「米山寺」の小早川氏一族の墓所には鎌倉幕府三将軍の供養塔、小早川家歴代の「宝筐印塔」※が十七基あります。
写真上は、「小早川隆景」のお墓で、前列の向かって一番右側にあります。ワンカップ大関(日本酒)が供えられていました。
お殿様のお口に合いますやら・・・。
写真下は、「土肥実平」のお墓で、後列のやや左付近にあり、「小早川祖」と書かれています。
お墓に刻まれている字を見ると、「小早川平隆景郷墓」「土肥平実平墓」と、姓名の間に「平」があり、変に思えますが、「小早川」「土肥」は地名で、正式名は「平隆景」「平実平」と考えられ、平氏と分かります。
「土肥実平」は、桓武平氏 良文流 中村宗平の次男で、「土肥」は、相模の領地土肥郷にちなむといわれています。
「土肥実平」は、息子「遠平」と共に1180年源頼朝の挙兵から側近として活躍した武将で、瀬戸内海での平氏打倒の戦いにも活躍したようです。平氏滅亡後は、相模の領地の他、備後の守護となったようです。小早川性の始まりは、2代目「遠平」のようで、頼朝から与えられた相模の早川荘の名にちなむといわれています。
「遠平」の養子「景平」は小早川の名字と安芸国沼田荘を譲り受け、本格的な基礎を築いたのは四代目「茂平」のようです。「茂平」の墓は、広島県本郷町の永福寺にもあります。
「小早川隆景」は、毛利元就の三男で、政略的に竹原小早川家の養子となり、その後沼田本家を併合したことはよく知られています。
小早川の城は、高山城から新高山城、更に三原城と移り、現在の三原は城下町として発展しました。
※「宝筐印塔」
経典「宝篋印陀羅尼経」に基づく供養塔で、笠の四隅の「隅飾り突起」が特徴です。室町時代以降は、供養塔だけでなく、墓標としても建てられたようです。
写真上は、「小早川隆景」のお墓で、前列の向かって一番右側にあります。ワンカップ大関(日本酒)が供えられていました。
お殿様のお口に合いますやら・・・。
写真下は、「土肥実平」のお墓で、後列のやや左付近にあり、「小早川祖」と書かれています。
お墓に刻まれている字を見ると、「小早川平隆景郷墓」「土肥平実平墓」と、姓名の間に「平」があり、変に思えますが、「小早川」「土肥」は地名で、正式名は「平隆景」「平実平」と考えられ、平氏と分かります。
「土肥実平」は、桓武平氏 良文流 中村宗平の次男で、「土肥」は、相模の領地土肥郷にちなむといわれています。
「土肥実平」は、息子「遠平」と共に1180年源頼朝の挙兵から側近として活躍した武将で、瀬戸内海での平氏打倒の戦いにも活躍したようです。平氏滅亡後は、相模の領地の他、備後の守護となったようです。小早川性の始まりは、2代目「遠平」のようで、頼朝から与えられた相模の早川荘の名にちなむといわれています。
「遠平」の養子「景平」は小早川の名字と安芸国沼田荘を譲り受け、本格的な基礎を築いたのは四代目「茂平」のようです。「茂平」の墓は、広島県本郷町の永福寺にもあります。
「小早川隆景」は、毛利元就の三男で、政略的に竹原小早川家の養子となり、その後沼田本家を併合したことはよく知られています。
小早川の城は、高山城から新高山城、更に三原城と移り、現在の三原は城下町として発展しました。
※「宝筐印塔」
経典「宝篋印陀羅尼経」に基づく供養塔で、笠の四隅の「隅飾り突起」が特徴です。室町時代以降は、供養塔だけでなく、墓標としても建てられたようです。