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たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

業界が育ったからと言って両端の人たちが豊かになるわけでも無い

2010-04-20 22:28:31 | 音楽・アート
なんとなくちょっと前から思ってること…。

今,マンガというのはとても大きな市場を持っています。出版社はマンガ本や雑誌で多くの収益を上げてますし,実際出版数もかなり多いです。マンガを原作としたドラマや,メディアミックスによるアニメや映画化も多いです。また海外でも日本のマンガは評判が高く,海外でも多くの手段で日本のマンガが読まれていたりします。

従って,マンガという作品に関わる人は,漫画家かと読者,そして昔から編集者のみならず,出版業界,放送業界,海外流通,その他多くの業界…など膨大な人数がいるでしょう。多くの人間がその作品が挙げる利益で収入を得て生活をしているように思います。

ですが,ふと考えると,マンガというのは,その作品を作り出すマンガ家とマンガを買って読むという読者が,そのマーケットでの最低単位…というかスタートだったと思います。昔は出版でもマンガは軽く見られており,たいした収益を上げていなかったと聞きます。それでもいろんな名作が産まれてました。

こういう風に昔は一部の人達がこじんまりと市場をつくっていたのが,いつのまにか消費者が増えて,それに対応して生産者が増え,そしてその間に立つ多くの流通業者が増え,さらにタイアップなどの周辺業者が増えて市場が拡大するというケースは結構あります。そしてその市場がどんどん右肩上がりで上がっていると,経済的に注目され多くの投資がされます。いろんな業態…というか金儲けの仕組みが考えられて,関わる人がどんどん増えていきます。

ところがある時点で,その成長に陰りが見えると,その市場は行き詰まった…とか,はじけた…とか急に言われる様になります。儲けを見込んで参入した業者が倒産したり,業者の数自体が減ったりもします。

こういう変化を端からみてると…というかマンガの例でみてたのでマンガでみると,そういう変化は,じゃぁマンガ家自身と読者という最小単位に対してどれだけの恩恵を与えたのだろうか?…ということです。確かに一つのマンガが流通の発展や広告のタイアップにより多くの利益を産み出せば,マンガ家は多くの利益を得て,良い作品をつくった見返りを得るでしょう。読者も多くの作品に触れる機会や,関連した商品を得ることが出来るでしょう。

しかし,市場が大きくなるということは,そのマンガ業界に入るマンガ家の数も増え,利益を得るマンガ家が増えると共に,食えないマンガ家も増えます。読者も多くの作品に触れることができますが,粗悪な作品にお金を払う機会も増えるでしょう。新しいファン達と考えが合わず,がっかりとすることも増えるかも知れません。そして市場が傾いたと大騒ぎした結果,その騒ぎに巻き込まれるマンガ家とファンもたくさんいるんじゃないでしょうか?。

マンガに限りませんが,良く言われるのは,こういう市場の拡大によって,その業界で多くの富を得る人が増える一方で,肝心の最初のクリエータ達がたいした報酬を得てない…とかいうことはよくあることです。そもそも,こういうクリエィテブな業種が良い作品を作り出せるのは,作家がお金よりも本人の楽しみや自己表現のために,採算度外視で作品をつくるからであり,そこに経済的な戦略が入ると,おかしくなるような事もあるように思います。作家達が,劣悪な条件で大量の良質の作品を作り出していることが自体が,その業界を支えているって事もよくあります。そこに更なるムチャな成長戦略などを投入されても,良い効果が産まれるのだろうか?…等と思います。

こういうことはマンガに限った話じゃなくて,例えば初期のコンピュータのフリーウェア等の業種もそういう部分があったように思います。ただ,わたしは趣味の業界が膨れ上がることに否定的なわけでもありません。売れることによりいろんな事が可能になり新しい表現が産まれることもよくあるからです。ただ市場規模や収支などの数字だけをみて,こういう趣味の業界をドライブする…というのにちょっと疑問を感じたりします。

以下,ちょっと今日読んだ記事で…,集英社がマンガのスキャンを差し控えて欲しいと訴えるのを,海外の人が,スキャンするから我々が読んであげるんだみたいなことを言われると,そこまでして海外の人に読まれたいかね?…とも思います。…というか,別に世界中で売れなくても,もっとこじんまりとでもファンとしては特に問題ないのに,と思ったりもしました。

