8月1~3日、函館旅行に行って来ました。熊野・伊勢・志摩旅行の記録をちょっと中断して近況報告です。
函館旅行を計画したきっかけは、5月の熊野の旅行で見た「日本写真界の先駆者 田本研造之碑」と刻まれた石碑でした。 (このブログ 2009-05-19 熊野「鬼ヶ城」の石碑で知った写真家「田本研造」 でも紹介しました)
幕末・明治の写真家「田本研造」(熊野市出身)は、函館で右足を失いながらも写真家として偉業を残した人で、「函館市写真歴史館」に「田本アルバム」が展示されていることを知りました。(函館市中央図書館のサイトにも写真を公開中)
「田本研造」は、「箱館戦争」直前に「榎本武揚」「土方歳三」の写真を撮ったことでも知られ、北海道開拓の貴重な記録写真などを残した興味深い人物です。
先月7/5 福山市ローズコム(中央図書館)で「福山藩の箱館戦争」の講演会があり、旧幕府軍と、明治新政府軍が戦った「箱館戦争」で、福山藩(広島県東部)も新政府軍の主力部隊として500名以上を出兵したことを知りました。
又、講演会では旧幕府軍は、幕府の海軍副総裁だった「榎本武揚」を総裁とする箱館政権を樹立して戦いましたが、「榎本武揚」の父「箱田良助」は、福山市神辺町箱田の出身だったことも驚きでした。
「箱田良助」は、日本地図を作成した「伊能忠敬」筆頭の弟子で、北海道の測量のスタート地点が函館だったことも何かの縁だったかも知れません。
しかし、最も函館に大きな影響を与えたのは日米和親条約を締結し、函館を開港した備後福山藩主で、江戸幕府老中首座の「阿部正弘」だったと思われます。
黒船の到来と、その外交圧力で条約締結を承諾した老中「阿部正弘」や、長州藩の倒幕軍に降伏し、箱館戦争に駆出された福山藩の判断には、歯がゆい想いがしますが、徹底抗戦して多くの死者を出した、榎本武揚や、会津藩の判断と、極めて対象的です。
それぞれの立場、置かれた状況の違いを含めて、激動の時代の判断のあり方を考えさせられる歴史の場面でもあるようです。
備後福山と函館の様々な関係を知り、明治維新を挟む激動の時代に想いを馳せた函館旅行になりました。
中心が青く、白い花弁の額紫陽花です。
今回の函館旅行で、最も印象的だった花は函館市内各所で満開だった紫陽花でした。
額紫陽花は、函館市末広町のマンションの玄関付近に植えられていました。
レンガの舗道を向かって右に歩いて行きました。
マンションの前を通り過ぎ、振り返った景色です。
マンションの前にコンクリートの大きな電柱が立っています。
このブログ 2009-07-06 外宮 北御門前に立つ80年前のコンクリート電柱で紹介した「日本最古のコンクリート電柱」で、大正12年に造られたとされています。
この「日本最古のコンクリート電柱」も伊勢外宮の昭和三年に造られたコンクリート電柱から興味を持ち、見学を楽しみにしていました。
電柱の根元部分です。表面にはひび割れがありますが、大正時代のものとは思えない新しそうな外観でした。
案内板がなく、これが本当に「日本最古のコンクリート電柱」なのかと持参した地図で確認しました。
伊勢神宮 外宮前に立つコンクリート電柱は、断面が丸いものでしたが、この「日本最古のコンクリート電柱」の断面は四角形です。
電柱のてっぺんを見上げてみました。
電線の他、電話線などもあるようで、やはりバリバリの現役電柱に見えます。
電柱を少し見上げた辺りに鉄のサビか目立つようになっていました。
これからも長く立ち続けるように保全をしてほしいものです。
電柱に木の板が取り付けられ、こんな表示がありました。
一番上に「北電」(北海道電力)と書かれていますが、以下は何のことやらさっぱり分かりません。
マンション一階にある喫茶店です。
このお店の前に「コンクリート電柱」があります。
