昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

鳥取県大山町の「角磐山 大山寺」

2007年11月29日 | 山陰地方の旅

大山寺の参道の入り口付近です。
長い参道の両脇には旅館、食堂、土産物店などが並んでいますが、少しさびれているようです。

道のはるか向こうに大山の峰のひとつ「宝珠山」が見えています。
上の参道の写真で見えた「宝珠山」があたかもご神体の山のように見えますが、ご神体として崇められている峰は、「弥山」のようです。



参道の坂道を登って行くと大山寺の山門があります。
上り坂の上に高い建物が見えて来るとなかなかの迫力を感じます。

山門の左右の格子の中には大きな仁王像が立っています。
ここで「参拝志納金」300円(大山寺宝物館入場料含む)を払います。

「大山寺宝物館」は、山門の少し手前の向かって右手にあります。
又、山門の脇には「角磐山 大山寺」の石碑があります。



最初の階段を登った所に「下山観音堂」があります。
向って右の出入り口横に「大山寺本坊」「大山寺法務所」の看板がありました。

■大山寺のパンフレットの説明を転記します。
「下山観音堂」
御本尊は十一面観音菩薩。白鳳期の金銅仏で国の重要文化財に指定され、現在霊賓閣に安置されている。下山観音堂の御本尊はその控仏です。



下山観音堂にあった狐の石像で、玉と、巻物をくわえているようです。
観音堂と、狐の組合せが珍しく、狐の足元に子狐が置いてあります。
向かって左には子狐が2匹いますが、右には子狐が1匹しかいませんが、いったいどこに行ったのでしょうか?



参道をはさんで「下山観音堂」の向いに小さな「護摩堂」があります。
お堂の向こうには「大山」の頂上付近と思われる山が見えています。

■大山寺のパンフレットの説明文を転記します。
「護摩堂」
10月24日に行われる山伏の修験問答や天地四方に矢を放つ儀式「採灯大護摩法要」は迫力満点で賑わっています。



「下山観音堂」と、「護摩堂」の間に次の石段の上り口があり、大きな杉の木と、お地蔵が立っています。
伝説のある「灯明地蔵」「灯明杉」だそうです。
「灯明地蔵」は、新しく造られたお地蔵さんのようです。

■説明板があり、転記します。
「灯明杉」
その昔、日本海を航行する船が難航の折り、この杉の頂きから、一大せん光を発し、方向を教えたために難をのがれたといわれる霊木で、この名がある。



「下山観音堂」から更に石段を上がると本堂のある広場です。
すぐ前に牛の銅像「宝牛」があります。

■大山は、牛馬の守り神として信仰されていますが、「大山寺縁起」に牛にちなんだ説話があります。
「大山寺縁起」は大山寺に伝わる写本で、43の説話があるそうです。

「大山へ連れて来られた牛の説話」
昔、法隆寺に民連法師という僧がいた。不思議なことに法華経の第八巻がどうしても暗唱できなかった。
稲荷・長谷寺・熊野山・住吉の各社寺に参詣してお告げを受け、伯耆大山へ来て一夏精進し、権現のお告げを得た。その結果、前世は美作国から大山参詣する人の糧米を背負って来た牛であった。大山の宿坊で法華経の八巻を聞かずに出発したために暗唱できなかった。三業に誠をいたして法華経を読唱せよと教えられた。

■現地の案内板を転記します。
「宝牛」
牛の霊を慰めるために鼻ぐりの銅をもって鋳造し、岡山県岡山市の宗教団体「福田海」より寄進された像で、別名を撫牛ともいい、一つの願いだけを心に念じてこの牛を撫でると願いを叶えてもらえるという縁起のよい牛である。



鎌倉時代の作と言われる「開運鐘」と書かれた「鐘」がありました。
天空に舞う天女の絵が描かれていたのが印象に残っています。



大山寺本堂です。
大山寺は、養老2年(718年)金連上人が創建、地蔵菩薩を本尊として祀ったのがはじまりとされています。
貞観7年(860年)天台宗第4代座主慈覚大師により天台宗となったそうです。
その後、鎌倉~室町時代に最盛期を迎え、100を越す堂塔伽藍に、僧兵3000人を抱える大寺となり、中国地方屈指の修験道場だったようです。

■「大山寺縁起」に大山寺が始まった説話がありました。
「大山寺の起こり」
出雲国玉造の猟師「依道」は、三保の浦を通り過ぎようとした時、海底から金色の狼が出現したそうです。
追いかけて大山まで追いつめ、矢を射ろうとした時、地蔵菩薩が現れ、狼も老尼に変身して地蔵の御利益を説いたそうです。
猟師「依道」は、金連上人となって長年修行、釈迦を祀る「南光院」阿弥陀を祀る「西光院」を開いたそうです。


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