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たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

表現欲求とつぶやき

2010-10-04 14:54:57 | ココロ
「表現欲求」という言葉があるかは知りませんが,たぶんわたしはそれが強い人間だと思います。ここでいう表現欲求とは,とにかく自己表現をしたくてたまらない,すると楽しいということをいいます。「承認欲求」という言葉を聞いたことがありますが,どちらも多分重なる部分が多いとは思います。ただ承認欲求は最終的に自己のアイデンティティを認めてもらいたいという欲求があって,そのためにいろんな表現をするもので,表現欲求は相手が認めてくれなくても表現をすること自体が楽しい。ただし誰も見て無いところに表現をするのはそんなに惹かれない…という感じでしょうか。

わたしは音楽を演奏したり,絵を描いたり,ネットに文章をアップしたり,また仕事でも人前で喋ったりプレゼンをしたり…そういうのが好きな人間です。わたしにとってはこれらはすべて表現欲求を満たすものですから,全部同じ衝動としてやっているような感覚があります。つまりわたしにとって人前でギターを弾くのも,会社でプレゼンをするのも同じような感覚です。ただし承認欲求と違うと思うのは,受けなくてもあまりめげない,ネットの文章も,誰も反応が無いけど,それでも続けられている。もちろん誰かの反応があって誉められば,とてもうれしいけど,反応が無くても「続けることに意味がある」とか人前で喋るという行為自体に快感を覚えているので,承認は二の次になっているのでしょう。

わたしは表現欲求は誰にでもある欲求だとおもっていて,実際に自分の子供とかにそれはありそうだと感じてますが,人に言われたりするところをみると,わたしの表現欲求は強いほうなのかもしれません。音楽家や芸術家がマルチな才能を発揮するのも,それは才能があると言うよりその人の表現欲求が強いのであらゆる手段で表現を行っているだけ,とわたしは思っていて,それって普通…と思うのですが,そういわれないところみると,やっぱり一般の人の表現欲求は少し弱いのかもしれません。

ただわたしは自分の表現欲求が強いことは役に立っていると思っていて,上に書いた様な仕事上のエネルギーにもなっています。承認欲求と違って失敗してもめげないので,そういう意味でもいいのかもしれません。

ですので,わたしは昔から…そう大学時代から,そのエネルギーがどう使うか?というのは結構意識してきてます。よく思うのが,表現欲求が高まっているときに,人に話したり,メイルで話したりすると満足してそれで終わってしまう…ということ。若い頃,メイルを山の様に書くと,なんかそれが雑談であっても,妙に満足して,一日が終わってしまう…みたいなことがありました。ですから,その溜まったエネルギーを無駄に消費しないように,どこに出していくか…というのはとても気にしていたりします。実際いまここで日記を書くのもエネルギーの無駄遣いなのですが,でも溜まったエネルギーを消費せずに消してしまうのもエネルギーの生産能力が下がるので,寝る前のガス抜きと,訓練という意味でやってます。ただ,やっぱりこういう文章を書くタイミングは結構気にします。

さて,そういう意味でいうと,今はやりのつぶやき,これも結構表現欲求を非生産的なところで消費してるんじゃないのか?みたいな事を思います。まぁつぶやきに限らずブログもSNSもMLもnetnewsも全部そういうものだったという気はしますが,ちょっとつぶやきはより一般的に広がっているので,エネルギーが失われることによる社会的損失も結構あるだろうなぁ…みたいな事を思います。

最近は子供や学生もネットをしますが,心配なのは折角のエネルギーを非生産的に消費してしまって無いか?ということ。わたしはやる気やエネルギーをどこに持ってくるか?というのをわりと意識して行動を選択してますが,多分学生や子供はまだそこまで出来ないでしょうし,いろんな方向にエネルギーを出すことが出来るということを知らないとひとつのことだけを追い求めてしまう。携帯を手放せない子供を観ると,そういう心配を感じてしまいます。
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プラシーボとお布施

2010-09-25 15:00:36 | ココロ
作家の松浦晋也氏がホメオパシーはプラシーボ効果を高めるように発展してきたのではないかと書いてるのを読んで,あぁ,そうだろうな,と思いました。その通りだと思います。リンクのページはもう会員登録しないと読めない様になってますが,そういうことが書いてあったように記憶してます。この方はこれを少し否定気味に書かれているのかもしれませんが,私はむしろプラシーボ効果を高める研究があってはいけないのだろうか?とも思います。

