北海道旅行7日目 6/9(木)、最初の観光スポット寿都町の「鰊御殿」の見物です。

寿都町の「鰊御殿橋本家」(明治12年[1879年]完成)の全景です。
日本海沿いの国道229号に入り、北へ約2Kmの場所にありました。
中央に旅館の看板のある母屋、向かって右に蔵、左に倉庫と思われる建物が並んでいます。
早朝、函館市のホテルを出発、長万部から太平洋岸を離れ、日本海沿岸の寿都町へ着いたのは8:20頃でした。

北海道旅行7日目の予定は、函館市から積丹半島を経由して小樽までの約300Kmの行程です。
小樽まで車で走行するだけで7~8時間かかるため、ラッシュ前の早朝に出発、ほぼ中間地点の寿都町へ8:20頃着くことができました。
渡島半島の西海岸を走る国道229号は、前日訪れた江差と、小樽を結んでいます。

道路の向かいから見た「鰊御殿橋本家」の母屋です。
後方に低い山があり、前方は日本海を望みます。
正面から見ると寄棟屋根の二階建建物の堂々たる姿に魅せられます。
寿都町のサイトによると、橋本家は、鰊漁の網元ではなく漁家へ資金提供し、鰊の加工品(鰊粕・身欠き鰊・数の子など)で返済を受けて販売する「仕込屋」と呼ばれる商家だったようです。
やはり鰊漁場の番屋とは建物の趣が違います。

玄関の上に「御宿 鰊御殿」の看板が見えますが、今でも旅館を営んでいるのでしょうか。
一見、昭和の一般民家のような造りにも見えますが、建具をよく見ると明治時代初期、意欲的に洋風化を取り入れた建物だったことが伝わってきます。

屋根の上に小さな切妻屋根の施設が二つ並んでいました。
屋根に突き出た四角の柱の壁にある開口部から、煙出しの施設と推察されます。
シンプルな寄棟屋根にこれら大小の「越屋根」が変化のある美しさを演出しているようです。

向かって右の蔵と思われる建物です。
一見、質素な建物に見えますが、二階の窓周辺に手間をかけた細工が見られます。

向かって左の倉庫と思われる建物です。
屋根や壁に老朽化が見られます。
建物後方に全体をブルーシートで覆われた建物が見えますが、もっと破損が進み保護されているのでしょうか。
歴史的な建造物でも風化しやすい板壁の建物の維持は、困難な問題のようです。

「鰊御殿橋本家」から国道229号を北へ約1Km走った場所にある「漁場建築 佐藤家」です。
1894年(明治27)に釘をいっさい使わず造られた間口24.3m、奥行18mの「鰊御殿」です。
■建物の脇にあった案内板です。
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有形文化財
漁場建築 佐藤家
所 在 地 寿都郡寿都町字歌棄町
指定年月日 昭和四十年三月二九日
管 理 者 寿都町
カクジュウ(□の中に十)佐藤家は嘉永五(一八五二)年以降ウタスツイソヤ、二場所請負人を勤め歌棄場所から黒松内に至る十六キロ余りの道路、磯谷の能津登から岩内場所との境界アブシタまで四キロ余の道路を私費をもって開削し名字帯刀を許された定右衛門・栄右衛門父子の系図である。
またニシン漁獲法の改善を心がけ行成網を導入して西海岸のニシン漁の急速の発展に尽し維新後は駅逓取扱人を命ぜられ当地方随一の名家である。
この建物は主屋は間口二四.三メートル奥行一八メートルの二階建でよせ棟屋根に西洋風下見張り二階正面に櫛形ペジメントの付いた上げ下げガラス窓屋根の大棟をまたいて洋風の六角形の煙出しその背後に和風の切妻屋根の煙出しを設けた洋風と和風が入りまじった折衷の独特のスタイルの外形をもっている。またニシン場建築にみられる漁夫宿泊部を含んでいない点に特色がある。
建物の完成年代は外形の洋風建築形式からみて常識的に明治一〇年から二〇年の間の建築と思われる。旧態の保存が良好である上建築年代・規模・意匠・構造の諸点からみて現在の漁場建築中でこの建物に匹敵するものがない代表的な遺構である。
平成二年四月
寿都町教育委員会
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寄棟屋根の中央にガラス窓で囲まれた六角柱の施設がありました。
案内板によれば「六角形の煙出し」とありますが、ガラス窓の上・屋根の下には煙を出す開口部が見られず、ガラス窓にも開放構造が無いようにも見られます。
見る限り、ガラスには汚れも無く、煙出しの施設と思われませんが・・・。

建物を横から見た風景です。
屋根の上にある六角形のガラス窓の施設のすぐ右手に小さな屋根がのぞいているのが見えます。
案内板に「和風の切妻屋根の煙出し」と書かれた施設と思われます。
ガラスが高価だった明治20年代頃、「洋風の六角形の煙出し」とされる施設は、ガラスが煙で汚れることを考えると、明かり取りの施設だったと思われてなりません。

建物の正面を横から見た風景です。
玄関の向こうに柱で支えられた和風の竪繁格子のある出窓のような施設が続き、珍しく撮ったものです。
又、二階の屋根の下側も丸みのある壁で、洋風の窓と合わせてお洒落な雰囲気を感じさせてくれます。
一階が和風、二階や屋根の上の六角形の施設が洋風と、一般の住宅としては珍しい贅沢な建物です。

玄関の風景です。
かつては出入りする多くの人々で賑わう風景が見られたものと思われます。
老朽化した建物や、雑草が生えた玄関先を見ると過ぎ去った長い年月を感じさせられます。