これらの記事だけで上記の事を思ったわけでもありませんが…。
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幸せへの新しいプラス

2010-04-06 20:25:34 | 音楽・アート
谷山浩子さんがブログで便利になり不幸になるみたいな事を書いている件。話題になってるかな。

わたしは幸せを感じるには「プラスの変化」が必要だと思っているので,現状が満たされていたら,幸せを感じるのは難しいな…と思ってます。だからといって「無理やり」不幸や不便な状態を作り出して,そこに小さな幸せを感じさせるというやり方は,全体主義とかカルトとかがそういう手法を使ったりしますが,反対です。これに対する明確な答えはわたしは持ってません。

というわけで,谷山浩子さんが「一つの」音楽や本の価値が下がりつつも,その便利さから逃れることができないというのを嘆いている気持ちは良くわかります。この文章は概ね共感します。

ですが,最後の「アナログ盤がCDになった時に、もうそれは始まっていた気がする」っていうのは違うと思うんですよ。それをいうなら,音楽がラジオで放送されたりレコードで売り出された時点でそれは既に始まってます。

想像するに,昔は音楽なんて生演奏しか聴けなかった。だからレコードになったときに,それまでは一回しか聴けないと集中して聴いていたのが,何回も聴けるし…と音楽を聴く有り難みが下がったかも知れません。ラジオも無い頃はプロの演奏なんて旅芸人とかぐらいしかいなくて,町や村に歌がうまい人が何人かいて,それを聴いたり,みんなで歌ったりするのが音楽との接し方だったのかも知れません。音楽というのは聴くものではなく,参加するものだったのかもしれません。そういえば,昭和のはじめには飲み屋街には流しがいたものです。

それがラジオやレコードという放送やパッケージの発生で一人のプロの音楽家が大量のリスナーを独占することになってしまった…のは100年くらい前ですかね。今みたいに一人のリスナーが大量に音楽を入手できるのが前時代からして異常なら,一人のミュージシャンが多くの聴衆を独占したのも異常な状況だったのかも知れません。

という事を想像しました。わたしはおそらくそれぞれの時代に幸せはあるんだと思います。ただその時代の幸せを享受した人が次の時代を同じ手段で楽しむことはできない…というだけじゃないですかね。

それから,音楽を大量に入手できるのは,確かに単価は安くなったかも知れませんが,おそらくそれよりも歳をとって自由に使えるお金が増えたことの方が多いんじゃないかな?と思います。今も子供は時間はたくさんあるけどお金はあんまり無い,だから一つの遊びを何度もやる,またはお金がかからない遊びをする…というのは変わらないと思います。

音楽が知り合い同士で歌い合うものだったから,プロの演奏をラジオやレコードで聴くようになったとき,前の世代の人は音楽が自分達の手を離れて遠くに行ったように感じたかも知れません。でも,一流の演奏に接する体験を新たにしたのでしょう。それは違う体験で,この違う体験を得る事自体が「プラスの変化」の様にも思います。

そうであれば,CDや本が売れなくなり,電子媒体になっていくと,それは何か違う接し方があるんじゃないでしょうか?。個人的には一つの曲が何百枚も売れなくなる,っていうのは,逆にもしかしたら曲やミュージシャンとリスナーの距離が近くなる事なのかもしれない…とも思ってます。音楽出版の力を借りなくても音楽をリスナーに届けることができるようになってきたし,著作権的にはまだ整理されてないけど,人の音楽を引用して改変して音楽楽しむことも技術的には可能になってきてます。

多分わたしたちより若い人達は,わたしたちとは違う幸せを感じているんじゃないかな?…と思います。

一つだけ書くと,そういう中では音楽という趣味が相対的に減っていくのも新しい幸せかも知れないけど,わたしは音楽が好きなので,それだけは避けたいというか,音楽できちんと食べていける人がちゃんとある程度の人数維持できて欲しいな…とは思います。