実はずいぶん前,わたしが宗教的なことに興味を持っていたときに,無害な宗教は作れないだろうか?と考えたことがあって,その時に困ったのがお布施のこと。信者に大金を出させる宗教は怪しい…とは思うのですが,大金を払わせることによって,信者の俗への執着を捨てさせることが出来ることも出来るわけです。現代人はなんだかんだでお金を信仰の様に信じており,それゆえに,お金という物差しを持ち込むと精神的に揺さぶることが出来るわけです。

宗教が本当に神秘的な力を持っていれば,お布施なんて不要だろうと思うのですが,お金が不要であっても,お金を信者に払わせることは,それなりの効果があるんだろうなと思ってました。

ですから,同じようにプラシーボ効果を高めるための手段として高額なお金を払わせるというのは有効なんだろうな思います。プラシーボ効果も「(不確実ですが)効果」はあるのですから,まったくの無意味ではありません。自己暗示みたいなものです。

さて,一方で最近医療費の高額化が話題です。保険診療は患者の負担額に上限がありますが,それゆえに国の財政を圧迫したりしてます。癌とか有効とされる新薬が一月に数十万円とかするとか聞くと,それって本当にそんなにするんですか?とも思います。薬の値段は材料費や製造費ではなく,開発費が乗っかってきてるので,実際の根付けは多分ビジネス的な観点で決まっていると思います。日本の認可の条件に価格が含まれているのか分かりませんが,認可が取れれば患者の自己負担を超えた額は保険組合が払うわけで,使う医者や患者は躊躇しないでしょうから,薬メーカとしては高くつけておいたほうが美味しいのかも知れません。

薬だってもしかしたら高いほうが効くと患者に思わせているかも知れません。ジェネリックがある薬でさえ,そうじゃないほうが効く…という話を聞くので,薬は高いほうが効くという信仰はあるんだと思います。さらに日本で治療が出来ない病気を海外に行って数千万円使って治す…という話もたまに聞きます。

もし薬は高いほうが効く,とかお金を大量に使えば,普通は助からない病気が助かる…という考えがまったくなくなり,値段と治療の有効性は無関係である…というのが常識になったら,もしかしたら,プラシーボ効果のためや,信仰の有効性として大量のお金を使うという考えも無くなるかもしれません。そうなればいいのにな,というか医療費安くならないかな…とふと思いました。

プラシーボ効果ってもっと科学的に研究されてもいいと,私は思います。
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あの人が出来てるから何とかなると思う生き方

2010-09-24 05:51:12 | ココロ
だいぶ前からちょくちょく思うこと。

わたしは自分があることを出来るかできないか?というのを考えるとき,自分以外でも出来てる人は結構いるから大丈夫だろう…という考え方をわりと良くします。いいのか悪いのか良くわかりませんが,それであまり大きな痛い目にあったことがありません。全然無いわけじゃありませんが。

でも世の中には多分逆の「人は出来ても自分は出来ない」という考え方をするか,もしくはそういう風に考えずにただ出来ないと思う人が多い様に思います。まぁ単に言い訳としてそう考えているだけかもしれませんが。

誰にでも訪れそうな例で挙げれば,例えば,就職で出来るできないという話,あと結婚できる出来ない,特に結婚して家族を食べさせることが出来るか?とかいう話,そして子供を作って育てられるか?とかいう話。この手の話で出来そう無いとやる前にいう人が結構見かけます。でも私は,自分以外の多くの人が,結婚して家族を食べさせたり,たくさんの子供を育てたりしてまぁ何とかなってる。すこしうぬぼれた言い方をすると,そういう人には,自分より稼ぎが少なかったり,能力的にも人それぞれだったりします。だから,自分も多分何とかなるでしょう…と思って,結婚したり子供を作ったりしました。就職は自分ははるか昔だし状況も今とは違うけど,やっぱりいろいろ自分で条件をつけなければ,働いて食べていってる人がいると思えば,やっぱり自分が今そういう状況でも,まぁなんとかなるんじゃ無いかという気がします。

仕事の方でも,もちろん自分より優秀な諸先輩は山の様にいるけど,そうでない人もそれなりにいて,その人たちも何とか役割をこなしていった…という事を考えると,多分何とかなるだろう…ということを常に思ってます。失敗しないと考えてるわけでも無いけど,失敗しても,いろんなことで,まぁ何とかなるだろうと。

