goo blog サービス終了のお知らせ 

たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

パチンコ

2010-12-25 09:27:26 | ココロ
ネットでパチンコの是非が話題になってます。どれが最初のキッカケかわかりませんが,dankogaiさんが書評の中で韓国ではパチンコが全敗されていると紹介した辺りからかな?

たばこの時もそうでしたが,ネットの住民は比較的パチンコに厳しくて,はまるのは良くないみたいな意見が強いです。でもパチンコ経験者は,開き直れないものの,パチンコにはまるしかない心情みたいのを語っていたりします。パチンコが悪いと言いつついいわけを書いたり反パチンコ論に反感をもったり

で,わたしが思うこと。

パチンコが酒やネットと比べてどこが悪いかというと,異性を捕まえられないからだと思う,っていうのは嘘ですが,酒とかと違うのは,人とコミュニケーションを取る事もなく,黙々と非生産的な作業をしていると時間が過ぎる。まぁタバコみたいに,他の人にたいして迷惑をかけるわけでもないのですが。それで,作業ができるように,飽きない仕掛けがそれなりにある。うまく行くと報酬がもらえるのも,その仕掛けなんでしょう。たいして難しい作業ではないけど,それなりに頭を使おうと思えば使える。書いていて,あぁ釣りのようだ…と思いました。一ヶ所に集められて,誰かが用意したものをやるという意味では,釣りというより釣堀の方があってるかも。ちなみに釣りって「究極の趣味」とかいうんじゃありませんでしたっけ。

やばいな…と思うのは,どうもパチンコとか釣りって,人間の本能レベルで,ひたすら続けられるような構造になってるんじゃないか?ということ。酒やたばこと違って薬物が快感物質を出すわけじゃなくて,もっと行動的な部分の原理に関わる気がします。ネットはコミュニケーションが関わるという意味では,人間はコミュニケーションではまる生き物なので,仕方がないと思うのですが,機械相手でずっとはまれる…っていうのが,何かヤバイ(悪い方の意味)気もします。人間が本来もっと何かのために必要なエネルギーを吸い取られている様な,だから逆にはまる…そんな感じがします。

もう一つ,田舎に行くとパチンコしか娯楽が無い…ということにもひっかかるんですが,ちょっとそれは次元が違う話なので,また別途書きたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コミュニケーションクロック

2010-12-22 23:15:58 | ココロ
言葉を思いついたので:-)。

言葉は思いつきなんですが,指す対象としては,例えば,e-mailをもらって,返事するまでの時間間隔。もらったらすぐに返さなくてはいけないと思う人もいたら,一日くらい置いても平気とかいう人とかいて,この二人がやり取りすると,不具合が起きたりします。そういう時に,「この二人はコミュニケーションクロックが違う」とかいうといいか:-)。

わたしは若い頃はクロックが速くて,携帯じゃなくてインターネットメイルでも,もらったら数時間内に返そうとかしてました。仕事のメイルでもオーダをもらったら,すぐに返そうとする…っていうのは今でもあるんだけど,ある時期,先輩から,返さないで様子を見るのもやり方…と習って,今は脊髄反射的に返すのではなく,ある程度考えて返すようにしてます。

で,同じ自分でも,メイルをもらってすぐ返す…と,すぐ返すというクロックなんですが,これが一旦返し損ねると,今度はキッカケがないと,なかなか返しづらい。普通の電話とかでもそう。クロックは最小単位は短いけど,そのクロックをまとめて大きなクロックにするには,どこかに段階があるような気がする。バッファサイズとか(笑)。

わたしとかはクロックが短い方だとは思うけど,だからクロックが長い人が,どうしてすぐに返事をよこさないのに,忘れないのか?…というのは疑問に思うことがある。長い人は長い…とは思えるけど,自分はそうできない。

…とかそんな感じ。まぁ歳をとり以前に比べクロックが遅くなってるっていう実感はあって,歳をとるとなんでもクロックは遅くなるよな…とは思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝ち取るという価値観

