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たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

僕らが電気をもっと使いたいといわなかったら

2011-04-08 21:36:02 | ココロ
僕らが電気をもっと使いたいといわなかったら,
どこかで温泉が枯れることは無かったのかもしれない。

僕らが電気をもっと使いたいといわなかったら,
どこかの村がダムに沈むことは無かったのかもしれない。

僕らが電気をもっと使いたいといわなかったら,
低周波を出す巨大な風の塔が建つことはなかったのかもしれない。

僕らが電気をもっと使いたいといわなかったら,
どこかの島が水位上昇で沈むことは無かったのかもしれない。

僕らが電気をもっと使いたいといわなかったら,
今,空や海に放射能が流れ出してはいなかったかもしれない。


僕らは本当にだまされたのだろうか?
不都合な真実じゃなく,都合のいい誰かの夢に自分から飛びついたのかもしれない。
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科学的思考が難しい人に納得させるには

2011-04-07 06:19:35 | ココロ
原発事故で放出された放射線が土や水や魚から検出されたというニュースが報道されてます。数値が出ては基準値以下だとか暫定基準値以下だとか,基準値を超えたけど直ちに影響が無いとかいろんな言い方がされてます。安全の線が出る数値にあわせて変化してる感じがします。ネットをみるとデマに翻弄されるなとか,科学的な思考をしろみたいな意見も聞きますが,上記の政府や学者の発表は,嘘じゃないけど判断基準自体を揺らしてるので,科学的な思考をしていても判断がしにくい様に思います。

自然科学に片足を突っ込んでいる私もそうですから,そういうものに縁が無い人にとってはもっとそうでしょう。ふと読んだ「科学では駄目な人たち。」という文では,どう政府や学者の見解を説明しても,ただ危険におびえパニックになる主婦たちの話が書かれてます。極端だな…と思いつつ,納得できない気持ちはわかるような気もします。

こういう人を納得させるにはどういう説明が良いんだろうとか,考えてるうちに,逆にこういう人(というか普段の自分も含めて)は何を持って「安全」を信じてるんだろう…と思いました。原発や放射能に限らず,世の中には自動車,病気,食べ物,泥棒,火事,そして天災など多くの命に影響がありえる危険はあります。しかしこれらの恐怖に対して普通はそれなりの折り合いをつけて暮らしてます。

科学的な説明というのはおそらく大きく二つあって,ひとつが「理論」もうひとつが「統計」だと思います。理論というのは原理的にありえない…ということです。たとえば,普通の地面から刀が生えてくる危険性等はたぶん理論的にありえない…といえます。水が燃えることとかそういうもある条件以外ではありません。こういうのを理論といいます。昔は科学というのは理論でした。統計は数学では比較的新しい考え方で昔はとにかく方程式を解析的にといて説明するというのが科学でした。

ところが理論で説明できないというか式で解けない事象が出てくると,統計を用いれば「ある程度の確かさ」で物事を説明できる…という理屈ができました。統計というのは統計と書くと難しそうですが,要は「経験」のことです。そしておそらく普通の人の多くは経験から物事を判断してるのだと思います。自動車事故に遭わない,火事にならないなどというのは論理的には説明しづらいけど,「めったに遭わないだろう」という統計的な理屈で多くの人は,まぁ安心だろうと判断します。

ところが私は先日,人は統計で考えることは難しい…と書きました。ここでいう「経験」と「統計」は実は物事(事象)をミクロ的にとらえてるかマクロ的に捕らえてるかという意味で違うのかな?と思います。統計は物事を一つ一つ見るのではなく鳥瞰的にみます。一方普通の人の経験は全体の人数ではなく知っている人が経験したことや,自分の目の前でおきたことというカウントになります。

つまり一般の人が理解をするには,理論で説明しても無理だし,統計で説明しても無理,ですが,自分の知っている人の経験談や自分が実際に経験する…ということの方で納得をしてしまうということでは無いでしょうか?。それはとても科学的な思考ではないのでしょうが,科学を裏づけとして説明しても個々の事例が具体的に説明されないとぴんとこないということだと思います。