こういうことを考えてると「甘い」といわれるかも知れませんが,でもやる前に障壁を作ってやら無いよりはやった方がいいかと思うことも多いし,でも何でも無鉄砲にやるのではなくて,自分以外にちゃんとやってる人のお手本が見えていれば,いざというとき,その人たちがどうやってるかを見習えばいいというのもあります。

もちろん何かをやるときはあきらめなくてはいけないことも多いです。子供を持てば独身時代の様な生活はできません。でも多分それも含めて何とかなるんでしょう,独身時代の様に生活せずに子持ちとして生活をすれば多くの人がそれに我慢できてるように我慢できるだろうと始めたら,それはそれなりに楽しかったりもします。

ちょっと汚い言い方ですし,自分より劣ってる人を見るというのは,更に汚いことの様にも思いますが,ただ理想ばかりみてデッドロックになるよりは,そこまで行っても何とかなるんだよな…と気楽に人並みに生きればいいように思います。
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コミュニケーションとタフネス

2010-09-03 21:44:11 | ココロ
昨日の続き。

会社で出世してる人はコミュニケーション能力が高いというより,タフな人が多い…と書きました。でも良く考えたら,確かにコミュニケーション能力が低いのに,タフで出世してる人はいるけど,コミュニケーション能力が低くて,なおかつナイーブな人もいるわけで,そういう人が引き籠もりになるのかな?とも思いました。能力が低いことを悩んでしまうわけで,まぁ当たり前と言えば当たり前か。

で,じゃぁナイーブな性格を治せばいいとしても性格を治すのは大変だから,能力の方をあげなきゃ…と思うんでしょうね。確かに普通は性格よりも能力を意地る方が簡単そうです。

でも,わたしはそうでもないと思っていて,能力を身につけるにはたくさんのやることがあって結構道が長い,性格は難しいけど,うまくコツをつかめば道自体は短いんじゃないか?という気もします。自分自身が,結構幼少時に,考え方を変えようとして変えて,結果的に「外から見える」性格は変わったように思うので。

性格を変えるというのは根本的には難しいけど,経験や観たり聞いたりした事に対して,その時に感じるままに感じるのではなく,知識として「こういう風に捕えればいいんだ」とか思うようにしていると,案外変わってくるものです。つまり「こういうのはよくあることだから怖くないんだよな」とか思ってると怖くない。怖がりな性格を治すことは難しいけど,怖いものを減らすことは出来て,それが積み重なっていくと,案外怖いものは世の中にないな…とか思えるようになってきたりします。

そういう意味ではコミュニケーションスキルを身につけるというより,そんなものがなくても,案外なんとかなるとか,最低限これくらいでければ良いとか,あと結構この人何も考えて無いんでは?とか,そういう知識と考えで,タフになるんじゃないか?という気もします。

ちょっと話がそれるけど,今日もタダノリ社員問題の記事とか読んだのですが,わたしはコレ読んで,経営者は大変だなぁとは思ったけど,同時に,こういう風に働いている人も結構多いよねぇ…とも思いますし,こういう人がある程度いても会社が回るようにするのが経営者やマネージャだろうに…とも思うわけです。

まぁ実際にタダノリの人が本当に増えてるのであれば,社会全体としては問題なんだけど,ってことはやっぱり別に世の中の殆んどの人はスキルが高いわけじゃないよな…と思うわけで。

結局,能力をあげるよりもタフさを鍛えるような訓練をした方がいいんだろうなぁ…とも思いました。「能力よりもずぶとく生きて成功する」って誰かそのうち本を出すんでは?とか思ったりもします。
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コミュニケーション能力要求は本当に高いか?

