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足利義昭の最後
織田信長に京を追放された足利義昭は毛利輝元のもとに身を寄せる。
これは本能寺の変の11日後に毛利水軍の将、乃美宗勝に送った御内書である。
本法寺文書『乃美宗勝宛足利義昭御内書』
信長討果上者、入洛之儀、急度御馳走由、対輝元、隆景申遣条
此節弥可抽忠切事肝要、於本意可恩賞、仍肩衣、袴遣之猶
昭光、家孝可申候也
(天正十年)六月十三日 義昭(花押)
乃美兵部丞とのへ
さて、「信長討果上者」を「信長を討ち果たした上は」と読むのか、それとも「「信長討ち果つる上は」と読むのかで随分と内容が変わってくる。ともあれ、義昭が権力の座を求めていたことは確かである。
以下、書き下し文
入洛の儀、きっと御馳走の由、輝元、隆景に対し申し遣わすの条
この節いよいよ忠節をぬくんずべきこと肝要、本意においては恩賞すべし、よって肩衣、袴これを遣わし
なお昭光、家孝申すべく候なり
[史料] ルイス・フロイス『日本史』
内裏の次位にある日本の君主たる公方様(義昭)は、彼を追放した信長の死したるを見て、おのれの追放を想起し、おのれをして、天下の君とならしめんことを羽柴(秀吉)に請いたり。然れども彼がこれにたいし如何なる返答を与うべきかは、判断することは容易なるべし。羽柴はなんらの返答をなさず。
豊臣政権下では、秀吉から一万石を与えられて山城国槙島の大名となり、晩年は秀吉の御伽衆となる。
慶長二年(1597)、体にできた腫れ物の悪化により大坂で死去。享年61歳。
織田信長に京を追放された足利義昭は毛利輝元のもとに身を寄せる。
これは本能寺の変の11日後に毛利水軍の将、乃美宗勝に送った御内書である。
本法寺文書『乃美宗勝宛足利義昭御内書』
信長討果上者、入洛之儀、急度御馳走由、対輝元、隆景申遣条
此節弥可抽忠切事肝要、於本意可恩賞、仍肩衣、袴遣之猶
昭光、家孝可申候也
(天正十年)六月十三日 義昭(花押)
乃美兵部丞とのへ
さて、「信長討果上者」を「信長を討ち果たした上は」と読むのか、それとも「「信長討ち果つる上は」と読むのかで随分と内容が変わってくる。ともあれ、義昭が権力の座を求めていたことは確かである。
以下、書き下し文
入洛の儀、きっと御馳走の由、輝元、隆景に対し申し遣わすの条
この節いよいよ忠節をぬくんずべきこと肝要、本意においては恩賞すべし、よって肩衣、袴これを遣わし
なお昭光、家孝申すべく候なり
[史料] ルイス・フロイス『日本史』
内裏の次位にある日本の君主たる公方様(義昭)は、彼を追放した信長の死したるを見て、おのれの追放を想起し、おのれをして、天下の君とならしめんことを羽柴(秀吉)に請いたり。然れども彼がこれにたいし如何なる返答を与うべきかは、判断することは容易なるべし。羽柴はなんらの返答をなさず。
豊臣政権下では、秀吉から一万石を与えられて山城国槙島の大名となり、晩年は秀吉の御伽衆となる。
慶長二年(1597)、体にできた腫れ物の悪化により大坂で死去。享年61歳。