統計を個々の事例に落とし込んで説明するのは,統計の元の意味からははずれ,いわゆる非科学的な思考に陥るのですが,ただ説明においてそれを使うのは必要なのかもしれない…と思いました。

とか書いておいて,放射能においては,ほとんどの人が実際に経験をしたことが無いので実際は誰かの経験談として話すのはとても困難なんでしょう。実際にTVとかに出てる有識者も経験談として話せる人は少ないように思います。まぁ難しいですね。それだけに顔が見える人が話すほうが良いんだろうなぁ…とは思います。
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確率では多分納得できない(タイトルが間違っていたので修正しました)

2011-04-03 23:53:11 | ココロ
先週にメモっていた文ですが。

原発の放射能の話とか,あと原発の危険の話とか,いま,論理的に語ろうとして,確率を使う人が多いみたいですが,たぶん,確率で議論をしても,普通の人が納得するようなおとしどころは無いように思います。

以前書きましたが人間は統計で納得することは出来ないのでは?と思うからです。もちろん,それは命題が自分に関するときの話で,第三者のことであれば,統計的に割り切るとか出来るんでしょうけど。

統計で考えると,100%か0%以外は「可能性がある」という言い方になってしまいます。可能性がどれくらいあるという話しにしかなりませんが,そのどこまでが安全なのか?というのを要は「自分で決めてね」と投げられてしまっているわけです。普通の人はもっと「安全」とか「危険」とはっきりいって欲しいんでしょうね。

ということで安心するわけでもない,とるものもとりあえず逃げるほどでもない…状態がまだまだ続くのでしょう。

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人災という言葉に人間への万能信仰を感じる

2011-03-25 12:02:12 | ココロ
今おきている原発の事故を「人災」という人をネットで見かけるのですが,わたしはそれには違和感を感じてます。もちろんここまでひどくなったのは,ミスや,運営上の問題があったとは思いますが,きっかけは地震です。これだけの大地震が無ければ,こういうことはおきなかったと思います。これを人災というと,我々が地震や雷や台風などで火事や家の倒壊を起こしたりしても人災といわれるのでしょうね。

それもあるのですが,「人災」ということは,そこに「人はそれを何とかできたはず」という前提があるように感じるからです。つまりこれだけの大地震が起きても,人はその被害を食い止める英知(?)があったということをいいたい,もしくは信じてるのでしょうか?。

わたしは原子力は「人間の手に負えない」とどちらかというと思ってます。地震や津波もある規模を超えると手に負えない…と思ってます。だからなんともならない部分があるとも思います。

同じようなことは実は病気でも感じます。医療ミスが問題になるとき,簡単な病気でも患者死んだ場合はミスでしょうが,もともと助からない病気だったのが,治療を受けたことで死期を早めたという場合に,医療ミスだといわれる話を良く聴きます。これもわたしは人為的なものというのには疑問を感じるのと,その中に人は病気をコントロールできるという考えを感じます。わたしはこれも違和感があります。

人は困難な状況を受け入れるべき…といいたいわけではありません。ただ,できないことを要求すると無理が出るのも事実です。そういう意味で,今回の事故を人災というと,人災は防げる,だから原子力はもっと推進できる…という理屈になりそうで,危険な感じがします。

あとついでに書くと,水力発電はダムを作る,火力発電は二酸化炭素を出す,原子力は事故を起こすとものすご被害が出る…ってことで,電気を求めるという行為自体が,いろいろ無理のある要求であるということもいえると思います。…前も書いた通り,これについてはわたしは答えを持ってません。
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人は常になにか一つ不安なもの

