昔に出会う旅

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北海道旅行No.23 百人浜から眺める「豊似岳」と、「一石一字塔」

2011年09月15日 | 北海道の旅
北海道旅行4日目 6/6(月)、黄金道路から襟裳岬をめざして海岸沿いを南下すると、道は国道336号から分かれて道道34号になりました。



道道34号(襟裳岬公園線)を走っていると右手に堂々とした山が見えてきます。

道路には走る車も少なく、路肩に車を停めて雄大な山を見物しました。

地図から推察すると、最も高い峰が「豊似岳」、その右が「観音岳」と思われます。

標高1,105mの「豊似岳」は、日高山脈の南端、襟裳岬付近では千メーターを超える唯一の峰のようです。



襟裳岬の北に伸びる「百人浜」の長い海岸付近の地図です。(地図のすぐ下に襟裳岬があります)

前回紹介した断崖の続く「黄金道路」は、地図右上「庶野[しょや]漁港」付近で終わり、襟裳岬までなだらかな地形が続いています。

国道336号は、襟裳岬の北をショートカットして西岸に続いていました。

長い砂浜が南北に続く「百人浜」の中央付近に駐車場があり、浜辺に続く散策道があります。



道道34号(襟裳岬公園線)の左手に「百人浜」の海岸線が見えてきました。

長い砂浜の向こうには、かすかに襟裳岬が見えてきます。

好天に恵まれた日でしたが、冬季の悪天候の日などには厳しい風雪にさらされる土地でもあるようです。



車を止めて「豊似岳」を眺めた後、道道34号の北方向を振返った風景です。

道路標識に「道道34号北海道 襟裳岬公園線 えりも町庶野」とあり、右手の海岸側には庶野漁港付近かから家並みが続いていました。

庶野漁港周辺は、江戸時代から栄えた港で、えりも町の中でも比較的大きな集落のようです。



道道34号を走っていると右手前方になだらかな円錐形の山が三連になった面白い風景がありました。

しかも周囲の山の表面とは違い、木が無く、草原になっています。

地図で見ると牧場のエリアにあり、あの山には牛が放牧されるものと思われます。



タンポポの花が咲き乱れる広い草原があり、立ち寄ってみました。(地図に「タンポポの草原」と書いた場所です)

向かって左の円錐形の山は、「オキシマップ山」、向かって右のやや低い山が「観音岳」、その間に「豊似岳」の長い峰が続いているものと思われます。(地図から推察)

