光山鉄道管理局・アーカイブス

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6月の臨時買い出し(汗)紀行・5・Nゲージ夜明け前のTMS・1

2011-06-17 07:07:43 | 書籍


 この間の上京ではですが古本で昭和30年代から40年代前半のTMSをまとめて入手する事が出来ました。専門店では考えられない安さだったのが何よりの魅力。こんな買い物は田舎ではまずできません。
 余りに多いボリュームだったので託送して貰ったのですがそれでも自宅に届いた箱の大きさと重さは(汗)

 この時期は鉄道模型の歴史でいえば「Nゲージの夜明け前」の前後の時期に相当します。
 昭和37~38年頃ではNゲージという呼称すら定まらず、レールの幅も9ミリばかりでなく8ミリ規格も出る可能性があった様です。
 この時期は関水金属がNで行くか8ミリで行くか逡巡していた時期だった様です。その一方でSONYのマイクロトレインもメーカー名を伏せて「ED75とスハ43系の試作品を見せて評価を聞いて回っている所もある」という形で紹介されていました。
 そもそもこの時期ポストHOと目されていたのは12ミリ幅のTTゲージだった様で9ミリゲージ(この呼称は昭和50年代前半までTMSで使われていました)の普及でTTが衰退するのではないかという危惧も投書されていました。

 その一方で「ミキスト」や「私の鉄道から」で様々な形で「まだ出てもいない」Nについての記事が毎号の様に紹介されており、当時はNに対する期待はかなり高かった事も伺われます。
が その過程で当時のTMSが日本型Nの規格策定でかなり大きな役割を果たしていた事は伝わってきました。
(実際当時メーカーにとってもこの種の相談のできる所が他になかった様ですし)

 昭和40年になって関水金属(今のKATO)がC50とオハ31をリリースして本格的に日本型のNゲージがスタートするのですが最初の3・4年ほどのTMSではこのC50をベースに8620やC10,C11に改造する記事がみられました。
(初代のC50はテンダーモーターだった為ボイラの太さを加工しやすかった。現行品よりも86化がしやすかった素材だったようです)
 今では当のKATOですら完全な形の保存車両がないとされるC50ですが登場当時は唯一の日本型蒸気として改造のタネとなる率も高かった訳です。

 肝心のレイアウトですがかなり早い段階から「自作のレイアウトが建設中」との投書や記事が掲載されていましたが、掲載の写真を見る限りでは果たしてこれは完成まで持って行けたのだろうかという疑問を感じるものも多かったです。

 この他車両の自作では103系をベースにキハ20系を作ったり、ペーパー車体に窓を書き込んだ物を使って車種のバリエーションを増やしたりといった記事が昭和40年暮れころを境に急に増えだしました。
 今では考えられない技法もありますがですが今とは比較にならない位「なければ作る」という精神が発揮されていた訳です。と同時に当時の16番が既に忘れかけていた何でもありの自由な車両工作コンセプトがこの頃のNでは花盛りだったとも言え、Nの登場が鉄道模型全体にもある種の開放感を与えていた事は想像に難くありません。

 それにしてもこれらに目を通すと、あの頃の鉄道模型が今よりもずっとアダルトで各個人の見識も高く、且つ自由闊達に趣味の楽しみ方が模索されていた事が良く伝わってきます。
 
 私が今回入手したTMSではC50、オハ31系、103系、20系、EF70が出る辺りまでの時期が俯瞰できました。
 今回のTMSについては他にも色々教えられる事や発見が多かったのですがそれについてはいずれ。

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