2011-03-15 22:52:19 | ココロ
昨日は計画停電で振り回された感がありますが,今日は多少職場でも落ち着きが出てきて,停電したらしたで対処しよう…みたいな感じになってきてます。一方今度は福島原発からの放射線が少し気になってきてます。今日の昼間に若干都内も濃度が上がったようですが,また下がってます。都内の放射線の量は全然たいしたことはないというか,レントゲンの方が遥かに大きい量なんですが,うちも乳児がいるんで,また上がったりしないのか?とか多少不安です。まぁ自分はもう年に何度もCTを浴びたりしてるので,もう気にしてもしょうがないのですが。

話が変わりますが,わたしがお腹を開いた手術をしてもう4年半ですが,実はまだまだ体に痛いところはあります。手術直後に思ったのは,お腹を数十センチも切っているのに,人間って案外痛みに耐えられるもんなんだ…ってこと。切って目がさめた直後は,切ったところより,カテーテルをいれた関係で肩が痛かったり,胃が痛かったりしてましたが,それが抜けて収まってくると,背中全体が痛かったり,下腹部がソケイヘルニアで痛くなったりでした。

興味深かったのは,その間,肩凝りとかが全くなかったこと。わたしは手術前はひどい肩凝りでしたが,手術後は全く気にならなくなりました。ですが,お腹とか背中とかの痛みが和らいできた手術数年後(2年くらいだったか?)ついに肩凝りが始まって,「あぁー手術跡より肩の痛みがましたか?」と思ったものです。

人は,痛いところっていうのは数ヵ所同時に感じるよりは,どこか一番痛いところを感じて,他の部分は気にならないのだな…と思いました。一方でお腹を切った痛み,背中が張る痛み,肩凝りの痛みはそんなに痛みの強さの差を感じてません。痛いところは一ヶ所だけど,軽かろうが重かろうが痛みは似たように感じます。つまりひどいところが治っても,同じような苦痛が他の軽いところで感じるということです。おそらくどんどん体が治っても,常にどこかはみを感じるのかも知れないなぁ…と思ってます。

話を戻すと,世の中にはいろいろ不安な状況があるのだけど,深刻さの度合いに関わらず,人は一番不安なものに頭を奪われる,それが収まってくると他の部分が気になる…と気になるものはなかなかなくならないだろうな…ということ。原発の不安はそのうちどうにかなるでしょうが,そしたらきっと他の部分が気になるんでしょうね。

不安を感じながらも,人ってそういうものだよね…とか思っております。
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人生に意味なんていらない

2011-02-23 23:17:19 | ココロ
fujiponさんが「人生の意味は?」と問うているのを読んで考えてしまいました。「意味」ってなんだろう?。意味は,じゃなくて「意味」の言葉の意味です。

生きている必要性とか,人生が大事とかそういう意味か?とも思いましたが,どうもわたしは「意味」というと,書き言葉で書けるような事の様に感じます。ですから,単純に「あなたが生きていることは大事なことだ」というのは,意味とは違う様に思います。

そういう風にふまえて書くと,わたしは「意味って必要?」と思います。人が生きるのにその人固有の「意味」って必要なんでしょうか?。わたしは必要ないと思うし,そういう「意味」が無いとその人の生に価値が無いという考え方の方がおかしいと思います。人は生きる意味がなくても,生きる価値はあるし,必要もある様に思います。

いつからか人には,個々の価値が必要みたいなことがいわれるようになって,ナンバーワンとか,オンリーワンとかとにかく個人に意味を求めます。でも人は多くの場合,誰でもいいけど,誰かがやらないといけないことをする必要があり,そういう風に生きている人も多いのです。それは誰でもいい事なので,個々の価値はありません。でも,「人」全体としては価値があることだと思うのです。

個々の価値はなくても,自分が生きる価値は日本では一億分の一くらいはあります。世界では70億分の一くらいはあるでしょう。人ひとりひとりは誰でも良くても,人がまったくいなくなると,人間は人間として存在できません。過疎になり困っている地域がある様に,別に自分ではなくてもいいけど,人がいないと,人は困るのです。