黄色いタンポポの草原、美しい山容に感激、これも想い出に残る北海道の雄大な風景でした。



上段の写真とほぼ同じ場所から左手の「オキシマップ山」部分を撮った風景です。

タンポポの草原の向こうに何かの建物が見え、円錐形の山にも魅かれました。



百人浜の駐車場の南から北の道路側を見た風景です。

左手に駐車スペース、中央に二つの三日月を組合せたような百人浜の看板があり、そのすぐ右側には百人浜の展望台が見えます。

百人浜の展望台は、浜辺に向かう散策道(次回紹介します)の途中にそびえていました。



百人浜の駐車場から南の襟裳岬方向の風景です。

左手に百人浜に沿った道道34号が走り、右手にラクダのコブのような低い峰が続いています。

先の峰に光る建物は、自衛隊のレーダーのようでした。



駐車場の北側に「北緯42°地点 」「風のまち えりも」と書かれた石碑が建っていました。

この地点が北緯42°のようです。

石碑には襟裳岬に生息する「ゼニガタアザラシ」「襟裳岬灯台」「昆布」の絵が刻まれ、「風」の文字と共に町の名物が紹介されていました。

襟裳岬周辺は「ゼニガタアザラシ」が日本最大の約300頭生息し、一年中姿が見られるようです。

又、この地域は、風速10m以上の強風が年間290日以上もあるようで、荒波の海岸に育つ昆布と、灯台の立つ雄大な襟裳岬の風景と併せて町の自慢をアピールしています。



駐車場の北に石碑「一石一字塔」があり、その横に案内板が見えます。

江戸時代、この辺りの海域は、濃霧による海難事故が多発し、多くの人々が亡くなったようです。

そのため様似町(えりも町の西隣)の「等澍院」住職「秀暁」により遭難者の慰霊と、航海安全の祈願が行われ、その記念碑が「一石一字塔」のようです。

「等澍院」(天台宗)は、1806年に江戸幕府が蝦夷地に造った寺院で、伊達市有珠町善光寺(浄土宗)、厚岸町国泰寺(禅宗)とあわせて「蝦夷三官寺」と呼ばれています。

「一石一字塔」の建立は、「等澍院」が建立された年と同年1806年とあり、この海域の海難事故への対応が新住職「秀暁」にとって重要課題だったことがうかがえます。

■駐車場脇の案内板にあった説明文です。
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<百人浜と一石一字塔の由来>
襟裳岬周辺海域は、古来より航海の難所で海難事故が多く、その昔遭難した南部藩の船から砂浜に流れ着いた百余名の乗組員が、飢えと寒さで亡くなったと云う伝説に由来し、文化3年(1806年)に村民達が遭難者の霊を供養するために、一石一字塔を建てたと云われています。
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■写真右手の案内板を転記しました。
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一石一字塔
(1806年建立)えりも町指定文化財
由来
 江戸時代、蝦夷地に和人が入り、東蝦夷地(北海道の太平洋岸)はコンブなどの魚場として開発された。蝦夷地と本州との交易は北前船を用い、帆を張り風を利用する航海てあった。このため悪天候に遭遇し遭難する船が多かった。襟裳岬は風が強く、蝦夷地でも有数の航海が困難な海域であった。
 東蝦夷地に場所(海産物などを生産し、本州からの商品と交易する地域)が開かれ多くの和人が入り、また、ロシアの南下への脅威から北方警備の重要性が認識された。さらに和人の心の拠り所として、アイヌの統制をも考慮し、幕府は東蝦夷地に寺院(伊達・様似・厚岸)を建立することを文化元年(1804)に許可決定した。様似等澍院は文化三年(1806)に建立され、幌泉場所(現在のえりも町地域)は、様似等澍院の管轄であった。
 碑文を解釈すると、建立の意図は海難者の追善供養であることが明白だが、ひいては法力により安全な航海ができるようにとの願いが込められているとも考えられる。また、当時のアイヌに対し、統制のために仏教の待つ荘厳さを印象づけるねらいもあった可能性がある。
 この一石一字塔は、建立時は、東の在田川河口に建立されたとされ、その後、2回移設され、昭和三十一年(一九五六)現在地に安置された。現在、埋納遺構や礫石経等の遺物は確認できない。
 一石一字塔の建立時には、大法要が施行され、幌泉場所(保呂泉場所)の管長八谷佐吉らが全面的な支援をおこなったと考えられる。江戸幕府の東蝦夷地での統制を引き締める歴史的行為が幌泉場所て行なわれた物的証拠として、極めて重要な石碑である。

碑文解釈
 北海道の東南にある百人浜は、鉄のように硬い鋭い岩盤がそびえならび怒濤は山に向かうような大波であります。
 海霧は始終沸き出て周囲を覆い隠し、そのため船乗りたちもたちまちのうちに方向を見失ってしまうことが多く、このために遭難して溺れ死ぬ者が最も多いと言われている所であります。或るときは一日に数隻も遭難することもあり、そのことは珍しいことでも不思議なことでもありません。八谷佐吉は、南部の出身の人ですが、幌泉支配人として長い間この海難事故に心を痛めていたのです。丁度、文化二年(1806)に時の幕府の命令を受けて、私は初めて仏教を広める為に、この地方に赴任して参りました。この地方の住民たちは、八谷佐吉と同じく皆心を痛めていたので、私に妙法蓮華経第十六品如来寿量品(約二千四百字数)のお経を一つの石に一字づつ写経して追薦の供養を行って欲しいと請われたのであります。
 様似の勤番所詰合人である南部藩士田中定右衛門は、非常に喜んで法要を護衛することになりました。その時大変に不思議なことが突如起こったのであります。法要の最中に昔沈没していた船の帆柱がにわかに浮き上がって岸辺に漂着致しました。驚いて帆柱をうやうやしく運んできて法要の席に奉ったのであります。あ~信仰の心、仏に御心に達したことは明らかで疑う余地もなく、私はこのことを喜んで思わず合掌したたえて詩を詠んだのでありました。

 御心の御教えいよいよ整い熱しその御心は東北海道に布教伝播されました。
 溺死した者の霊魂永い間さまよいしその苦労今は暁の風のごとく吹き去りて自ら戸を開けるように悩みが急に取り除かれた感にうたれにわかにめでたい感じが全身を走り抜け堰を切ったように涙がとどめなく流れ碑をぬらしてしまいました。

 仏のみ教えによる供養の功徳は永遠に動くことなく、直にに弥勒菩薩が説法する衆生済度の法会場に至り一字一字は金の仏を現し教化弘法のために果てしなく寄与することでありましょう。

   文化三年旧暦九月中旬 帰郷向山第一世法師権大僧都 秀暁 勤書

     功徳主 保呂泉舘舎
           管長(支配人 八谷佐吉)
           譯人(通詞<アイヌ語通訳>)守者(番人)

※「沙摩尼之館主」とは、シャマニ(様似)会所の勤番詰合人番頭で南部藩士田中定右衛門のことである。
         えりも町教育委員会****************************************************************************************



「一石一字塔」の南側に「観音堂」と書かれた建物が並んでいました。

海難事故で亡くなった多くの人々に観音様の救いの手をさしのべて戴く願いが込められたものでしょうか。

道路を挟んだ「観音堂」の前には百人浜へ続く散策道の入口がありました。



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
襟裳岬 (なりひら)
2011-09-17 00:54:46
学生時代に北海道1周で、襟裳岬にも立ち寄りました。40年前ですから、もうほとんど覚えていないのですが、まぎれもなく写真に写っています。夏でしたが、ガスが出てずいぶん肌寒かったように記憶しています。
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旅の想い出 (tako_888k)
2011-09-17 05:18:02
なりひら様
40年前の旅行ですか。
調べてみたら森進一の「襟裳岬」のレコードが発売されたのが37年前の1974年でした。
ワクワクして歩いた旅行の想い出も長い月日が経つと、悲しくも風化してしまいますね。
わずかに残った写真で、思い出をよみがえらせるのも又いいものです。
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