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椎名林檎

2009-12-29 22:27:50 | 音楽・アート
ネットで椎名林檎のCDが売れなくなった理由が書かれてました。ひどい文章でした。私生活がどうであろうが,どういう連中とつるもうが,いい作品を作れるかどうかは関係ありません。というかそれでいい作品を作る人もいるし,そうじゃなくなる人もいると思います。バンドの人選が気に入らないとしても,使う言葉が汚すぎます。この文章を書いた人間はどういう人間なんでしょう…。
と取るに足らないので取りあげる必要も無いのですが,ただ,椎名林檎のCD売れて無いんだ…とは思いました。データ的にもそうなんでしょうか。
実は作品がつまらなくなった…というのは,わたしも感じてました。わたしはデビューからCDを買い始めたけど,「唄ひ手冥利」あたりから出すCDに苦しさを感じてました。いい曲もあるんだけど,フルアルバム一枚にするには足りない感じがしました。あと,新しいことにTRYしてるのだけど,うまくかみ合ってない気がしました。むしろ新しい曲を作ろうとして苦悩していろいろしすぎてる感じがしてました。洋楽をカバーしたり,いろんなミュージシャンと共演したりするのもたぶん新しいスタイルを模索してるんじゃないでしょうか?。その意気込みというか志は凄く高いと思います。でもわたしはとりあえず,もっと自分の過去の作品の自己複製の曲を書いてスタイルの再確認をしたほうがいいんじゃないか?という気もしています。
まぁ半年前に出した最新アルバムは聴いてないので,とりあえず聴くべきだな…とは思ってます。
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萩尾望都原画展

2009-12-23 22:35:29 | 音楽・アート
池袋で今日まで開催されていた萩尾望都原画展を観てきました。萩尾先生は今年でデビュー40周年とのことで,それを記念した初の原画展だったとのことです。
最終日&休みということで結構混んでました。ですが,会場が係が,「順番に観なくて結構です」と言っていたので適当に空いているところから観ました。
萩尾望都先生の作品はほとんど読んでいるはずですが,見覚えのある絵が原画,もしくはカラーの肉筆の表紙絵が大量に壁にかかっているのを観るのは爽快でした。初期の作品,ポーの一族とか,トーマの心臓とか,11人いるとか,百億の昼と千億の夜とかの原画も綺麗で,日焼けや変色とかもしておらず,保存状態の良さに驚きました。これらの原画って萩尾先生の手元に保管されているってことですかね。そういう意味では肉筆画を売る画家ではなく,印刷物を出版する漫画だからこそだなぁと思いました。原画が作家の手元に残るというのは,後でこうやってまとめて鑑賞できるって意味ではいいかもしれませんね。
名作「半神」は16ページの短編ですが,全原画が置いてあり,凄いオーラ出してました。非常に作品数が多い方ですから,全作品のものが並んでいるわけではありませんが,上記の絵以外にもマージナルやスターレッド,メッシュ,残酷な神…,バルバラ異界等,メジャーな作品は結構網羅されていたようにも思います。
あと,わたし自身最近は先生の作品は単行本でしか読んで無いので,原画と見慣れた絵の大きさにギャップがあるのですが,結構印象が違うな…と思いました。塗りの密度とかよりも,デッサン自体が,結構違って見えるのが面白いと思いました。人って大きさ形の認識が変わるんだなぁ。
まぁそんな感じで楽しめました。萩尾先生の漫画が示した世界観というか哲学的な面には結構影響を受けたところもあるんですが,それを語りだしたら,長くなるので,また機会があれば…。
この展示会今回限りのようですが,全国回ったほうがいい…と思うのですが。
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「芸術工学」と「デザイン」

2009-12-07 21:32:25 | 音楽・アート
一つわたしのこだわりみたいな話を。正しい認識とは限らないので,あしからず。

わたしは「博士(芸術工学)」という学位を持っています。珍しい学位なので,名刺に書いていると,どういう学位ですか?と良く聞かれます。その時々でいろいろ説明の仕方は変わりますが,一つは「英語で言うとDesignですよ」という説明です。で,なぜかこう説明すると相手はがっかりします(苦笑)。「なんだそうですか」という感じで。

どうも「芸術工学」という怪しげで,可能性を感じる単語が「デザイン」という聞き慣れた言葉に変換されて,身近というか,範囲が明確になってがっかりするのでしょうか?。でも,いつも思うのですが,そういう人にわたしは聞きたいのです「あなたが思うところのデザインってなんですか?」と。

