昔に出会う旅

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北海道旅行No.42 中世の山城「上之国 勝山館跡」[2]

2012年01月08日 | 北海道の旅
北海道旅行6日目 6/8(水)、北海道の南端に近い松前町から北へ55Km、上ノ国町「勝山館跡」の見学の続きです。

前回掲載の「勝山館跡ガイダンス施設」で予備知識を得て、いよいよ史跡の見学です。



「勝山館跡ガイダンス施設」の大きな窓ガラス越しに見えた「夷王山」です。

時間がなく、山頂には上りませんでしたが、ガイダンス施設で見た映像では、山頂からの眺めはすばらしいものでした。

頂上の少し右に小さく鳥居が見え、茂みの中に武田信広を祀る「夷王山神社」の社殿があるようです。

幕末の松前藩士の著書「松前家記」によると「城西後ろの山に葬り、その山を夷王山と名付けた」とあります。

しかし、室町時代の1494年に没したとされる武田信広以降、四代目までの墓の場所は不明とされ、以外にも伝承は途切れていました。

地方豪族でも五輪石塔の墓を作る時代、石塔が無いのは身分の問題だったのでしょうか。



「ガイダンス施設」を出て、「勝山館跡」へ向かう道を行くとすぐ「夷王山墳墓群」の案内図がありました。

右上に赤い字で「館神八幡宮跡」とあるのが「勝山館跡」で、「夷王山墳墓群」は、第Ⅰ地区から第Ⅵ地区まで、破線で囲まれた六ヶ所のエリアに分かれています。

「勝山館」にちなむ多くの人々の墓は、「夷王山」に見守られる中腹の斜面につくられていました。

「ガイダンス施設」は、第Ⅱ地区に建てられており、「館神八幡宮跡」までの道の中間地点に「アイヌ墓」があます。

■案内板の説明文です。
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夷王山墳墓群
 勝山館跡の背後から天王山の麓のあたりに6地区に分かれて600基あまりの墓があります。2×1.8m、高さ40cmほどの土饅頭で、径が7mほどのものもあります。
 火葬した骨を箱などに納めて埋めたり、遺体を曲げて長方形の棺に納め北枕に土葬し、土や石を高く積んで墓を作っています。宋銭や明銭、漆塗りの椀や盃が納められることが多いのですが、大きな墓には覗[すずり]、玉なども副[そ]えられていました。
 いずれも仏教様式の墓と思われますが、シロシのついた漆器を副葬した墓やアイヌの流儀で葬られた墓もあります。また火葬の跡も見つかりました。
 これらの墳墓群には勝山館を築いた武田信広とその一族、さらには勝山館を中心に中世の上ノ国を支えた多くの人たちが眠っていると思われます。
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上段の案内図があった場所から北東の斜面に広がる中世からの墳墓群(第Ⅱ地区)の風景です。

墳墓の盛り土の上に墓を識別する標識が立てられているようです。

説明文にあった六ヶ所に分かれた墓地が、時代で分かれていたのか、身分などで分かれていたのか、気になるところです。



ガイダンス施設から「勝山館」に向かう道の途中に案内板「夷王山墳墓群のアイヌ墓」に墓の説明図がありました。

左右の墓は、埋葬形式や、副葬品からアイヌの墓とされ、当時の「勝山館」をとりまく社会の様子を探る重要な遺跡としても注目されているようです。

■ガイダンス施設内の展示パネルにあったアイヌ墓の説明文です。
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夷王山墳墓群のアイヌ墓
 勝山舘の西後方、標高159mの夷王山の山裾から勝山館の背後を取り囲むように650余りの盛土の墓が、六地区に跨って広がる。1952年からの発掘調査で、火葬や北頭位・屈葬で土葬された仏教様式の墓であることが分り、勝山館の人たちの墓地と考えられているしても。
勝山舘跡に最も近い第Ⅰ地区から東頭位伸展土葬墓が2基、北頭位屈葬土葬墓に隣り合って見つかった。伸展葬墓は身体の脇や真ん中に太刀が置かれ、漆器や小刀、針、骨鉱などが副えられた男性の墓である。
一基は二人合葬の墓で、その一人はニンカリという銀製の耳飾りをつけている。葬法は江戸時代のアイヌの墓に共通する。周囲にアイヌの葬送儀礼を知る人の存在が見えてくる。
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■アイヌ墓のそばの案内板にあった説明文です。
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夷王山墳墓群のアイヌ墓
仏教様式の墓と隣り合って、頭を東に向け身体を伸ばして埋葬した墓が見つかりました。身体の脇や上に太刀を置き、漆器や小刀などをそえた男性の墓です。一人は錫製の耳飾をつけています。江戸時代のアイヌの墓の様子と同じなので、勝山館の中にアイヌの人たちがいたと思われます。
このすぐ北は斜面を削って砂利を敷いた墓所で、小屋根をかけた墓や、アイヌの子供のものと思われる墓もあります。
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二つの説明文で、耳飾(ニンカリ)が銀製と、錫製に相違があります。



「アイヌ墓」のある細い道から少し広い道に出ると、すぐに「搦め手門跡」が見えてきました。

急斜面の坂の先の左右に柵があり、「搦め手門」があった場所と思われます。



「溺手門」の前にあった付近の案内図です。

搦手門の前に幅の広い空堀Ⅲがありますが、手前に平行して空堀Ⅱ、搦手門に向かって左側にも空堀Ⅰが見られます。

空堀が造られた年代が不明で、断定も出来ませんが、空堀Ⅰは、ゴミ捨て場に沿って掘られており、ゴミ捨て場の排水と、空堀Ⅱの雨水を空堀Ⅲに誘導し、下流側にある川に流していたものと推察されます。