電柱は、以外に古さを感じませんが、むしろこちらの喫茶店のほうが、レトロな雰囲気にも思えます。
函館旅行を計画したきっかけは、5月の熊野の旅行で見た「日本写真界の先駆者 田本研造之碑」と刻まれた石碑でした。 (このブログ 2009-05-19 熊野「鬼ヶ城」の石碑で知った写真家「田本研造」 でも紹介しました)
幕末・明治の写真家「田本研造」(熊野市出身)は、函館で右足を失いながらも写真家として偉業を残した人で、「函館市写真歴史館」に「田本アルバム」が展示されていることを知りました。(函館市中央図書館のサイトにも写真を公開中)
「田本研造」は、「箱館戦争」直前に「榎本武揚」「土方歳三」の写真を撮ったことでも知られ、北海道開拓の貴重な記録写真などを残した興味深い人物です。
先月7/5 福山市ローズコム(中央図書館)で「福山藩の箱館戦争」の講演会があり、旧幕府軍と、明治新政府軍が戦った「箱館戦争」で、福山藩(広島県東部)も新政府軍の主力部隊として500名以上を出兵したことを知りました。
又、講演会では旧幕府軍は、幕府の海軍副総裁だった「榎本武揚」を総裁とする箱館政権を樹立して戦いましたが、「榎本武揚」の父「箱田良助」は、福山市神辺町箱田の出身だったことも驚きでした。
「箱田良助」は、日本地図を作成した「伊能忠敬」筆頭の弟子で、北海道の測量のスタート地点が函館だったことも何かの縁だったかも知れません。
しかし、最も函館に大きな影響を与えたのは日米和親条約を締結し、函館を開港した備後福山藩主で、江戸幕府老中首座の「阿部正弘」だったと思われます。
黒船の到来と、その外交圧力で条約締結を承諾した老中「阿部正弘」や、長州藩の倒幕軍に降伏し、箱館戦争に駆出された福山藩の判断には、歯がゆい想いがしますが、徹底抗戦して多くの死者を出した、榎本武揚や、会津藩の判断と、極めて対象的です。
それぞれの立場、置かれた状況の違いを含めて、激動の時代の判断のあり方を考えさせられる歴史の場面でもあるようです。
備後福山と函館の様々な関係を知り、明治維新を挟む激動の時代に想いを馳せた函館旅行になりました。
中心が青く、白い花弁の額紫陽花です。
今回の函館旅行で、最も印象的だった花は函館市内各所で満開だった紫陽花でした。
額紫陽花は、函館市末広町のマンションの玄関付近に植えられていました。
レンガの舗道を向かって右に歩いて行きました。
マンションの前を通り過ぎ、振り返った景色です。
マンションの前にコンクリートの大きな電柱が立っています。
このブログ 2009-07-06 外宮 北御門前に立つ80年前のコンクリート電柱で紹介した「日本最古のコンクリート電柱」で、大正12年に造られたとされています。
この「日本最古のコンクリート電柱」も伊勢外宮の昭和三年に造られたコンクリート電柱から興味を持ち、見学を楽しみにしていました。
電柱の根元部分です。表面にはひび割れがありますが、大正時代のものとは思えない新しそうな外観でした。
案内板がなく、これが本当に「日本最古のコンクリート電柱」なのかと持参した地図で確認しました。
伊勢神宮 外宮前に立つコンクリート電柱は、断面が丸いものでしたが、この「日本最古のコンクリート電柱」の断面は四角形です。
電柱のてっぺんを見上げてみました。
電線の他、電話線などもあるようで、やはりバリバリの現役電柱に見えます。
電柱を少し見上げた辺りに鉄のサビか目立つようになっていました。
これからも長く立ち続けるように保全をしてほしいものです。
電柱に木の板が取り付けられ、こんな表示がありました。
一番上に「北電」(北海道電力)と書かれていますが、以下は何のことやらさっぱり分かりません。
マンション一階にある喫茶店です。
このお店の前に「コンクリート電柱」があります。
電柱は、以外に古さを感じませんが、むしろこちらの喫茶店のほうが、レトロな雰囲気にも思えます。