「デザイン」というとどうも普通の人は,ある工業製品とかの見た目を設計するものだと思っているようなフシがあります。辞書で引いても「Design」は「設計,図案,下絵」などいう意味があります。あと「計画,目的,意図」というような漠然としたものもあります。確かに"design"を「設計」というのは間違ってませんが,「デザイナー」を「設計者」をいうと,少しニュアンスが違って感じます。というわけで少し整理すると,「設計」というのは狭い意味ではある生産物をつくるときの構造とかを決める作業でしょう。また「図案」とか「下絵」というのは具体的にその時に描いた絵のことを指すと思います。「計画」とかになるともう少し広くて構造だけではなく,ものを作る目的とか,線表とか,収支計算とかそういうものも含みます。そういうものも「デザイン」という事は可能ですが,日本人的な感覚では例えば生産計画をする人を「デザイナー」というのには抵抗があるでしょう。

日本で「デザインをする」というと,こういう「設計」というよりは,むしろ製品の見た目やパッケージを決める作業のことを指すことの方が多い気がします。「デザイン家電」という様な言葉がありますが,普通の家電ではなく見た目が変わった家電のことを指します。こういう事があるので,デザイナーは製品の「見栄え担当」と思っている人もいるんではないでしょうか。

わたしは「デザイン」というものは,ある工業製品や工芸品等をつくるときの設計だと思いますが,それは,その品の,機能,使いやすさ,外観等,そして物語を整える作業のことだと思ってます。つまり単なる見た目だけではなく,使った人が十分に満足が得られるための性能,使い心地,そしてそれを使ったことを誇らしげに思えること,それらの全てのレベルをあげるにはどうしたら良いかを考えて設計するのがデザインだということです。

ですから,物事をデザインするにはその製品に使われる技術の中身を知っていなければならないし,改良もしなければならない。そして一番大事なのが,その技術や製品が使う人の心や体にどの様に響くかを,常に意識していなければならないということです。単純にカタログスペックで,性能が上昇しても,ユーザが実感しないと意味がありません。そして,使いやすさやそのものの形や色も影響します。人と違ったものを使っているという満足感の,その製品の形や,それに込められた物語によってつくられます。同じ機能や形の製品でも,そのメーカのそれまでの積み重ねで,まったく違った意味を持つこともあります。それらを全て意識し,バランスをもってつくっていくのがデザインをするということです。

これらの事をやるには,工業製品の場合,それに使われている技術を知らなければ
なりません。工業的な知識も必要ですし,自然科学の知識も必要です。また外的な情報が人の五感や心にどの様に響くかも知らなくてはいけません。心理学や感性工学などがそうでしょう。そして,最後に,製品の特別感をつくための,アートの感性も必要です。あくまでもこれらを全て駆使する必要があります。例えばアートだけの観点でつくったら,作者の自己主張ばかりが際立った使いにくい作品になるかも知れませんし,工学的な観点ばかりでは,性能は凄いけどやっぱり使いにくいし,見た目も野暮…なものができてしまうでしょう。

また,「見た目」ということから絵画や造形的な部分に目が行きがちですが,使いやすさや体験のためのアート的観点ですから,音だったり,触覚だったり,臭いだったり,五感に訴えてくるもの全てが,対象になります。

「design」というと「デザイン」ですが,実は「芸術工学」という和訳は特殊ながら上に書いた,工学からアートまで…という範囲を明確に示していて,わたしは凄く好きな言葉です。そして芸術工学という言葉からデザインという言葉を再びみると,デザインというのは単にものの見た目だけではない,もっとその工業製品を,それを使う人達の体験自体という観点から見て造ることだという事に気づきます。

奇しくも,いまAppleがiPodで成功を続けていることから,工業製品にデザインを
重視する…という動きがビジネス界で拡がってきてるように思います。ですが,その多くが,製品の見た目を優先するというところに陥っていて,使いやすさ,機能,そしてストーリそれらも含めてのデザイン…というところには至っていないように思います。いや,Appleはこれらがすばらしく出来てるのですが,それ以外のメーカにはどうもバランスが悪い製品を出しているところが多い,ということです。

これからのデザイン…というか,成功するデザインというのは,「芸術工学」としてのデザイン…という風に考えて行くべきだろう…とわたしは考えます。そう考えると,「デザイン?…なぁーんだ…」って事にはならないと思うんですけどね(苦笑)。
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クリエイティブに過去の知識は必要か?