2010-12-12 21:53:19 | ココロ
「勝ち取ることが重要」という価値観があるというのを聞いたことがあります。これはどこかの地域…の話として聞いたのですが,そこの人達の行動を思い出してなるほど…と思いました。どことは書きません;-p。

わたしはあまりそういう価値観がありません。勝ち取るのは良い…と言葉だけで思う方も多いかも知れませんが,このニュアンスでわたしが感じたのは,うまく行ってるものでも,一旦ぶち壊して,自分がうまくやった…事にするとか,あと人の行為を受けるだけでは飽き足らず,さらに自分で要求して条件を良くするとか,そういうことです。つまり努力をせずにうまく行ったことには価値がない…という価値観です。

ここまで書くと確かにそれはやりすぎだろう…と思う人も多いかと思います。物事うまく行っていたらそれでいいじゃない…と私は思うし,別にいちいち自分の成果…を挙げなくてもいいじゃない…と思います。最初「地域」と書きましたが,会社とかでも,偉い人が新たにやってくると,前の人のやっていたことを全部否定して,引っくり返す人がいますが,そういう人も,多分以前のことがやりにくいというよりは,自分がこの場所を良くした…ということを勝ち取りたいのでしょう。わたしはこういう人は「迷惑だなぁ」と思うたちなので,自分はそういうのを目指しません。

実際,グローバルに見たときにどちらがスタンダードなんでしょうか?。でも奇妙な騒ぎを起こす人の中には,こういう価値観をもってるんだろうなぁ…,でもうまく行ってないだけなんだろうなぁ…と思うと納得できる事が結構あるので,案外そういう人は多いのかも知れません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意見で人は変わらない

2010-12-09 06:18:29 | ココロ
会社にしても議会にしても,巨大な組織の中で何かを決めるとすると,複数の段階で議論をすることになります。小さな団体やワンマン会社ではトップの一声で決まりますが,そうじゃないと議論をすることになります。

ボトムアップの場合,まず担当者が素案をつくります。ボトムの組織の中でもいろいろと議論を重ね,素案レベルから,提案レベルまでもっていく。その途中に関係各所で調整をして,後で問題にならないように,方向性などを調整していく。そうしていくとかなり緻密で完成度の高い案ができあがるわけです。

こういう作業は外から見えないところでだいたいは行います。その次にようやく,割とオープンな場所にその案をもっていきます。議会だったりパブリックコメントだったり,会社だと幹部会議だったり…。その場で更にいろんな意見がでたりするのですが,もうこの段階になったら,その意見を汲んで意見を変更して…というのは難しくなるように思います。まぁ多少文言をいじったら反映した様に見えるレベルの時はいいのですが,もっと大きな場合は無理。そこまで緻密にできあがっているので,どこかをいじると他に矛盾がでたりするわけです。

緻密に作り上げていればいるほど,独善的なるわけです。

そうなると後は,それは廃案にして無かったことにし,また膨大な手間をかけて一からつくり直すか,もしくはもう変えなくて力業で通すか…って事になるんだろうなと思います。つまりパブリックコメントにしても議会にしても幹部会議にしても,その意見を反映することは不可能。一からつくり直したら反映といえるかというと,時間がかかるので,再チャレンジの時はまた状況が変わっていたりする。

…そういうことなんだろうな…と思いました。いや別に,具体的に何のことをさしているわけじゃなくて,いろいろと調整事をやってると,人の意見をもらっても,あまりそれが反映されてるのを見ないな…,結局元のままなのね…みたいな。そういうのをみるなぁと。ちょっと謎なつぶやきでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人あたりという能力

2010-12-06 06:02:53 | ココロ
fujiponさんの「変えようとする人、変わろうとしない人」を読む。消極的で向上心が無い人だが,その人の存在に周囲は助けられているという同僚の話が書いてあります。後半にある観客がいなければプロ野球の試合も成り立たない…という話はまったくの同意で,わたしも優秀なトッププレーヤだけじゃなくて,普通の人,周辺の人,等様々な人がいないとその世界は回らないと思ってます。