川に隣接する池は、泥やゴミを留め、直接川へ流さない配慮だったようにも見受けられます。

■「空堀Ⅰ」のそばにあった案内板です。
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溺手の構え
 城の正面を大手といい、背後を溺手[からめて]といいます。
勝山館の両側は寺ノ沢と宮ノ沢に深く刻まれ、天然の要害になっています。後ろ側の尾根が細くなったところを掘り切って空堀を作り、内側に土塁を高く築いてその上に柵をめぐらせ、厳重に守りを固めています。
 土塁の中央には門を構え、空堀Ⅲは断面がⅤ字形の「薬研掘」となっていました。
 空堀は15世紀後半から16世紀の間にⅠからⅢの順に造り替えられていますが、ⅡとⅢは一緒に使われた時期があったとも考えられます。
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CGで再現された「勝山館」の画像です。

搦手門側から見た「勝山館」で、ガイダンス施設でビデオ放映されていたものです。

中央を貫く通りは、搦手門から北東方向に伸び、「勝山館」は、柵と急な斜面で守られていたようです。

■搦手門の前にあった案内板の説明文です。
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勝山館の後ろの守り
神仏に守られて
1470年頃、夷王山の東に勝山館が造られました。館の中心部は二つの沢に挟まれた丘の上で、周りの柵や、前と後ろの空堀(水のない堀)などで守ります。堀に架かる橋から続く道が館の中央を通り、道の両側には住居などが建っていました。
一番高いところに館の守護神、館神八幡宮があり、夷王山(医王山)には薬師如来などが祀られました。山の麓には勝山館跡の後ろを取り囲むように650あまりの墓があります。勝山館の後方は神仏や祖先に守られていたことが分かります。
この近くからは、ゴミ捨て場や井戸、池、倉庫の跡なども見つかっています。
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搦手門を入り左手、階段状の敷地最上段に「館神八幡宮跡」がありました。

正面の建物跡の他、右手奥にも小さな建物跡があり、写真右下には「鳥居跡」と書かれた石が置かれていました。

凸型に石で囲まれた建物跡の中には柱の敷石が並んでいるようです。

右手奥の小さな建物跡には石を丸く並べた柱跡が四ヶ所見え、掘立柱の建物だったようです。



「館神八幡宮跡」の前にあった案内板の説明図です。

凸型の建物跡は、「江戸再建社跡」とあり、右手奥の建物跡は「室町創建社跡」とあります。

右側や、下側の建物跡には「掘建柱建物跡」とあり、室町時代に創建された社と同時代の建物だったのでしょうか。

■案内板の説明文です。
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館神八幡宮跡
1473年松前氏初代武田信広は館の上に八幡神を祀り館神と称しました。この頃までに勝山館も出来上がったと思われます。
 高い部分を削り下伏西から南を囲む土塁を造つて柵を立て、正面に溺手門を設け堀を渡る橋を架けています。
 土塁の内側で掘立柱の建物跡と礎石立[そせきだて]の建物跡が見つかりました。掘立柱は創建当初の社跡で、礎石は1770年に修理した本殿覆屋の跡と思われます。北東部分の土塁はこの頃に築かれたもののようです。
現在の上ノ国八幡宮本殿は1699年に造り替えられたもので、1875年に現在地に遷された北海道最古の建造物です。
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通りを進み、通りの両側に柵が見える勝山館の北東の端に来たようです。

柵のある通路の脇に太く短い柱があり、門の跡だったのでしょうか。

通りの両脇には排水溝があり、空堀へ流れ込んでいたようです。

左右の土地は、階段状に整備され、海の見える風光明媚な宅地の造成地にも見えます。



勝山館の北東の門跡が見える辺りにあった案内板の建物跡説明図です。

凡例には茶色が「住居」、緑が「クラ」、紫が「コヤ」とあり、建物が混在していたようです。

下の説明文では、図の上部の柵に沿った部分が「三段目(帯郭)」とあり、土塁の上に柵があったと思われます「物見櫓」があったとしています。

その内側「二段目」と書かれた場所も一段目より高くされていたようです。

凡例では紺色ほ「櫓」とし、二段目、三段目、空堀の上に櫓があったようです。

「現在地」の左の通路にも紺色の「櫓門」とされる場所がありますが、他の再現図には見当たらず、謎のままです。

■案内板の説明文です。
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東の厳重な守り
帯郭[おびぐるわ]と物見櫓
勝山館跡の中央には幅3.6mの通路が通っています。道の両側に、広さ100~140㎡ほどの土地を階段状に造って住居などを建て、平地全体を柵で囲んでいます。
中央の道の南東側は、宮ノ沢に向かって切り下げられ、沢のすぐ上の三段目は細い帯のようになうています(帯郭)。
堀の上や郭の東隅、帯郭の上には物見櫓があり、帯郭に沿って小さな建物が並んでいます。館を守る兵が集まる小屋かと思われます。
勝山館の東側は厳重に守られていたことが分かります。
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ガイダンス施設に展示されていた「勝山館C.G復元と整備」の写真です。

正門のある東北方向から見た「勝山館」の再現画像で、左手の谷が「華ノ沢」、右手の谷が「寺ノ沢」です。

「寺ノ沢」の名は、「夷王神社」となった1893(明治26)年以前には「夷王山」に薬師如来が祀られていたことによるものかも知れません。

門の右手には「客殿」があり、来客のもてなしは、海がよく見える最高の場所が選ばれたようです。

時間がなく、ゆっくりと見学出来ませんでしたが、中世の山城の雰囲気は、味わうことが出来ました。


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