2009-12-04 12:20:29 | 音楽・アート
知らない方のブログに対する突込みで申し訳無いのですが,「映画を体系的に理解するための7作品」というのを読んで…。
挙がってる映画はどれも有名な映画ばかりだなぁと。わたしはそこまで映画のマニアとかファンという自覚は無いのですが,さすがにここに挙がってる映画はみんな知ってるし,「用心棒」以外は全部観てます。用心棒は観て無いけど黒澤映画は5本くらいは観てるので,まぁいいたいことはわかります。一応これらの作品がその後に与えた影響を書いてあるあたりが「体系的」ということなんでしょう。メジャーな作品ばかりで,たぶんマニアが観たらがっかりするリストなんでしょうけど,実際ヒットした映画というのは多くの人に観られたということなので,その後に与えた影響は大きいし,歴史的な意味も大きいでしょう。
まぁ,でも申し訳ないけど,最初に「クリエイティブなことをしたいのなら、映画を見ることは欠かせない。また、単に見るだけではなく、それを包括的・体系的にとらえることも必要だ」と書いてるのを読んで,そうかなぁとは思ったんですよ。いやそのクリエイティブというのが映画を作ることなのか,それとも映像制作まで含むのか,それともほかの事まで含むのかはよくわからないのですが。
わたしは音楽のことしかよくわからないので,音楽で考えてしまいますが,音楽はたぶん,過去の作品を包括的・体系的に捕らえているかどうかは,その人の創造性には直接は関係ないと思います。いや,そういう人もたくさんいるんですが,中には過去の作品をほとんど知りませんという人がいて,そういう人がある日とんでもない作品を作って,そこから新しい道が引かれたりする。もちろん過去の作品を勉強しそこから新しい作品を作る人もいるけど,包括的…かどうかは疑問です。
なんか過去の作品を包括的とか体系的に捕らえるのは,評論家や学者には必要なことだと思うけど,物事を作り出す人にどこまで必要なのだろうか?という気はします。まぁ確かに過去の作品をほとんど知らなくても新しいものを作れるのは一部の天才だけで,そうじゃなければ,過去の蓄積をたくさん知ってるほうが,その知識を頼りに作れるっていうのはあるのかもしれませんが。
ただし映画は,音楽と違い,大人数のスタッフでつくるものだし,一人の感性だけではなんともなら無いのかもしれません。スタッフに何かを伝えるためには共通言語が必要で,それが過去の名作かもしれないという意味では,過去の作品を包括的に捕らえるっていうのも必要なのかもしれませんが…。
それとこれもわたしの経験だけど,自分が自分の好きな世界の過去作品はほとんど知ってると思っても,意外に若い人は,全然違うところの作品をよく知っていたりして,かえって広い世界のことを知っていたりすることもあります。あと包括的・体系的っていうのは,長年生きていて,その作品に触れていればあんまり努力しなくてもついてくるので,まぁ意図的に触れなくてもいいかもなぁ…という気はします。わたしも音楽は色んな音楽をずっと聴いてきて,別に体系的に捕らえようとかあまり意識してなかったけど,大量な蓄積があるので,それが今となっては頭のマップ上に並べられていて,なんとなくそれぞれの関係性みたいのは判ったりするんですよね。そういう意味では,若いときにそれを求めるのが本当に必要なのかはよくわからないなぁと思いました。
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IT時代の音楽