寿都町の「鰊御殿橋本家」(明治12年[1879年]完成)の全景です。
日本海沿いの国道229号に入り、北へ約2Kmの場所にありました。
中央に旅館の看板のある母屋、向かって右に蔵、左に倉庫と思われる建物が並んでいます。
早朝、函館市のホテルを出発、長万部から太平洋岸を離れ、日本海沿岸の寿都町へ着いたのは8:20頃でした。

北海道旅行7日目の予定は、函館市から積丹半島を経由して小樽までの約300Kmの行程です。
小樽まで車で走行するだけで7~8時間かかるため、ラッシュ前の早朝に出発、ほぼ中間地点の寿都町へ8:20頃着くことができました。
渡島半島の西海岸を走る国道229号は、前日訪れた江差と、小樽を結んでいます。

道路の向かいから見た「鰊御殿橋本家」の母屋です。
後方に低い山があり、前方は日本海を望みます。
正面から見ると寄棟屋根の二階建建物の堂々たる姿に魅せられます。
寿都町のサイトによると、橋本家は、鰊漁の網元ではなく漁家へ資金提供し、鰊の加工品(鰊粕・身欠き鰊・数の子など)で返済を受けて販売する「仕込屋」と呼ばれる商家だったようです。
やはり鰊漁場の番屋とは建物の趣が違います。

玄関の上に「御宿 鰊御殿」の看板が見えますが、今でも旅館を営んでいるのでしょうか。
一見、昭和の一般民家のような造りにも見えますが、建具をよく見ると明治時代初期、意欲的に洋風化を取り入れた建物だったことが伝わってきます。

屋根の上に小さな切妻屋根の施設が二つ並んでいました。
屋根に突き出た四角の柱の壁にある開口部から、煙出しの施設と推察されます。
シンプルな寄棟屋根にこれら大小の「越屋根」が変化のある美しさを演出しているようです。

向かって右の蔵と思われる建物です。
一見、質素な建物に見えますが、二階の窓周辺に手間をかけた細工が見られます。

向かって左の倉庫と思われる建物です。
屋根や壁に老朽化が見られます。
建物後方に全体をブルーシートで覆われた建物が見えますが、もっと破損が進み保護されているのでしょうか。
歴史的な建造物でも風化しやすい板壁の建物の維持は、困難な問題のようです。

「鰊御殿橋本家」から国道229号を北へ約1Km走った場所にある「漁場建築 佐藤家」です。
1894年(明治27)に釘をいっさい使わず造られた間口24.3m、奥行18mの「鰊御殿」です。
■建物の脇にあった案内板です。
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有形文化財
漁場建築 佐藤家
所 在 地 寿都郡寿都町字歌棄町
指定年月日 昭和四十年三月二九日
管 理 者 寿都町
カクジュウ(□の中に十)佐藤家は嘉永五(一八五二)年以降ウタスツイソヤ、二場所請負人を勤め歌棄場所から黒松内に至る十六キロ余りの道路、磯谷の能津登から岩内場所との境界アブシタまで四キロ余の道路を私費をもって開削し名字帯刀を許された定右衛門・栄右衛門父子の系図である。
またニシン漁獲法の改善を心がけ行成網を導入して西海岸のニシン漁の急速の発展に尽し維新後は駅逓取扱人を命ぜられ当地方随一の名家である。
この建物は主屋は間口二四.三メートル奥行一八メートルの二階建でよせ棟屋根に西洋風下見張り二階正面に櫛形ペジメントの付いた上げ下げガラス窓屋根の大棟をまたいて洋風の六角形の煙出しその背後に和風の切妻屋根の煙出しを設けた洋風と和風が入りまじった折衷の独特のスタイルの外形をもっている。またニシン場建築にみられる漁夫宿泊部を含んでいない点に特色がある。
建物の完成年代は外形の洋風建築形式からみて常識的に明治一〇年から二〇年の間の建築と思われる。旧態の保存が良好である上建築年代・規模・意匠・構造の諸点からみて現在の漁場建築中でこの建物に匹敵するものがない代表的な遺構である。
平成二年四月
寿都町教育委員会
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寄棟屋根の中央にガラス窓で囲まれた六角柱の施設がありました。
案内板によれば「六角形の煙出し」とありますが、ガラス窓の上・屋根の下には煙を出す開口部が見られず、ガラス窓にも開放構造が無いようにも見られます。
見る限り、ガラスには汚れも無く、煙出しの施設と思われませんが・・・。

建物を横から見た風景です。
屋根の上にある六角形のガラス窓の施設のすぐ右手に小さな屋根がのぞいているのが見えます。
案内板に「和風の切妻屋根の煙出し」と書かれた施設と思われます。
ガラスが高価だった明治20年代頃、「洋風の六角形の煙出し」とされる施設は、ガラスが煙で汚れることを考えると、明かり取りの施設だったと思われてなりません。

建物の正面を横から見た風景です。
玄関の向こうに柱で支えられた和風の竪繁格子のある出窓のような施設が続き、珍しく撮ったものです。
又、二階の屋根の下側も丸みのある壁で、洋風の窓と合わせてお洒落な雰囲気を感じさせてくれます。
一階が和風、二階や屋根の上の六角形の施設が洋風と、一般の住宅としては珍しい贅沢な建物です。

玄関の風景です。
かつては出入りする多くの人々で賑わう風景が見られたものと思われます。
老朽化した建物や、雑草が生えた玄関先を見ると過ぎ去った長い年月を感じさせられます。