2010-09-02 21:06:24 | ココロ
「コミュニケーションスキルを過剰に要求する現代社会が、多くのひきこもりを生んでいる」とひろゆき氏が言ったという話。

一見なるほど…とも思ったのですが,いやいや,要求って高まってるんだっけ?,高まってるかもしれないけど,別にほとんどの人は,その要求にこたえてないけどなんとかなってるのが現実じゃないの?,とかおもってしまいました。

わたしの印象だと,コミュニケーション能力が高い人ってそんなにいないんじゃない?という感じです。わたしが思う「高いコミュニケーション能力」がもしかしたら,ここで言われてるものより遥かに高いものって気もするけど。

実はちょっと前に自分の思うコミュニケーションの本質みたいな事を日記に書こうかと思ってました。そこでは,ほとんどの人がコミュニケーションが取れてない,若い人も年配の人もほとんど相手が何を言ってるのか理解せずに,まぁ何とかなってるけど,ちゃんと能力がつけば,その中でぬきんでることが出来るよとか書こうかなとか,そんなこと考えてました。もっとも今社会に出て行けない人たちが壁に感じてる能力はもっと低いのかもしれないけど。

多分要求されてるレベルは,良く知らない人と澱み無く会話ができるとか,ニコニコできるとか。あと上司とか先輩に食事とか飲み会とか遊びとかに誘われたら,まぁある程度は従うとか(確かにさじ加減は難しいが)。それくらいかなぁと。相手の言ってることを理解するとか,適切に返すとか,不快にさせないとか,ライフハックでは要求してくるけど,実際そんなこと出来てる人なんて稀だと思います。みんな勝手な思い込みで動いてるなぁ…と良く思いますし,それでも出世してる人は多いです。

まぁ勝手な思い込みで動いて,ぶつかってトラぶることは多いけど,成功してる人に共通して言えるのは,彼らはめげない。だからむしろコミュニケーションスキルよりもタフさとか思い込みの強さの方が世渡りには大事なんじゃないか?という気すらします。
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信仰とか宗教とか科学とか

2010-08-27 23:23:48 | ココロ
PDFへの直接リンクですが,日本学術会議会長のホメオパシー対してのコメントが発表されました。ネットやメディアでちょっと話題になっていて,例えば毎日ではこの様に報道されてます

ホメオパシーや擬似科学を批判しているネットユーザはこのコメントを読んでホメオパシーが否定された…と喜んでいるようですが,わたしはあまりそういう風には読んでません。毎日の記事も重要な事が抜けています。会長のコメントは「医療関係者がホメオパシーを用いること」「科学として扱うこと」を危惧しており,最後の注釈で「個人で使うのは自由」と書いてます。そういう意味ではちゃんとバランスを考えたコメントになっていると思います。

さて,わたしは以前書きましたが,医療にズルはないということで,ホメオパシーを万能と医療ネグレクトを起こしてしまうことには反対です。ただ一方で,個人がやって効くなら,気持ち良くなるなら,納得するならやればいいと思ってます。プラシーボ効果だから意味がないと批判する人もいますが,プラシーボ効果でも,科学でも,神の力でも効けば意味はあるし,気のせいでも心地好くなれば有用だというのが私の考えです。ただし代替医療で高額のお金を要求するものは,あまり信用できない…というのもわたしの考えなので,その辺は冷静に考えるべきでしょう。

会長のコメントで有効な医療を受ける機会を逸する事が問題と述べているように,医療の機会を逸しないなら,別にホメオパシーと医療と療法やればいいんじゃないか?…という気もしてます。



以前から気になってることで,ネットでは擬似科学を強く批判する声が割とあるのですが,科学的に証明されてないから嘘だとか無意味だとか悪だ…みたいな事を,あたかも勝ち誇ったようにいう人が多い様に思います。ではそういう人に問いたいのは,じゃぁ信じている科学は,それを証明した論文や権威のある実験報告を,ちゃんと読んだことあるんでしょうか?,もしくは自分で実験したことがあるんでしょうか?。もしないのであれば,それは偉い人が言ったから,本に書いてあったから…と盲信してるだけで,それこと科学的態度というより信仰ではないか?という気がします。宇宙がビックバンで始まったと信じている人は,それを観てきたり,証明を読んだりしたのでしょうか?

科学者は擬似科学のような事が起きたときに,それが正しいかどうかを意見レベルで問われたら,非常に慎重に答えます。それは正しいことが証明出来ないと共に,全くの嘘だというのも証明が難しいからです。もしかしたら現代の科学で説明できないことが潜んでるかも知れない…と常に科学者は思いますし,そういうことを思っているから科学の研究ができるわけです。

もう一つ書くと,科学だから良くて非科学だから良くないというのもおかしな態度です。科学者は多分科学が万能だとか殆んど思ってません。海外の科学者の中には宗教を信じている人も結構います。自然科学の科学者は真実を解き明かしたいと思ってますが,一方でものづくりをする人や応用学者は,真実よりも有用であることを重視する人もいます。わけがわからなくても効果があればそれは有用なのです。