2009-11-19 23:11:25 | 音楽・アート
ネット+ライブ音楽、4つの新潮流」を読んで思ったこと。
今日の様にCDとかを無破壊でコピーできていく現状をみてると音楽パッケージを売ることで十分な対価を得る…っていうのが難しくなってるなとはもう10年以上前から思ってました。これについてはコピープロテクトCDが出来ては無くなったり,ファイル共有の違法性が謡われたり,まぁいろいろ状況の変化はあるのですが,たぶんそれだけじゃなくて,音楽業界は以前の様な金儲けの効率が維持できてないと思います。
そういう中でパッケージで儲けられないなら,生演奏で…というのはたしかちょっと前にブライアンイーノも言っていて,そうなればいいなとは思うのですが,いかんせん会場の広さの制限を考えると一度の演奏で上げられる収入はやっぱりCDのときに比べると少ないのでしょう。でも,一人のミュージシャンで何十人も食べさせるようなモデルじゃなかったら,ライブ演奏をある程度の集客で出来るともしかしたらやっていけるのかもしれない。ただその場合,折角ネットとかが発達している状況とあと,人口が少ない地方へもそういうライブを楽しめるっということを考えると,ネットでライブ配信というのは,価値はあるよね…とも思います。
ただ,現状を考えると,ネットでライブ配信をするための設備は,結構高額で,ライブ会場に来た人でペイできるのか?という懸念があります。あと遠隔でライブを観た人が,自分達が今生で観ているという実感を得られるか?DVDを大画面で観てるくらいの感動しか得られないのではないか?という懸念があります。
というわけで,その辺の障害をどうやってクリアできるのか?たぶんコストの問題はそのうちクリアできるとは思うけど,それだけでこの世界が大きく変わるのか?興味はあります。
100年以上前は音楽を楽しむということはレコードじゃなくて生だったので,それに戻るだけだという考え方も出来ますが,100年前というのは音楽出版とは楽譜だった…ということから,中央のミュージシャンがいけないような地方は地方のミュージシャンが楽譜を見て演奏をしていたわけで,まぁその時代からすると今の音楽ビジネスのあり方もずいぶん変わったなと思います。
まぁそういうのに戻るというより,あたらしいあり方が生まれないと,音楽ビジネスもいろいろ苦しいなと思うわけで,いい形態が生まれることを望みます。
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過激さと表現

2009-11-14 08:10:16 | 音楽・アート
ちょっとゴシップネタ。
篠山紀信の事務所が捜査されたという話。
「不特定多数が認識できる公共の場所で、全裸の女性モデルを撮影した行為が公然わいせつにあたる可能性がある」という意味がわかりにくいのですが,誰も周りにいなくても,写真を観た人が,「ここはあそこだ」と判ればわいせつになるってことでしょうか?。誰もいない海岸とかで撮影しても,そこがどこかわかればわいせつということなんですかね?。まぁ撮影を見かけた人がいるってなってるので,不特定多数の人が観ていたってことでなのかもしれませんが。
という疑問もあるのですが,それより篠山氏は,そういうところでヌードの撮影をしたというのは,そういう芸風…ってことなんでしょうか?。そういうっていうのは,いわゆる「やばい場所」でヌード撮影をする…という芸風という意味です。反社会というか,やってはいけないというか,インモラルとか過激さが芸風か?と。
なんとなく篠山氏ぐらいにビッグネームな写真家になっても,過激さとかを売りにしなくてはいけないのか?とか思うと,少しがっかりした感じもします。過激さというのは若い芸術家はその表現を良く使いますが,それはオリジナリティとしてというより,既存の作品との差をまず強調することにより,そこから自分の作風を作っていくという場合もありますが,なんか話題づくりとか売込み的な動機も結構あるんではないかと。その過激で話題をさらっても,その先にちゃんとしたオリジナリティが無いと一流にはなれないと思います。篠山氏もこれだけ長い間一線でやっているということはちゃんとしたオリジナリティがあると思うんですけどねぇ…。
そういえば,過激で卑猥なヌードが売りでもあったアラーキーは,日常の写真もよく撮っていてそれが案外彼らしさが出ていて凄いなぁと思うんですよね。この人,人じゃなくて風景を撮っていても,ちょっと淫猥な感じがあって,それが凄いと思います。
個人的には,インモラルな行動で卑猥さや過激さを表現するより,普通の場所で普通の人を撮って,そこに個性を出せるような人の方がわたしは好きです。
まぁ篠山氏の写真はそんなに観て無いからファンの人から反論があるかもしれないし,今回の話も単に捜査を受けただけなので,悪いことをしかの様に書くのは行きすぎだと思いますので,気を悪くした人がいたら申し訳ないです。
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音楽出版はどこと手をつなぐべきか?