そういう意味では,みんなが生には意味があり,みんなの生が必要でしょう。個々の生に意味が必要なんだろうか?,そういうのをみんなが求めるから無理があるんじゃないか?,そういう思います。
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「笑う」の意味を考えない方がよい

2011-02-18 22:52:43 | ココロ
ネットで「(w には嘲笑が入っているので嫌い」という言葉を読みました。これと似た様な経験があるのでちょっと思うところを。

「(w」というのは2ch等で使われる「笑ってる」というサインです。雑誌とかのインタビューとかを読んでいるとよく「(笑)」という表現がありますが,これと似たようなもの…といえばそうかもしれません。

わたしがネットを始めたのは20年ほど前でインターネットのメイルとかニュースでしたが,当時わたしは,冗談を書いたり,相手の発言に面白かったよという時に「(笑)」というのを良く書いてました。

そのうち,数年たった後「(笑)」ではなく「(爆)」という表現を見るようになりました。最初わたしは意味がわからなくて「自爆」,つまり自嘲の意味かと思っていたのですが,どうやら「爆笑」の意味で使っている人もいるように感じました。「(笑)」だと爆笑以外に,「ニヤリ」みたいなニュアンスもあるので「(爆)」と「(笑)」は意味が違うんだろうと思ったのですが,たいして面白くなくても「(爆)」と書くので,もしかしたら同じニュアンスで使っている人もいたのかもしれません。というのは「(爆)」を使う人は「(笑)」をほとんど使わないからです。

さて「(w」ですが,これは「(warai)」が途中で切れたものだと思います。2chではローマ字入力で途中で途切れたままで書くことが多いので,こういう表現になるのでしょう。そういう意味でいうと「(笑)」と「(w」は途中で切れた…という以外は同じ意味になります。ただし,途中で切れてるのでいい加減に書いていると取る事も出来るかもしれませんが,そう思う人がいるかわかりません。また2chとかでよく見かける表現ですが,もともと2ch自体がふざけて書く内容も多いので,2chの文法で書かれている「(w」は「(笑)」よりふざけて感じる人も多いかもしれません。

ただ,今の若い人は,多分おちゃらけていることがカッコイイと思っていること,2chでインターネットに入った人は,それが汎用性のある文法だと思ってるかもしれない…ってことを考えると,必ずしもそこにふざけた態度があるかどうかは分かりません。

一方で古いネットユーザは,文字数を短いほうが美徳という価値観もあって「(笑)」と4バイト使うよりは「(w」の方が効率的だと思ったりもします(笑)。

というわけで,わたしは今は「(笑)」も「(爆)」も「(w」も,それを使う人の属性の違いは感じるものの,表現しようとするものは,多分差は無い…と思うようにしてます。

もっとも,人が真剣に書いている時に「笑って」反応すべきではない?といわれてしまうと,一理ある場合も有りますが,その場合どの表現も失礼…ということになります。

インターネットは顔が見えないコミュニケーションです。その場合,相手が悪意を持っているか,好意をもっているか,ふざけているか,真剣か…というのは,なかなかわかりません。わたしは基本的には,すべて相手は好意的に書いている…と思うようにしてます。そっちの方が精神衛生上良いので。やり取りの中で悪意を持っていると確信した場合はそういう対応をしますが,最初はどんなにけんか腰でも,そういう表現をする人だ…という風に考えます。

ちなみに実際に人に会う場合も同じように考えるようにします。ギクシャクしてる人でも,たんに緊張してるだけとか,そんな感じで。基本的に,そう思っていたほうが得の様に思います。相手が警戒してる時に,警戒やけんか腰で返すと,結構こじれますが,好意的に返すと,相手がけっこう肩透かし…になる場合が多いような気がします。まぁへらへらしていて怒られた経験もあるんですが,そういうこともあると踏まえた上で,でもそうしたほうが得が多いと思ってます。

…わたしのネットコミュニケーションや実際の人付き合いでの,ノウハウ…みたいな話でした。
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議論というのは論理的なようでいてバイアスが入っている場合が多し,それは隠蔽される