わたしは科学にしても宗教にしても哲学にしても擬似科学にしても…,それが自分に役立つのであれば用いればいいと思ってます。ただ自分は科学者でもあるので,自分がいまどの立場で物事を考えているかは意識してます。そして怪しいものかどうかを見分けるのに使うのが一つは上にあげたように「信じることに対して高額(布施や購入費)なお金を要求するか」ということです。そしてもう一つが「排他的であるか?」ということです。

この考えは正しいので他のは嘘です,間違いです…という考えはわたしは怪しいと思ってます。なぜなら,排他的に信じさせるのは強いミームの条件で,これを信じると冷静に物事を判断しにくくなるからです。

そういう意味で言えば,擬似科学はおかしいという科学信仰者にもわたしは賛同できないし,逆にホメオパシーを施術してるから,医療を受けなくてもいい…という人がいれば信用できません。科学も他のものも決して完成されたものではなく,未知への道はまだまだあると思っているからです。道途中では,交わることがないので,体系的には併用できないかもしれませんが,それぞれを有用な風に利用すればいいのです。

こららの原則を常に見失わないこと,そして有用かどうかを常に見つめて思考停止しないこと,これが保たれるだけでもずいぶん健全に利用できると思うのです。
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勉強の好き嫌いは社会に役立つとかいう視点と関係ないような気もする

2010-08-13 09:36:55 | ココロ
内田先生が英語が役に立つと言われると英語嫌いがもっと増えるだろうと言ってる件。なんか目から鱗…というかおもしろいなと思いました。つまり,役に立つと学校が子供に教えると子供がその勉強を嫌いになるよ…っていう指摘がです。

おもしろいなぁと思ったのですが,実はわたしの実感とは合いません。わたしは英語がずいぶん苦手で,今でもあまり得意ではありませんが,英語が役に立つと教えられた記憶はありません。

ということでわたしの昔話(笑)。

将来役に立つというと将来のイメージが幼少時にどうあるか?ってことですが,わたしの場合,小学校の高学年(6年とか)の時は天文学者になりたいと思ってました。中学に入ってからはパイロットになりたいと思ってました。良く考えると,これらは英語が必須な職業ですが,そんなこと当時考えたことありません。ついでに書くと中学までは英語はちゃんと点数とれてました。好きだったか?と言われると多分違いますが。

高校に入って音楽に熱中するとパイロットは諦めました。で,何になりたかった?というと,あまりはっきりとした記憶がないのですが,受験の頃は楽器作りとかレコーディングエンジニアとかそんなことをやりたいと思っていたような気がします。まぁ英語はそこまで重要じゃないですよね。で,関係は無いと思いますが高校で英語が苦手になりまし。

それから大学に入って,その後就職して,ずっと英語は苦手ですが,なぜか40歳を越えて,以前よりは英語が聞き取れるようになりました。

英語がなぜ苦手だったか?というと良くわかりません。わたは国語も苦手だったので,そもそも語学の理解力が低いのだと思います。理科や数学は得意で,地理や世界史は苦手だったので,暗記力が重要な科目は苦手なのです。それは今でもそうで,記憶は機械に任せる様にしてます。

思うに英語って成果が見えるまでにとても時間がかかるので,自分は楽しくやれなかったんだろうな…と思います。中学までの英語は単語もだいたいおぼえられたので,テストの点数は取れてましたが,高校になるともうついていけませんでした。数学や理科も暗記が必要というかも知れませんが。高校物理で暗記が必要な公式なんて多分100個ぐらいしかありません。理解できていれば暗記は簡単です。それに100個おぼえてなくても20個ぐらいおぼえていれば,テストの2,3問は回答できます。英語は,単文ならともかく,長文の読解なんて,物凄く単語をおぼえて,文法をおぼえて,やっと2,3問の問いに答えられるだけです。文章に50単語ぐらいしか出てこなくても,多分200単語ぐらいのストックがないと,ダメでしょう。この辺が,暗記が苦手で気が短いわたしには向いてませんでした。ちなみに国語も長文を読んで,2,3問しか答えられない…というのが,嫌でした。