ただ,この最初の例で上がった「変わろうとしない人」は,わたしには優秀な人に見えました。堅実で真摯で優しいと周囲に言われるってことは優秀だと思います。

ちょっと書くのをはばかられることですが,昔から思っていたことをちょっと書きます。わたしは高校か大学の頃って言うのは,結構芸術志向が強い生徒で,将来とある分野の表現者になろうかと思ったこともありました。具体的に書くと顰蹙を買いそうだから,まぁある分野とだけ書いておきます(^^;)。

芸術の表現者というと普通は作品がすべてであり,良い作品を作る人が成功する…とまず若い頃は思います。若い頃って言うのは,甘えや我侭じゃないけど,人に嫌われるようなことをやっても自分が大事にされるってことが良い…と無意識に思ってるようなところがあって,それが子供の非行行動とか親との衝突とかに出てくるように思います。そういうのもあってか,若い頃は,とにかく能力重視で,人あたりなんて関係ない…と思いがちですが,私はある日ふと,作品を作る能力はそこそこでも,人当たりがいいだけで,その業界で,ある程度のポジションは築けるのでは?と思った事がありました。

わたしは実際はその分野には進まなかったので,それが本当だったのか?は分かりません。ただ今研究というやっぱり能力が求められる分野の仕事をしてますが,やはり対人能力とかコミュニケーションというのは,研究成果以上に大事なものだと思ってます。また先日日記に夢を追うには生々しいことが必要と書きましたが,やはりここでも友達が必要みたいなことも書いてありました。

対人能力とかコミュニケーション能力とか書くと,あたかもそれが能力の様に書けますし,まぁ実際能力だと思うのですが,医療にしても芸術にしても研究にしても,その分野特有の技術とは少し異なるものです。ただ,わたしはわりと若いうちに,その技術と違う能力はとても役に立つと思いました。

fujiponさんの話に出てきた人は人あたりというよりは,別のものかもしれませんが,その性格が職場にいい雰囲気を与えているのであれば,やはりなにかそういう能力なのだと思います。本人は自覚してるのかは分かりませんが,そういう性格や能力が自分の価値を高めることっていうのがあるのであれば,そういう能力を肯定的にとらえ伸ばすってことも大事だと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すぐに答えが出ないこと

2010-11-30 08:00:00 | ココロ
科学真理教――ホメオパシー問題で思ったこと」というのを読んで。要は科学だって普通の人は実証実験を出来るわけじゃないし,論文を読もうにもどの論文がちゃんとした論文かわからないし,科学的立場で知るのは一般人には無理。だから一般人にとっては科学なんて権威のある人が信じている宗教みたいなもの,ってな感じのことを言ってます。

基本的には,その考えには賛成です。ただちょっと読んでいて,あまりにも消極的すぎないか?…という気がしました。自分が実証実験をするっていうのはさすがに,専門家の中でもみんながするのは無理ですが,文献を読むのも無理みたいに書かれてしまうと,少しはTRYしてくださいよ…と言いたくなります。

時間がかかるから無理,と書いたり,論文誌の格がわからないから無理みたいな感じですが,時間がかかるとダメなんでしょうか?。時間がかかるのを時間をかけて,ついでにいうとWebで検索するだけじゃなくて,本屋や図書館に出かけたり,詳しい人に聞いたりして回るから,その人の知識に価値がつくんではないか?…と思います。あと論文誌の格は確かにわかりにくいけど,専門家に聞いたり,引用関係とか調べていくうちにわかります。まぁこれは大変ですけどね。

もちろん,全てのことにそんなに時間がかけられないから,専門家を盲信する…っていうのもありでいいんですが,気になること,こだわることを,ある時期に一つとか二つとかもって,足を動かして調べることはとても良いことだと思いますよ。

こういうのをみていて,最近誰かが,今の人はすぐに答えが見つからないとダメ…って言っていたのを思い出しました。「ダメ」っていうのも,色々あるんだろうけど,とにかくしつこく調べる…事をあまりしない。無視したりとか,わからないと諦めたり…とかでしょうか?