2011-02-02 22:35:30 | ココロ
現実世界でも時々思うけど,ネット上でなにかを議論していたり,なにかを論理的に説明し,自分の主張を通そうとしてるのを見ていて,良く思う事。それは,いろいろ理屈だって説明してるけど,多分結論が先にあって,そこに導くために論理づけているだけだよな…ということです。

例えば良く思うのが学生の語る理屈。ちょっと前にTwitterで高校生が学校の掃除をするのはおかしいとか,散々理屈を言っていたらしいです。あと学校で商売をしようとしたら先生に怒られたのもおかしいとか書いてるのを見たこともあります。

いずれも,あーだこーだおかしいと思う理由を説明してました。特に掃除の件は,アメリカなどは学生に掃除をさせないらしいので,そういう例を挙げたりして,学生が掃除をすることがおかしい…という論理を展開してました。

まぁ,それはそれで一理あるよなぁとは思うのですが,そもそも思うのは,「それってあなたが掃除をしたくないからそう主張してるんでしょ?」ということです。おそらく本人は,その真の自分の望みを,論理的に説明することで隠蔽し,本人すら忘れているじゃないか?という気がします。つまり本人は,自分は客観的に述べてる…と信じている…と。

実際の社会の議論も実は,理屈を述べてるけど,結論は主張者の感情的な望みであることが多いです。いろいろケチをつけて止めさせようとする理屈も,「単にイヤなんでしょ?」と突っ込みたくなることが多いです。物事の説明なんてある仮定をつくりそれを証明する説明をするというのが良くあるやり方ですから,全く逆の過程をたてても説明が出来ちゃうことがあったりするのです。実際ディベートの訓練では,論者の主張と関係ない立場の意見を通すために,全く反対の立場で,お互いが議論するというのをやるようですが,論理で導かれる結論というのは,その程度のものな気がします。

学生が理屈で論破しようとするとき,その本音とそれを補強する様が見えちゃったりして,なんか要はその人のわがままに見えちゃうことがあります。大人の社会でももちろんそういうこともあります。ただ大人は敢えてやっているのが,学生とかだと本気でそう思ってるんじゃない?と言う感じの場合が多く,なんか痛く感じるんだろうな…という気がしました。

ネットだと相手を論破するときに,相手が本当に間違ってるとか自分の主張が本当に正しい…といいたげな論理転換をする人が多いのですが,そんなに強くそんなこと言えるのかしら?と思います。それを芸風にしてる人なら愛敬も感じるんですが。

そういえば,Twitterになって,炎上が減った…と言われてますが,実際はどうなんでしょう?。
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成人式の日,大人になった

2011-01-11 22:15:34 | ココロ
昨日は成人の日でしたが,ちまたの成人式には特に興味がないので自分の成人の日の思い出話を。

わたしは成人の日成人式に出ませんでした。この年わたしは大学生になり実家を出て,隣の県の大学の寮にいましたが,実は住民票は移してませんでした。従って成人式に出るためには,実家に帰って,出る必要がありました。もっとも住民票を移しても,大学に入って一年目の冬だし,そこに誰か知り合いがいるという感じでもなかったように思います。

わたしが成人した頃は,まだ昨今の様に成人式が荒れる…というような話は無く,当事者達にとっても成人式というのは,市が主催する地味な会…という印象でした。そういうのあるのでしょうが,なにかわざわざ実家に帰ってまで出るのも面倒という思いもあったように思います。ですが,わたしが成人式に出なかった一番の理由は,おそらく,そういう通過儀礼的なことをするとか,普通はするようなことをするとか,そういうことに対して,何かかっこ悪い…というような,天邪鬼の様な感情だったような気がします。この頃の私は多分反抗期のほぼ終了期に近い頃で,まだこういう意味の無い反発心が残ってました。