2009-11-08 22:36:53 | 音楽・アート
ビクターエンターテイメントをコナミに売却か?」というニュースを観て驚きました。わたしの知り合いの中にはひどく憤慨している人もいました。ビクターはとてもいい音楽作品をこれまで出してきているとわたしは思うので,これによって何かが変わることを考えると,少し不安を覚えます。
しかし,売却先の噂がコナミというのを観て,少し音楽出版とメーカの関係というものがもうとっくに変わっているのだろうし,今後はどこと密にやっていくべきなんだろうか?とかとも考えました。
日本のレコード会社はビクターとかソニーとか電気メーカの資本のものが多いです。他にも昔は東芝EMIとかトリオレコードとかいうのもありました。コロンビアとデンオンも資本関係が一時期あった様で。
そもそもこれらのメーカは電気メーカといっても昔はオーディオメーカでした。レコードやラジオなどが主要な商品で,音楽ソフトを扱っていたのは,機器とソフトのシナジー効果を狙ってのことだったのでしょう。しかしいまやビクターも主要製品がオーディオとはとてもいえません。そういう中で音楽出版を持つよりも,もしかしたら別のメーカと組んだほうが,CDとは違う新たな音楽出版形態が発展する可能性もあるのかな?とも思います。
であるなら,電気メーカではなくどこのメーカと音楽出版は組むべきなんでしょう?。一つはコナミという名前が挙がってましたが,ゲームソフトメーカや,ゲーム機器メーカが浮かびます。あとネット配信のことを考えると通信会社やプロバイダというのも浮かびますし,パソコンソフトやパソコンハードメーカも浮かびます。
そういえば,AppleはiTunesの成功で主要な音楽配信業者になりましたが,音楽制作はやらないのでしょうか?。ネットで成功してる会社はソフト制作でも機器販売でもなく,流通をやってる会社の様に思います。amazonしかり。でも流通は誰かが作ったものを,使う誰かに渡すことで儲ける業種で,それ自体は作品を生み出しても消費もして無いのですよね。作る人と消費する人がいなくなったら成り立たない業種です。その分なんでも扱えるのでリスクは少ないのかもしれませんが,文化に貢献するという意味では少し弱いのかな…という気がします。
別にネットビジネスの巨人が音楽出版をすべきというつもりもないのですが,ではこれからの音楽出版はどこと結びつくのがいいんでしょう,とは思います。
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「添奈美子遺作展 -soelの世界-」に行く

2009-10-12 23:03:53 | 音楽・アート
今まで数回取りあげてさせていただいたことがある粘る稀なガン患者さんの奥様(添奈美子さん)の遺作展が日比谷であっているので,行ってきました。
粘る稀なガン患者さんはわたしと同じ膵内分泌腫瘍で,抗がん剤治療を長年続けている方ですし,その治療に対する姿勢については多くのことを学ばせていただいているため,わたしの方が一方的に,尊敬している人です。もちろん,そのブログでしか存知あげてないので,今回の遺作展のことも奥様のことも,リンク先の告知で初めて知りました。まったく知らない方の遺作展に行くのも失礼か?とも思ったのですが,ガン患者さん御自身が,自分に興味がある方でも結構と書かれてますし,遺作展をするということは,おそらく作品を多くの人の記憶に残して欲しいということだろうと勝手に思い出かけてきました。
作品はギャラリィファンタジアという奥様のブログでも観ることができます。
いろんなイラスト等を描くお仕事をやられていたようで,お仕事で描かれた絵もあれば,デッサンの様なものもあり,いくつかのスタイルの絵がありましたが,やぱりブログでも目立っている動物の絵をたくさん描き,綺麗な濃い配色で描かれたお祭りの様な絵が目立ってました。実際に生で観ると,水彩のポスターカラーの様な絵の具なのに,非常に濁りのない鮮やかで,タッチも揃っていて技術的にもすばらしいな…と思いました。どの絵がどの時期に描かれたものかがはっきりしなかったのですが,一階に飾られていた,絵は動物のキャラクタなど,独自のスタイルが確立されている感じもし,かつ,観てる人を楽しませようという想いも伝わってきて,とてもかわいらしく楽しい絵でした。
遺作展ということで,かかわりのある方がたくさんいらしていたのか,ガン患者さんもお忙しそうだったので,出来れば声をかけてみようか?と思ってはいたのですが記帳だけして帰りました。
粘る稀なガン患者さんには,すてきな絵を見る機会を与えてくださりありがたく思います。そしてこれからもブログの更新を楽しみにしているわたしです。
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