昔に出会う旅

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ドイツ・スイス旅行 9 ハイデルベルク城(3)

2013年09月06日 | 海外旅行
南ドイツ・スイス旅行2日目夕方、ハイデルベルク城の中庭の次は、ワインの大樽と、テラスの見物です。



「フリードリヒ館」の正面から地下へ続く通路を進み「大樽棟」へ向かいました。

城の北側の城壁や、建物は、山の斜面の地形を利用して造られており、城の中庭から緩やかなスロープを下ると地下室へつながる構造です。

戦時に大勢の兵士が素早く移動する場合を考慮して、階段ではなくスロープとしたものと推察され、スロープに降った雨水も山の傾斜を利用して排水されているようです。



ハイデルベルク城の見取り図と、ハイデルベルクの市街図(下段)です。

「大樽棟」と、「テラス」への通路を赤い破線の矢印で表示しています。

市街図(下段)ではネッカー川の南岸(左岸)にハイデルベルクの街が広がり、ハイデルベルク城は街の東端にあります。



「大樽棟」の地下で最初に見た大きなワインの樽です。

左の小さな樽が一般的な大きさのようで、比べるとかなり大きなものです。

しかし、これは目当ての大樽ではありません。



次の部屋へ進むと、更に大きな樽がありました。

しかし、これも目当ての大樽ではありませんでしたが、造られた時には最も大きな樽だったようです。

1592年、「ヨハン・カジミール」(フリードリヒ4世の摂政)によって初めて大樽が造られ、その後、代々のプファルツ選帝侯が次第に大きな樽を造ったとされ、その歴史を物語っているのがこれらの樽でした。



一番奥の部屋に最も大きな「大樽」があり、その部分写真を組み合わせたものです。(全景写真が撮れてなかったので・・)

樽の右側に作られた木製の階段から樽の上のステージに上り、樽の左側の螺旋階段から降りる一方通行の見学コースがあります。

右上の写真は、大樽の横の階段を登っている風景で、左上の写真は、反対側の階段から見下ろした風景です。

下の写真は、大樽の上のステージから見下ろした風景で、左端に登りの階段、右端に下りの螺旋階段が見えます。

この大樽は、1751年にプファルツ選帝侯カール・テオドール(1724~1799年)が造らせたとされ、約22.17万リットルもの容量で、750ml瓶に換算すると約30万本に相当します。

実に巨大な樽で、毎年これだけのワインを醸造して、納める領民の苦労も大変だったものと思われます。



大樽を一巡する階段を降りると、右手の壁にワイン樽の見張り番「ベルケオ」の人形と、その横にビックリ箱がありました。

ツアーのメンバーKさんがびっくり箱を指さし、箱を開けようとしている場面です。

好奇心が旺盛なKさんに周りの皆さんもかたずをのんで見つめていました。

■「ドイツ世界遺産と歴史の旅 プロの添乗員と行く」(武村陽子著、彩図社出版)より
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一回りしたところにある人形は、「ベルケオ」と呼ばれるワイン樽の見張りをしていた人の等身大である。
このベルケオさん、チロルの人で、とてもワインが好きだった。「酒を飲むか」と尋ねられるといつも、イタリア語で「ペルケノ」と答えた。英語の「Whynも」とおなじで「なぜ飲まない?=飲まないはずがない=飲みます」 つまり「はい」と答えるのと同じ意味である。そのベルケノがなまってベルケオと呼ばれるようになったらしい。
ところが、ワインの代わりに飲んだ一杯の水で命を落としてしまった。
そばにはベルケオが作ったびっくり箱のような仕掛け時計がある。これで女性を驚かせることが好きだった。
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Kさんがびっくり箱の下のレバーを引っ張ると、鐘の音と同時に動物のシッポのようなものが飛び出してきました。

予め認識していたので、余り驚きはありませんでしたが、不意打ちだと、ビックリするものと思われます。

横に立つ「ベルケオ」の人形は、左手にワイングラスを持ち、大きな鍵を左の腰にぶら下げており、どう見ても勤務中にワインを飲んでいる姿です。

ワインが好きだった「ベルケオ」に大切なワイン樽の見張り番をさせ、好きなだけワインを飲まれたとしても、この巨大な大樽では影響がなかったのかも知れません。

ポケットにおつまみを忍ばせてワイン樽の見張り番、想像するだけでも憧れる仕事ですが、「ベルケオ」の本職は、宮廷道化師だったようです。


次は、ハイデルベルクの街を一望する「テラス」へ向かいました。


「フリードリヒ館」の建物を抜けて裏手に出て左側を見た風景です。

左の建物が「フリードリヒ館」、正面の建物が「大樽棟」、右手に「テラス」が伸びています。

「大樽棟」に向かって下りのスロープになっていますが、「テラス」の下をくぐり、城外の砦などが見学できるようです。



上段の写真は、ネッカー川に架かる「カール・テオドール橋」から見上げた「ハイデルベルク城」の東側(左側)部分を拡大したもので、見学した「テラス」の部分を黄色い波線で囲んでいます。