反発心というと,高校の頃はまだ大人や親がやれということに対して無意味にやらないという行動を良くとってました。成人式以外にも確か受験生のとき,わざわざ親が受験の祈願に神社に連れて行ったときに,「神頼みとか,おかしい」とか屁理屈をつけて,車から降りなかったことも覚えてますが,とにかく,この時期はこういう感じでした。

成人式は親に勧められたのか,周りに進められたのか覚えてませんが,結果的に何か意地になって出ませんでした。よく覚えてますが,当日は休日ですから,大学の寮に一人残っていました。住民票を移している同級生は近所の成人式に出かけてたり,実家に帰って出ていたりした人もいたようです。後で聞いたら,実家の方の成人式もちょっとした同窓会みたいな感じで楽しかった…とかいうような話も聞きました。

というわけで,わたしの成人の日は一人大学の寮で,ぶらぶらして終わりました。それで気にしないのなら別にいいのですが,なんとなくわたしはその時,寂しい気分になったのです。そして寂しい気分である自分を見て,成人式に出ないというのは,本心というよりはつまらない意地や見栄で,そんなことで誰も感心しないのに,自分だけが損をしたというむしろそっちの情け無い気分が沸いてきました。

わたしはその時以来,意地で自分の本心と違うことをすることは,何の得にもならない…と悟りました。こういう儀式的なものもそうですが,行為をもっている人に辛く当たるツンデレもそうです(笑)。天邪鬼はろくなことが無い…とそのときから思って,そういうことはしないように生きるようにしました。あとついでに,伝統がある通過儀礼は,それなりに意味があるし,やって楽しい場合がある,人と一緒のことをするのは,別にみっともないことではない…と思うようになりました。

そして今に至ってます。そういう意味でわたしにとって二十歳の成人の日は,天邪鬼をやめたという意味で大人になった日でした。
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わたしの人生の目的

2010-12-29 18:09:55 | ココロ
ちょっとネットをみていて思ったことを。

dankogai氏の「才能を、換金できるようになった」という文とか読んで思ったことですが,元の内田先生の話や,それを受けたdan氏の文全体を読むと,わたしが思ったことが,的外れな気がしたので,直接の反論というのは辞めます。

思ったことは,自分が働く…というか趣味も含めてですが,何を目的に生きているか?という話。子供を残すとかそういう部分はおいておいて(それもあるんですが)。

わたしはお金持ちになるために頑張っているという意識はありません。わたしがおそらく一番望むことは「発言力を持つこと」です。発言力を持つっていうのは,自分の話を聞いてもらえる,自分が他人に影響を与えることが出来る,という意味です。以前出世したかった理由を書き,そこで仕事の視点を高くしたいということと,責任を持てる事を理由に書きましたが,それも発言力を持つということに繋がります。おそらく発言力をしっかりもてたら,お金は食べていける程度にあれば充分だと思うかもしれません。いや,もし安心して食べられるというほどの発言力があればお金も要らないかもしれません。

発言力を持つということはお金を持つこととイコールではありません。もちろんお金をたくさん持っていれば発言力を得ることは出来るでしょう。でも,お金は手段でしかないし,お金では得られないような発言力というものもあります。

だいたいdan氏も充分に富を得てるのにブロガーをやってるのもお金のためではなく発言力を得たいからでは?とか思ったりもします。もちろんすべての人がそうだとはいいません。人と関わるのが本当に嫌いな人も入るでしょう。でも,富を得たい,お金を得たい…,名声を得たいと思ってる人の中には,発言力や,他人に対して意の影響力を得たい…ということが根底にある人も多いのではないでしょうか?。

そう考えると内田先生が書いている才能というのも,お金や名声に換えて終わるのではなく,他の人に贈与するというのも,発言力を持ち続けるには相手にプラスの影響力を与え続ける必要があるってことの様にも思います。

わたしには,会社で成功するのも,社会で成功するのも,異性に好かれるのも,発言力を得るための手段の様に感じられます。ですから,それ自身を目的だと意識すれば,ゴールはいろんなレベルがあり,近道でたどり着くことが可能の様な気がします。
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