社会人になってだんだん英語が扱えるようになったのは,差し迫って…っていうのもあるのですが,実際に英会話に言ったり,海外旅行をしたり,という実践をやっているうちに,実はおぼえておけばいい単語はそんなにたくさん無い…と思うようになったからです(ただし英語は単語力があればあるほど実は簡単というのも事実。実は文法の方がどうでもいい)。知識として,名詞と動詞だけ拾えたら,そこそこの意味はわかる…というのもわかりました。日本語に直さず,英語のまま雰囲気で意味を理解する…という事も出来るようになると,ますます英語は使えるようになります。

そういう自分の経験を省みると,英語は社会に出て役に立つ…といわれたから英語が嫌いになったわけでもないし,それで一生懸命やるわけでもない。学習する喜びが学習時に得られないことが,勉強嫌いになる原因のような気がします。テストの点数がとれなくても,勉強の見返りがすぐにあれば,それなりに楽しいんじゃないか?とも思いますが違うんでしょうか?。そういえばわたしは高校の時から日本史が好きになりましたが,それは仏像とかが好きになったからです。

というわけで,私の経験からすると,英語を好きにしたかったら,英語を習い初めて早々に役に立つ場を経験させること。もちろん中学生で出世もないですから(笑),外国人とのコミュニケーションでもいいし,なにか重要な外国の文を読める様なるでもいいかも知れません。外国の歌を理解するでもいいでしょう。あと,全てを理解できなくても「×」をつけないこと。一つや二つ意味がわからない単語があるだけで「×」がついてしまったら,勉強をやる気が湧きません。なんとなく意味がわかればいいのです。日本語の会話だって,意味がわからなくても,それなりにコミュニケーションとれるでしょう。そういう意味では勉強の採点は減点式じゃなくて加算式の方がいいんだろうな…と思います。

この事は,別に英語に限りません。数学や理科だって,工作だって,ちょっと習えば何かを習得できた…という実感が勉強を好きにさせるのだと思います。
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男の価値の虚しさ

2010-08-11 22:39:05 | ココロ
男と年寄りに厳しいことを書いてみます。一応本当に思ってることなんですが…。

わたしは人間も大きくは生物の範疇だと思ってます。そして進化論を信じてます。ですから,人間=生物の価値というのは,ある側面でいうと遺伝子を残すこと…だと思ってます。

言い換えると人間の主たる目的は子供を残すことです。子供を残し,その子供が更に子供を残すことです。その物差しで考えると,一番偉いのは多分母親です。もちろん母親だけでは子供は産まれませんので父親にも価値がありますが,父親は受精したらその後は不要です(苦笑)。まぁあちこちに種を巻く男もいますが,いつかはその価値は無くなります。

もちろん母親だって産んで,授乳して,それが終われば,男とあまり変わりません。ただし,人間の子供は乳離れしても一人では生きていけないので,大人が面倒を見る必要があります。ここで父親が子育てに積極的に関われば,母親と同じ価値を持ちます。

ですが,人間社会は乳児の時に子育てが母親が得意だからかも知れませんが,大抵の社会で子育ては女性が重点的に行い,男性はそれを経済的に支えるという役割を演じてきてます。経済的というのは,農業や狩猟も含みます。安定して衣食住を供給できる様にすることにより,自分の子供を無事育てるという役割になります。

ということはいうまでもなく,これらをやらない父親は生物として価値が無い…ということになります;-p。

人間が生きてる社会は十分に食糧が得られる南の島とかは,そういう理由で男性の地位が低いのですが,自然が厳しい北の方にいくほど男性の地位が高くなります。というか,威張ってます。というのは,自然が厳しいので人間がある程度団結して,開拓をしたり,戦争をして他の領土を取ったりしてないと,十分に子供をまかなえるだけの衣食住が手に入らず,子育てをせず,体格もある男性が,それらを行う様になりました。そしてその団結の中で,男性の地位が向上するわけです。女性や子供からすると,男性社会が無いと暮していけない状態になってるわけですし,その社会の中で地位が高い男の方が,安定して衣食住が得られるので,もてるわけです。

団結する…というのは社会システムをつくるということです。システムがだんだん複雑になり,衣食住という本来の目的が見えにくくなり,徐々にシステムの中で地位を得る自体が,偉いということになってしまいました。それが現代社会です。でも,根本に戻ってみると,男性社会がなぜあって,そこで偉い人がなぜ偉いかというと,自分の子供を優位な環境で育てられるから…ではないでしょうか?。また多くの子供を育てる経済力があるからではないでしょうか。もし社会で偉い人が,自分の家庭を省みなかったり,子供を大事に育ててなかったりしたら,それは手段が目的になっているってことで,単に偉いと勘違いしているだけでしょう。