ちょっと別のことですが,「がんの入門書ってあるのだろうか?」というのを読んでいても,わからない…と書いているのですが,がんのように,様々な種類があり,なおかつ状態によって治療法とかも様々な病気を,一冊の本でわかろうというのにも無理があるんじゃないかな?という気がしました。

わたしの場合,自分ががんになってからがんの勉強を始めましたが,多くの文献をあたってようやくイメージがつかめました。漠然としたまま保持するのって辛いんですが,そういう状態を経ないと,腑に落ちない物ってたくさんある気がします。今はWebでもWikipediaだけ調べてわかった気になったり,本も新書一冊で納得とかそういう人が多いのかも知れませんが,とにかくすぐに答えを出したがる人が多いのは,そうかもしれません。でも答えを出さずに,紋々と疑問を忘れないままもち続けること,それが重要です。

わからないまま考え続ける事自体が科学的…態度の一つだと言えないでしょうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正論の暴力

2010-11-17 05:45:36 | ココロ
紙屋研究所さんの「「休日くらいはゆっくりさせろ」とぼやくパパへの非難の件」は,子育て中の家庭で,元々「休日くらいはゆっくりさせろ」とパパがいうことに対して,子育てをしてるママは大変で,仕事なんてそれに比べて楽なんだから,そんな事言うなと書いていた別のブログが,ちょっと炎上気味な件について書かれてます。

ここでは子育てが大変か?という話が主旨じゃなくて,そういう正論を逃げ道なく書いたので,独身者とかそういう人達が逆ギレしてるよ。そういう言い方ってすべきなの?それとももっとやんわりと書いた方がいいの?みたいなことが主旨です。

これを読んでわたしは「正論っていうのは相手に逃げ道がないので,うまく使わないと,感情論でしかコミュニケーションがとれなくなってしまう」と以前から思ってることが頭に浮かびました。以前日記に書いた気がしますが,良く正論を言って「ドヤ顔」をする人がいますが,それって結構危険です。正論を言われて「ごめんなさい」を素直に言える人なんてむしろ稀です。言われた方が逃げ出すならまだいいんですが,逆ギレされたり,根に持たれたりそういうことになりかねません。そういえば今日は別のところで「今時は謝れない人が増えてる」っていうのを読みましたが,いや,日本人でも謝れない人っていうのは昔から多いと思います。

というわけで,トラブルぎらいのわたしは,正論を言わずに,うまく相手を諭した方がいいよ…とは思うのですが,紙屋さんが最後に書いている様に敢えて言って相手を逆撫でする方が,心に残るかも…っていうのは,うーん,一理あるような無いような…って感じです。

ところで以下余談ですが,子育て中の家庭で働いている父親が,休日休みたい…っていう気持ちはわからないでもありません。仕事で疲れ帰ったら家でも疲れて…っていうのは,まぁ心当たりあります。でも,働いている父親は,それでも仕事中にフッと息を抜いたり,仕事帰りにちょっと寄り道したりとか出来ないことはありません。それに比べると乳児を見てる母親(まぁ逆もあるんでしょうけど)は,一日中子供を見て,寝てるときも起こされて…なわけで,本当に逃げ道がないわけです。そう思うとやっぱりそれって少し贅沢で,せめて子供を保育園に預けたりとか,幼稚園にやって母親は家で家事のみをやってる時間が数時間はある…という状態になって初めて「少し休ませてよ」と言えるのかなぁ…等と思います。

まぁそれより休日は子供を預かって少しでも母親を子育てから開放してあげられるようにするのがいいんじゃないですか。だったらその分こっちも休む時間をもらってもいいというか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生は楽しい

2010-11-09 22:31:53 | ココロ
某SNSで「0歳の子供がニコニコと楽しそうなのを見てると,人は誰かに教えられるわけではなく,本能として人生を楽しめるのだな…と思った。」と日記に書きました

シンプルに書きたかったので,これ以上書いて無いのですが,言いたかったのは(とか書くと無粋ですが),子供って楽しいこと(何が楽しいか?)を教えられるわけではないのに楽しそうだ,っていうのを感じて,あぁ意味無く楽しいのが本来の人間なんだ…っていうことです。ですから,生きてること自体を楽しめないのは,ある意味本能がどこか狂ってるのだろうな,ということ。それは別に本人のせいではないと思いますけ。

