昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

北海道旅行No.22 「黄金道路」と、近藤重蔵が造った江戸時代の山道

2011年09月12日 | 北海道の旅
北海道旅行4日目 6/6(月)、十勝平野の南端から襟裳岬へ進む国道336号は、「黄金道路」と呼ばれる断崖絶壁を切開いた海岸の道になります。



断崖絶壁の海岸に続く黄金道路の風景です。

広尾町音調津[おしらべつ]-地図②の南、「モイケシ覆道」-地図③付近から北を見た風景です。



十勝平野の南端広尾町から襟裳岬辺りまでの地図です。

襟裳岬を見物した後、立ち寄った「えりも町郷土資料館ほろいずみ」の展示によると「黄金道路」は、「広尾町広尾橋」-地図①から「えりも町庶野」-地図⑤までの約32Kmの区間とされていました。



「えりも町郷土資料館ほろいずみ」の「黄金道路」の展示コーナーです。

大きな航空写真には急峻な岩場の海岸に延々と続く整備された「黄金道路」が見えます。

■「黄金道路」の説明文です。
*****************************************************************************************
黄金道路
黄金道路は国道336号線のえりも町庶野から目黒を通って、広尾町広尾橋までの険しい海岸線約32キロにおよぶ道路の愛称です。そそり立つ断崖絶壁からは四季をとわず石が崩れ落ち、冬には雪崩が多発するルートです。7年の歳月と多額の費用が投じられ、昭和9年(1934)に開通「まるでお札を並べたような道路だ」として黄金道路といわれるようになりました。断崖を走るワインディングロードからの眺めには素晴らしいものがありますが、現在に至るまでには、遠く寛政の頃にはじまる苦難の歴史があります。
*****************************************************************************************



この絵も「えりも町郷土資料館ほろいずみ」の「黄金道路」展示コーナーにあったものです。

荒波が打ち寄せる岩場の道を数名のアイヌと思われる人たちの案内で歩く武士たちの姿が描かれています。

このような道では、波の荒い時には通行が出来なくなってしまいます。

悪天候で足止めをくった近藤重蔵が私財を投じて迂回する山道を造らせようとした昔の黄金道路の姿のようです。

■絵に添えられていた説明文です。
*****************************************************************************************
山道開削
寛政10年(1798)近藤重蔵は探検調査の帰り道、広尾にて大暴風雨にあい足どめをくい、道路を開削しようと思い立ち、通詞やアイヌ民族と相談し資金を出してアイヌ民族を雇い、従者下野源助に道路開削を指揮させ、十勝場所のルベシベツ山道からビタタヌンケまでの山道ルベシベツ山道約12キロ(3里)を開削しました。これは蝦夷地における道路開削の最初です。この時代蝦夷地は松前藩の領地でしたが重蔵はまったく独断でこれをおこないました。
*****************************************************************************************



これも「黄金道路」のコーナーにあった「近藤重蔵」の写真です。

■写真の説明文です。
*****************************************************************************************
近藤重蔵
文政12年(1829)~明和8年(1771)
江戸(東京)の与力の子として生まれる。幼少の頃より心身ともに優れていた。
寛政10年(1798)幕府の蝦夷地への2回目の探検隊に参加し、最上徳内と共にエトロフ島に渡り日本領のしるしの柱を立てた。その帰り道、広尾にて道路開削を思い立ち、現在の目黒から広尾の間に山道を開いた。
*****************************************************************************************



「えりも町郷土資料館ほろいずみ」に「黄金道路誕生までの施工経過図」と書かれた地図がありました。

近藤重蔵が開削させた「ルベシベツ山道」は右上にあり、海岸を迂回したルートも描かれています。

「ルベシベツ山道」から更に南に続く「猿留山道」など、江戸時代から明治以降の山道整備の歴史も紹介されています。

■地図に添えられた説明文です。
*****************************************************************************************
ルベシベツ山道(約3里)
寛政10年(1798)近藤重蔵によって山道開削
北海道における始めての道路

猿留山道(幌泉~ヒタタフンケ間約7里)
寛政11年(1799年)幕府御用掛大河内政寿の命により
最上徳内などにより山道開削
*****************************************************************************************



「ルベシベツ山道」が造られていた辺りの地図です。

地形図では海岸線の道路とは別に内陸部に道路と、ルベシベツ川(北の約4分の1)とで結ばれた「ルベシベツ山道」跡と思われるルートが浮かんできます。
(河口付近の集落内にも道が描かれておらず、地形図に道が省略されている可能性もあります)

南の海岸から続く「ルベシベツ山道」跡の約4分の3は、改良されて車道として現在も続いているようです。



「モイケジ覆道」の向こうにルベシベツ川河口のある「タニイソトンネル」入口が見えます。(上段の地図③付近)

「ルベシベツ山道」は、トンネル入口の見える山の右手に沿って造られたようです。



広尾町と、えりも町の境「ビタタヌンケ」に「ルベシベツ山道」の南端と思われる場所がありました。(最初の地図④付近)

二つ並んだ山の手前にある左に入る道が「ルベシベツ山道」跡と思われます。

交差点近くに襟裳岬の「風の館」の看板があり、向こうには断崖の下に覆道の入口が見えます。



えりも町庶野の国道336号沿いにあった「黄金道路」の記念碑の横で妻の記念写真を撮りました。(最初の地図⑤付近)

この辺りが「黄金道路」の南端のようで、北の急峻な岩場の海岸に美しい風景が続いています。

道路脇が広くなって地元の人たちの車が数台駐車していました。



「黄金道路」の記念碑の前の海岸のあちこちに海藻を採っていると思われる人の姿が見え、ズームで撮ってみました。

レジ袋や、大きめのザルを持って採っていることから家族のための海藻採りのようです。

干潮の岩場で採れる自然の恵みは何だったのでしょうか。



石碑の横から海岸の南方向を見た風景で、この辺りから右手の山の傾斜がなだらかになってきました。

「黄金道路」の記念碑と、地形の変化で、長かった「黄金道路」の終点を実感させられます。

この少し先には長い長い「百人浜」が続いていました。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
年号間違い (物見高男)
2015-04-06 19:46:25
近藤重蔵は明和8年(1771年)の生まれで、「明治」ではありません。没年は正しいです。
返信する
年号間違い (tako_888k)
2015-04-07 07:26:51
物見高男様

ご指摘ありがとうございます。
早速訂正させて頂きました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。