さて,こう考えると,男性の価値は子供が巣立って行けば無くなります。孫の面倒を見たり,子供へ経済的な支援が出来れば,それでも価値はあるかも知れません。経済支援も出来なくなれば,過去にどういう業績があろうが,そんなの人間としての価値には意味がない…とわたしは思います。

さて,ちょっと話を変えて,コンビニの客として態度が悪いのは金持ってそうなオッサンとジイさんらしいです。リンクした文以外にも,ジイさんがとある業種の人を
見下したとか,そんな話は良く聞きます。

でも,わたしはこういう話を聞くと,怒りよりも,そのおじさんやおじいさん達は,多分自分達の価値が低いことを感じていて,それを払拭するために,誰かを卑下しないとやってられないのだろうな…とも思います。本当に自信があるのであれば,人には優しくなるはずです。

上の論理によると子育てが終わったおじさんには価値がありません。金を持っていて,子供達にあげていれば価値はありますが,まぁ今時,金をあげて子供に尊敬されるっていう親や爺さんがどれくらいいるのでしょうか?。会社を辞めたら,もう部下も慕ってはくれません。社会のシステムなんて子育てに比べたら一手段にしか過ぎないからです。これで年金とか医療費とかで若者へ負担をかけていたら,ますます尊敬されるはずがありません。

自分に自信が無い人は,人を貶めようとします。だから,店員や他の業種に悪態をつく人は非常にわかりやすい。

もし,子供も巣立って,仕事も辞めて年金生活になって,それでも人に尊敬されたい,価値を認めて欲しい…と思うのであればどうすればいいのでしょう。それは,若い人や子供達に慕われて,尊敬されるような生き方を手本として見せることです。歳をとったら自分の遺伝子はこれ以上増やせませんが,次の世代に記憶を残すことは出来ます。手本を示して,それが伝われば自分の記憶が後世に伝わっていくということになります。

どういう生き方かはたくさんあるでしょう。わたしが時々「品」と書いてるのを生きざまで見せるという手もあります。知識を伝えるという手もあります。人の暖かみを教えるということもあります。楽しい遊びを教えて子供の世界を広げてあげてもいいでしょう。考えてみてください。幾らでもあります。

他人を見下し威張ることは,自分がいやなやつだったという記憶が世界に残るだけです。そんなことでいいんでしょうか?。
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待ち時間

2010-08-04 22:10:56 | ココロ
medtoolzさんの待ち時間に関する話は興味深かった。患者が怒って訴訟するのは,ほっておかれたという感情が大きいとか,ラーメン屋は行列だと進んでいるので怒らないけど,席に座らせてほっておくと客は怒るとか,待たされてる方は待たせている方の状況がわからないから取り残されるという話。

medtoolzさんは医者なので医療の例で考えるけど,接客業だと同じような話はたくさんあるし,接客じゃなくて,役所の窓口,もっと広げると,電話を取り次ぐときとか,さらに人に「ここで待っててね」という場合でも,常に待たされている人には「取り残された感情がある」と考えるといいのだと思う。

わたしはコミュニケーションを考えるのが生業だから,「取り残されないシステム」をうまく作れば,いろんなところで顧客満足度が上がるし,医療でもわかるけど,訴訟とかそういうトラブルを未然に防ぐいいツールになるんだと思う。

まぁ実際にどんな場合にも有効なツールをつくるのは難しいので,そんなに簡単に行かないとは思うし,現行のシステムでも電話の取り次ぎもトーキーを流したりして,それなりに待たせる方も気を使っているのが実際です。待たせてる方の状況を見せればいいとして,真実を見せるとかえって怒られる場合もあるので,ある程度演出が必要だろうとか思ったりもするけど,まぁ「1時間後に連絡します」とあらかじめいっておけば,その間ナースセンターでだべっていても,まぁOKっていうのはそうかも知れないな…と思う。

つまり待つ方は,どれだけ待つかわからないということが「取り残される」という感覚でもあるんだろう。ラーメン屋の列も先が見えなかったら,進んでいてもストレスがたまるだろうし…。トーキーで待たせる時も,闇雲に待たせるのではなく,2分以上待たせたら,とりあえず,軽く返すとか,そういうのもいるんだろうなぁ…と思う。