もちろん,子供は泣いたり怒ったりもします。それは不快を避けたり表明して親になんとかしてもらったりするためで,不快感に対し感情を持つことは生きるためには重要なことでしょう。でも楽しいということ,それを表情で表明するということはどういう意味があるのでしょう。

大人に喜んでいることを訴えて,それをもっとやってもらうという目的があるかもしれません。でも大人が子供が喜ぶことをやってくれるとは限りません。いや,実際は子供が喜ぶと大人も喜ぶという本能もあると思うんですが。また無意味なことを楽しくて繰り返すことで子供は能力を身につけるという面もある様に思います。

ただやっぱりそういう面も含めて子供が楽しむのには理由が無いように思います。子供はただ何かをするのが楽しい。物事を知ると楽しいし,体を動かすと楽しい。それは不快を避けるために学習し動くのではなく,楽しいから学習し動くのだということです。

そう考えると本来は人間はやるべきことのすべてを楽しんでやるのが本能ではないか?役に立つかたたないか?すら関係なく楽しめるのが人間ではないか?。だから我々もなんだって楽しむことが出来る。子供を観てそう思ったというのが,冒頭の意です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遺族との関係

2010-10-23 07:12:21 | ココロ
産経新聞の「悲しみのない死」というのを観て,皮肉めいていうと最初,悲しみが無いのならいいじゃないとか思ったりしました。もっとも続けて,「放置される肉親の死 「ぬか漬け容器」の中に「遺骨」」なんてことが書いているので,悲しみが無い死というのは,誰も供養をしないってことなんでしょうけど,だったらそう書いたほうがいいと思います。

わたしは年寄りの死と遺族との関係は極めて家族の中の問題だと思ってます。リンクの例は亡くなった方がいくつか分かりませんが,たとえば80歳とか越えた人の死であれば,わたしは基本的には,充分に生きた上での死であると思うし,子供などの遺族との関係はその人にも多くの責任があるため,供養してもらえるもらえないというのは,やっぱり当人達の問題だと思います。

これが,乳幼児と親との関係になると,子供には何の責任も無いしこれからの未来を考えると,他人や社会が子供にたいして関与するというのはありかも,と思うのですが,老人が死ぬときに遺族に喜ばれようが,悲しまれようが,それはやっぱり本人の責任だと思うのです。

リンクの例は,結果的に,遺骨を他人に預けるという意味で,他人に迷惑をかけているので,けしからん話でしょうが。これが海に撒いたり,山に撒いたり…というのが,法律の許す範囲であれば,別にいいんじゃない?と思ったりします。

その人が死ぬときに,「もっと生きて」と思われるか「充分に生きたね」と思われるか「苦しさから逃れられて良かったね」と思われるか「やっと亡くなってくれた」と思うかは,面倒を観た人と本人の問題でしょう。これだけ介護疲れが問題となってるときに老人の死を「悲しみの無い」と批判じみて書くこと自体に,浮世離れした感じがします。人の死を無いことの様に扱う文明が,介護疲れを引き起こしているんじゃないか?とすら思います。

人は供養されることにより永遠の命を得ることが出来るとわたしは思ってますが,それは社会の問題じゃなくて遺族と本人の問題だと思います。第三者が問題にするようなことなんでしょうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時間の使い方

2010-10-18 23:11:10 | ココロ
ネットを見ていたら時間上手になるためのポイントなる文がありました。ほかにも似たような話があって,なんだろうね?今,時間の使い方が話題なのか?とか,ちょっと思いました。

で,少し自分のことを考えてみると,わたしの場合,結婚して嫁と住み始めて,ほとんど朝夕を自宅で食べているわけで,会社に遅くまでいることは稀です。毎日毎日延々と長時間働いている自覚はないし,昼の仕事中もみっちり時間が詰まっている感じでもない。そう考えると,自分は時間の使い方がうまいのだろうか?,単にサボっているだけなんだろうか?,とか思ったりもしたので,自分のケースを書いてみて,どうなのかな?と自問自答してみます。