「テラス」後方の建物が「フリードリヒ館」、その左隣が「ザール・バウ(集会室)」、一番左の高い建物が「鐘楼」、「フリードリヒ館」の右隣が「大樽棟」です。

下段の写真は、上段と同じ「ハイデルベルク城」の全景です。



「テラス」に出て西側を見た風景です。

正面が「大樽棟」、右手にハイデルベルクの街の風景が広がっていました。

工事中で、部分的に柵で仕切られていますが、意外に広い施設でした。

写真の左にはカメラで床を撮っている二人の姿が写っていますが、観光案内にあった足跡のような窪みだったのかも知れません。

足跡のような窪みは、選帝侯の妃と浮気していた騎士が窓から飛び降りて逃げる時に出来た足跡と言われているようで、帰国後に写真を見ていて気付いたものです。

■「ドイツ世界遺産と歴史の旅 プロの添乗員と行く」(武村陽子著、彩図社出版)より
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テラス 売店の隣にある通路を抜けるとフリードリヒ館の裏側のテラスに出られる。
このテラスからの眺めは最高で、今回もツアー参加の全員が歓声を上げた。目の前に、これから訪力るハィナ几ベノーウ旧小机とネッカー川、そして川の対岸のハイリグンベルクの緑の山とその中腹にある哲学の道を一望できる。
テラスの中央付近の石畳に、ちょうど足跡のような大きなくぼみがある。
言い伝えによると、選帝侯の妃が若い騎士をベッドに引き入れて浮気をしていると、狩りに行ったはずの選帝侯が突如帰ってきて、あわてた浮気相手の騎士は、靴だけはいて妃の部屋の窓から飛び降りた。そのときの足跡がこのくぼみだと言われている。
ガイドが「このくぼみに足がぴったり合う男性は浮気性だと言われています」と説明すると、夫婦で参加している男性陣はみんな奥さんにせかされて足をおいていた。
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「ハイデルベルク城」のテラスから北西方向に素晴らしい街の風景が広がっていました。

上に掲載したハイデルベルクの市街図と対比して見るとよく分りますが、ネッカー川に架かる橋が「アルテブリユッケ(古い橋)」(別名カール・テオドール橋)、左端の鐘楼のある大きな建物が「聖霊教会」、その右隣に長い屋根が白く光る建物が市庁舎のようです。

橋の別名「カール・テオドール橋」は、建設を命じた選帝侯「カール・テオドール」にちなむもので、彼は城の「大樽」と、「カール・テオドール橋」と、ハイデルベルクの名物二つを残した人だったようです。

又、「聖霊教会」は、この地で約500年間プファルツ選帝侯を世襲した「ヴィッテルスバッハ家」の菩提寺だったようで、ルプレヒト3世(1352~1410年)により建てられとされています。

ルプレヒト3世は、神聖ローマ皇帝に上り詰め、前回掲載したハイデルベルク城の「ルプレヒト館」(門塔を入り左手の建物)を建てた人でした。



「ハイデルベルク城」のテラスから西に広がる街の風景です。

市街図で見ると、右端(1)の建物は、前述の「聖霊教会」で、左(2)の高い塔のある建物は、「イエズイーテン教会」、その右(3)の建物は、ハイデルベルク大学の旧館(1712年築)のようです。

ハイデルベルク大学(正式名:ルブレヒト・カール大学)は、1368年にルブレヒト1世(1309~1390年)により創立されたドイツ最古の大学で、この建物の中には1778年から1914年まで使用された「学生牢」があることでも知られているようです。

1368年の創立から約650年経た現在でもドイツ有数の大学として続いており、人口約14.5万人のハイデルベルクの約2割が学生といわれる大学の町でもありました。

明治維新後に日本もお手本としたヨーロッパの長い大学教育の歴史には改めて感心します。


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