そういえば,話が変わるけど,別のブログで合コンで知り合った女性のメイルに4時間返事をしなかったら,相手の女性は「気がない」と判断するらしい…という話を読んだけど(笑),多分この辺の「待ち時間」の話も,関係あるのかも知れない。相手に取り残された感情を持たせないように,返事の間隔もあるだろうし,空けるなら空けるで,どういう一言を残して空けるとか,そういうノウハウもありそう。実はわたしも仕事のメイルの返事を書くときは,その間隔は結構考えて返すようにしている。

考え出すといろいろおもしろい話かもしれない。
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戦略としてのイジメ

2010-08-01 18:26:46 | ココロ
fujiponさんの「 世の中には、天性の「イジメ上手」がいる。」という文は,要は集団において,自分への好感度を上げるためにテクニックとしてイジメを行う人がいる…という話です。似たような話は多分学校とかでもあって,誰かの好感度ではなく,クラス全体での一体感や平穏を保つために,極一部の誰かをターゲットにするような話は以前から聞いてました。なのでこの話は,特定の人物名はともかく,そういうことあるだろう…と思います。ちょっと思ったのが,じゃぁ実際に技術としてイジメを行う人がいるとして,意識してやってるんだろうか?ということ。学校のクラスでも起きるようなことなので,もしかしたら意識せずにやってる人も多いんじゃないか?…という気がします。ある意味人間のコミュニケーションの本能的な部分にそういうものがあるのかも知れません。戦争や海外侵略自体が国の求心力を高めていた時代もあるわけですから…。

さて,人間ってそういうものだろうな…と思う反面,こういう話を聞くと暗澹たる気持ちになります。わたしは昔からいじめることもいじめられることも苦手です。わたしは小学生の高学年から転校が多かったため,何年間もいじめられて抜け出せなかったことは無いのですが,転校先によってはクラスに居場所が見いだせないこともありました。そういう場合はいじめられていた…というより,直ぐに部活に逃げ出したり,他のクラスの人と遊んだりしていた…という感じでした。逆にイジメていた記憶はないのですが,クラスで誰かをいじめてるのをみて,仲間にならないようにする程度で,見過ごしていた…というのはあるかも知れません。わたしの子供の頃は目立つイジメはほとんど無かったのですが,小中学は義務教育で生徒も様々ですから,みんなから馬鹿にされて小突かれている生徒はいたように思います。

暗澹たる気持ちになるのは,イジメというのは多分幾つになっても無くならないものだろう…と思うことと,あとこれが集団をまとめるテクニックであるとしたら,マネージメントとしてこういうことも利用すべきなんだろうか?…という考えが 頭によぎるからです。

わたしもそろそろ集団をまとめていかないといけないような職位になってきてます。わたしは昔から職場の人を遊びに誘ったり…というのをあまりやってきてません。誘われたら行きますが,自分から飲みに誘ったりレクに誘ったりとかほとんどやったことありません。遊ぶとしても職場ではなく会社の同期とかネットの知り合いとか学生時代の友人とか。仕事もチームでやるというより一人でやる仕事も多かったので,職場の師匠弟子関係もあまりありません。そういえば,以前会社の後輩に,「○○さんは一匹狼ですね」と言われたことがあります。

最近知り合いにその人の職場の人間関係について 相談を受けたときに,職場で人の輪に入っていけるとかいけないとか,誰々さんに好かれているとか嫌われてるとか,そういう話を,憶測や思い込みでされても,わたしはテンで興味が湧かないというか,困る…。わたし自身が,職場で孤立してようが,好かれていようがあまり気にならないのです。ただ仕事が回らないと困る。わたしの(業務上の)話を聞いてくれないと困る…というのはあります。

こういう自分ですので,最初のようなテクニックを使ってまで自分への求心力を高めよう…という発想に全くなりません。むしろそういうの嫌。特定の人をいじめるのも嫌だけど,特定の人とベッタリになるのも,結構面倒…だなぁ…と思っていたりします。仕事上部下をどなったりすることも必要…というのはマネージメントとして聞きますが,考えると結構やりたくなくて,まぁそういうことはなるべくしない方法で行くんだろうな…と思います。

…もう少し自分が職場でどう振る舞ってるかを書こうかと思いましたが,長くなるので今回はこれまで。また気が向いたら書くかも知れません。
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