ちなみにわたしは会社では研究職で,管理職でもあるので,研究とかマネージメントとか,開発とか,どこかの依頼仕事とかいろいろありますが,普通の仕事とはかなり内容が違うかも知れません。

会社の仕事をメインで考えますが,わたしは「やるべき仕事」「やりたい仕事」「やっておくべき仕事」というのはいつも意識して分類してます。あと,スケジュール感でいうと,「今すぐしなくてはいけない仕事」「○○までにしなくてはいけない仕事」「いつかやらないといけない仕事」「多分やらなくてもいい仕事」みたいのも意識してます。

やるべき仕事というのは,人のためにやる仕事で,お願いされたり,手助けをしないといけない仕事。これは優先度が高いし,内容も具体的で,アウトプット先も明確なので,取り掛かりやすいです。ただ人から言われた仕事はそれだけをやっていると,仕事に追われて終わってしまいます。それでいい人はいいんですが,わたしの様に研究をする必要がある場合,それだけやっていたら,新しいことを考える暇が無くなり煮詰まってしまいます。つまりそれはやりたい仕事ややっておきくべき仕事ですが,それをやる時間をつくるのは経験的に難しいです。依頼仕事というのは雑用も含めて,ょっとした時間があればできますが,やっておくべき仕事は結構自分でモチベーションを高めないと始められない様に思います。あと,雑用をやっていると,「仕事をした気になる」という問題もあります。

あとスケジュールの話。ToDoリストを使うとかスケジューラを使う…というのがいいのかどうかはわかりません。わたしはこれらも使ってますが,全ての仕事を書いているわけでもなく,基本的にはやる仕事は全て頭に展開しています。ToDoリストに書くのは,うっかり忘れそうな仕事…の場合が多いです。

やる仕事を頭に展開し,締め切りを考慮し,出来るだけ一つの仕事が短時間で済むように気を使って始めます。もちろん一つの仕事といっても,かかる時間は様々で,さっと一枚書いて終り…というのもあれば,実験やコーディングの様に数時間とか数日かかる作業もあります。わたしはあまり作業をしながら考えるのが得意じゃないので,作業に取り掛かる前に十分に頭の中でやり方を考えたり,その為の情報を集めるのに時間を費やし,短時間で出来そうと思ったときにやることが多いです。ですから,あまり一つの作業を淡々とやることは少ないように感じてます。あと一日でいうと,短い時間で済むことはなるべく早い時間に,時間がかかる仕事は午後…にやることが多いです。短時間で済む仕事は,進んでいる感じがするので,疲れにくいし,そういうのを早く終わらせておけば,数の上ではやる仕事が減るので,長くかかる仕事をしてるときに,気にならなくて済むからです。時間がかかる仕事を早くやると,その後ぐったりするし,一日がそれだけで終わってしまったりして,後で大変だったりします。

考えてみると,わたしが気にしてることは,モチベーションをどう高めるか?…のような気がします。やりたくないなぁ…と思ってるときは,どうやってそれをやる気にさせるか…とかを気にしてますし,どうにもならない場合も多いです。わたし自身は長時間の仕事をしていないつもりですが,実は結構精神的には仕事が溜まるとプレッシャーを感じるので,貯めないようにさっさと小さい仕事を片付けてるということなのかも知れません。あと,早く帰ると書いてますが,それは遅くまで仕事をすれば仕事が片付くと思っておらず,仕事が遅くまでかかりそうだったら,明日の早朝にやった方がいい…と考えているからです。それでもどうしても今日中に…という場合もありますが,それは多分年に数回あるかないか…です。

自分の仕事のマネージメントは結局のところ,自分の性格や能力に合わせてつくるべきですが,時間繰りとかはルールとして意識していた方がいいように思います。今日は特別とかいって遅くまでやってると,それが普通になります。毎日終電に帰れるのであれば,多分毎日19時にだって帰ることが出来るはず,わたしはずっとそう思ってそうやってきています。

…と書いて,なんかまとまらずグダグダになりました。やっぱり一日の日記に書くようなネタじゃなかったかな。整理してじっくり書いたほうが,いいかもしれないな,と思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする