して非常な慣れがある。今回も、避難所に避難しなくてはならない差し迫った脅威があるかどうかは疑問であった。避難所に避難した住民の主なニーズは、「夜間に来るかもしれない津波が怖いので、海岸線から少しでも離れたい」ということであった。避難所の使用率が特に高かったのは、海の近くに住んでいる高齢者夫妻であった。ちなみに、3月11日の大震災の際の浦河町全体での避難率(避難所に来た人の比率)は11%だったそうである(この他に、知人宅等への避難・車で避難して車中泊といった避難行動を行った人々もいた)。

 浦河町企画課長・浅野浩嗣氏は、役所としてすべきこととして

「避難場所を作ること」

 を挙げる。学校・公園などがあれば、それらを利用するが、避難場所として適切な場所がない地域も多い。そのような地域には、民間の空き地などを避難場所として利用できるようにする必要がある。実際に、浦河町職員が所有者と交渉を行ってきた結果、現在はどの地域にも避難場所がある状態になっているそうだ。

 次に必要なのは、その避難場所に実際に避難できることである。そのためには、避難ルートを確保する必要がある。その手すりは、平時にも生活の利便性を高めるであろう。

 浦河町の場合、町の動脈といってよい「浦河街道」が海のすぐそばを走っており、その道路が被害を受けた場合には交通が利用できない状態になることが問題である。そこで、もっと高い場所に第二の道路を作り、地域と地域を結ぶ役割を担わせる計画があるそうだ。

「利便性が高くなり、安全性も高くなるのが理想です」と浅野氏は語る。
“地震慣れ”した住民の防災意識をどう高めるか

浦河町総務課参事(防災担当)・三澤裕治氏

 それにしても、インフラに関して可能な取り組みは多くない。より重要なのは、住民の意識を高めることだと思われる。この問題について、浦河町総務課参事(防災担当)・三澤裕治氏は「ふだんの防災意識を高めることは、簡単ではありませんね」と率直に語る。

「浦河町の住民は地震慣れしています。地震に対して、経験値があります。経験値がありすぎて、安心しています。だから問題なんです。そこで、生の情報を提供することにしました」(三澤氏)

 浦河町では、「何メートルの津波が来たら、どこが浸水するか」を予測した浸水予測地図を作成した。今月(2011年11月)中に全世帯に配布する予定である。「だからこうしなさい」と書いてあるわけではなく、ただ、浸水予想が示されているだけである。

「まず、ご自分で考えていただきたいんです。『津波てんでんこ』ではないけれど、個人の意識を高めることが一番大事だと思っています」

 それでは、考えることはできるけれども行動できない弱者はどうすればよいのか。

「町の民生委員さんたちから、『どうやって避難の必要な人たちを守ったらいいんですか』とよく聞かれるんです。そこで『まず、自分が“逃げるぞー!”と大きな声を出して逃げてください』と言っています。誰かが大声を出して逃げていれば、それを聞いて逃げる人が出てくるし、その逃げる人を助ける人も出てきます」(吉野氏)

 結局、自分で考えて自分で行動する人が数多くいなければ、共同体や公共には何もできないということなのかもしれない。

「よく、『自助共助公助』と言っています。自分を助けるのが最初。次に共同体での助け合い。最後に公共が支援させていただく。どうしても、この順序にならざるを得ません」(浅野氏)
まず、個人が自分を助けよ

 前回述べたように、「べてるの家」の完璧な津波避難の出発点は、清水里香氏の「津波の時にパニックになったら逃げられない、どうしよう」という個人的な悩みだった。清水氏の「助かりたい、自分を助けたい」という思いが、清水氏の住む「べてるの家」のグループホームのメンバーに共有され、国立リハビリテーションセンター研究所を巻き込み、浦河町を動かす動きとなったのだった。

「べてるの家」には、「自分助けは人助け」という格言がある。自分の困っていることを解決すれば、そのことで同じ悩みを持つ他の人も助けられる、という意味だ。清水氏の「自分助け」は、数多くの人を地震と津波の恐怖から救うことになった。

 熊篠氏の場合も、冷静な情報収集・判断・日常からの危機管理が、パニックや被害の拡大から本人を救った。山で遭難した時の対処の基本は、まず「うかつに動かないこと」である。状況を把握し、どうすれば確実に対処できるかが理解できるまでは、動くこと自体がリスクである。熊篠氏は停電によって外出できず、その状態で情報収集を行わざるを得なかったのだが、重度障害者の1人が自分自身の安全確保を行うことによって、どれだけ医療その他の社会資源の有効活用が行われたか。考えるまでもないであろう。

海すぐそばにある防潮堤。海抜4mの高さ。東日本大震災の際、浦河町を襲った津波(2.7m)から町を守った。だが、ハードウェアだけに頼らずに、防災時図などのソフトウェアに力を入れたり、住民の意識を高めることも重要だ。

 浦河町役場の吉野氏は語る。

「ハードウェア、インフラはなかなか作れません。資金の問題もありますし、作ったからといって役に立つかどうかという問題もあります。たとえば、津波から逃げようのない地域に、高さ30mくらいの『お助けタワー』を作ればいいんじゃないか?というご意見もあるんですが、着工途中に津波が来ちゃうかもしれないし、30年後、老朽化した時に津波が来て倒壊して役に立たないかもしれません。でも、ソフトウェア、意識や知識はその日から役に立ちます。だから、防災地図などのソフトウェアづくりや、地域住民の意識を高めることに、特に力を入れています」

 自分は災害時に何が怖いか。どのような災害から、どのように助かりたいか。

 まずは自問自答してみることが、より確実な防災への一歩かもしれない。

(ライター みわよしこ)

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