「表現欲求」という言葉があるかは知りませんが,たぶんわたしはそれが強い人間だと思います。ここでいう表現欲求とは,とにかく自己表現をしたくてたまらない,すると楽しいということをいいます。「承認欲求」という言葉を聞いたことがありますが,どちらも多分重なる部分が多いとは思います。ただ承認欲求は最終的に自己のアイデンティティを認めてもらいたいという欲求があって,そのためにいろんな表現をするもので,表現欲求は相手が認めてくれなくても表現をすること自体が楽しい。ただし誰も見て無いところに表現をするのはそんなに惹かれない…という感じでしょうか。
わたしは音楽を演奏したり,絵を描いたり,ネットに文章をアップしたり,また仕事でも人前で喋ったりプレゼンをしたり…そういうのが好きな人間です。わたしにとってはこれらはすべて表現欲求を満たすものですから,全部同じ衝動としてやっているような感覚があります。つまりわたしにとって人前でギターを弾くのも,会社でプレゼンをするのも同じような感覚です。ただし承認欲求と違うと思うのは,受けなくてもあまりめげない,ネットの文章も,誰も反応が無いけど,それでも続けられている。もちろん誰かの反応があって誉められば,とてもうれしいけど,反応が無くても「続けることに意味がある」とか人前で喋るという行為自体に快感を覚えているので,承認は二の次になっているのでしょう。
わたしは表現欲求は誰にでもある欲求だとおもっていて,実際に自分の子供とかにそれはありそうだと感じてますが,人に言われたりするところをみると,わたしの表現欲求は強いほうなのかもしれません。音楽家や芸術家がマルチな才能を発揮するのも,それは才能があると言うよりその人の表現欲求が強いのであらゆる手段で表現を行っているだけ,とわたしは思っていて,それって普通…と思うのですが,そういわれないところみると,やっぱり一般の人の表現欲求は少し弱いのかもしれません。
ただわたしは自分の表現欲求が強いことは役に立っていると思っていて,上に書いた様な仕事上のエネルギーにもなっています。承認欲求と違って失敗してもめげないので,そういう意味でもいいのかもしれません。
ですので,わたしは昔から…そう大学時代から,そのエネルギーがどう使うか?というのは結構意識してきてます。よく思うのが,表現欲求が高まっているときに,人に話したり,メイルで話したりすると満足してそれで終わってしまう…ということ。若い頃,メイルを山の様に書くと,なんかそれが雑談であっても,妙に満足して,一日が終わってしまう…みたいなことがありました。ですから,その溜まったエネルギーを無駄に消費しないように,どこに出していくか…というのはとても気にしていたりします。実際いまここで日記を書くのもエネルギーの無駄遣いなのですが,でも溜まったエネルギーを消費せずに消してしまうのもエネルギーの生産能力が下がるので,寝る前のガス抜きと,訓練という意味でやってます。ただ,やっぱりこういう文章を書くタイミングは結構気にします。
さて,そういう意味でいうと,今はやりのつぶやき,これも結構表現欲求を非生産的なところで消費してるんじゃないのか?みたいな事を思います。まぁつぶやきに限らずブログもSNSもMLもnetnewsも全部そういうものだったという気はしますが,ちょっとつぶやきはより一般的に広がっているので,エネルギーが失われることによる社会的損失も結構あるだろうなぁ…みたいな事を思います。
最近は子供や学生もネットをしますが,心配なのは折角のエネルギーを非生産的に消費してしまって無いか?ということ。わたしはやる気やエネルギーをどこに持ってくるか?というのをわりと意識して行動を選択してますが,多分学生や子供はまだそこまで出来ないでしょうし,いろんな方向にエネルギーを出すことが出来るということを知らないとひとつのことだけを追い求めてしまう。携帯を手放せない子供を観ると,そういう心配を感じてしまいます。
わたしは音楽を演奏したり,絵を描いたり,ネットに文章をアップしたり,また仕事でも人前で喋ったりプレゼンをしたり…そういうのが好きな人間です。わたしにとってはこれらはすべて表現欲求を満たすものですから,全部同じ衝動としてやっているような感覚があります。つまりわたしにとって人前でギターを弾くのも,会社でプレゼンをするのも同じような感覚です。ただし承認欲求と違うと思うのは,受けなくてもあまりめげない,ネットの文章も,誰も反応が無いけど,それでも続けられている。もちろん誰かの反応があって誉められば,とてもうれしいけど,反応が無くても「続けることに意味がある」とか人前で喋るという行為自体に快感を覚えているので,承認は二の次になっているのでしょう。
わたしは表現欲求は誰にでもある欲求だとおもっていて,実際に自分の子供とかにそれはありそうだと感じてますが,人に言われたりするところをみると,わたしの表現欲求は強いほうなのかもしれません。音楽家や芸術家がマルチな才能を発揮するのも,それは才能があると言うよりその人の表現欲求が強いのであらゆる手段で表現を行っているだけ,とわたしは思っていて,それって普通…と思うのですが,そういわれないところみると,やっぱり一般の人の表現欲求は少し弱いのかもしれません。
ただわたしは自分の表現欲求が強いことは役に立っていると思っていて,上に書いた様な仕事上のエネルギーにもなっています。承認欲求と違って失敗してもめげないので,そういう意味でもいいのかもしれません。
ですので,わたしは昔から…そう大学時代から,そのエネルギーがどう使うか?というのは結構意識してきてます。よく思うのが,表現欲求が高まっているときに,人に話したり,メイルで話したりすると満足してそれで終わってしまう…ということ。若い頃,メイルを山の様に書くと,なんかそれが雑談であっても,妙に満足して,一日が終わってしまう…みたいなことがありました。ですから,その溜まったエネルギーを無駄に消費しないように,どこに出していくか…というのはとても気にしていたりします。実際いまここで日記を書くのもエネルギーの無駄遣いなのですが,でも溜まったエネルギーを消費せずに消してしまうのもエネルギーの生産能力が下がるので,寝る前のガス抜きと,訓練という意味でやってます。ただ,やっぱりこういう文章を書くタイミングは結構気にします。
さて,そういう意味でいうと,今はやりのつぶやき,これも結構表現欲求を非生産的なところで消費してるんじゃないのか?みたいな事を思います。まぁつぶやきに限らずブログもSNSもMLもnetnewsも全部そういうものだったという気はしますが,ちょっとつぶやきはより一般的に広がっているので,エネルギーが失われることによる社会的損失も結構あるだろうなぁ…みたいな事を思います。
最近は子供や学生もネットをしますが,心配なのは折角のエネルギーを非生産的に消費してしまって無いか?ということ。わたしはやる気やエネルギーをどこに持ってくるか?というのをわりと意識して行動を選択してますが,多分学生や子供はまだそこまで出来ないでしょうし,いろんな方向にエネルギーを出すことが出来るということを知らないとひとつのことだけを追い求めてしまう。携帯を手放せない子供を観ると,そういう心配を感じてしまいます。