武産通信

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明智光秀の最後

2020年02月01日 | Weblog
 明智光秀の最後 「本能寺の変」

[史料] ルイス・フロイス『日本史』

 第五六章  明智が謀叛により、信長、ならびに後継者の息子を殺害し、天下に叛起した次第

 明智(光秀)は夜明けになって坂本城に向かって歩き、そこで再起するつもりであり、ほとんど一人で進んだが、話によれば幾分傷ついていた。哀れな明智は、隠れ歩きながら、農民たちに金の棒を与えるから坂本城に連行するように頼んだが、彼らはそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲望にかられ、彼を刺殺し首をはねたが、それを三七殿(織田信孝)に差し出す勇気がなかったので、別の男がそれを彼に差し出した。そして、次の木曜日に、信長の名誉のために、明智の身体と首を、彼が信長を殺し、他の首が置かれている場所に運んだ。デウスは、明智が日本中を撹乱するほどの勇気を持ちながら、残酷な反逆を遂げた後には、11日か12日以上生きながらえることを許し給わず、彼はこのようにして実に惨めな最後を遂げた。ーー貧しく賤しい農夫の手にかかり、不名誉な死に方をしたーー三七殿は、身体に首をあわせた後、裸にして、万人に見せるため、まちはずれの往来が激しい一街道で十字架に懸けるように命じた。

 山崎の戦の翌日になると、略奪と斬首の勢いがすさまじく、信長が殺された場所へは、初回分としてだけで一千以上の首級がもたらされた。すなわち、全ての首級を同所に持参するようにという命令が出されていたからで、それらをそえて信長の葬儀を営むとの指令でなされたのである。日盛りになると、堪え難い悪臭が立ちこめ、そこから風が吹き寄せる際には、我ら修道院では窓を開けたままではいられぬほどであった。

 安土を去った明智の武将は坂本城に立て籠もったが、そこには明智の婦女子や家族、親族がいた。次の火曜日には羽柴の軍勢が到着したが、すでに多数のものが城から逃亡していた。そこでかの武将らーーは、軍勢が接近し、ジュスト右近殿が最初に入城した者の先発者であるのを見ると、高山、ここへ参れ、貴公を金持にしてしんぜようと呼びかけ、多量の黄金を窓から海に投げ始めた。そしてそれを終えると、貴公らの手に落ちると考えることなかれと言いつつ、最高の塔に立て籠もり、内部に入ったまま、彼らのすべての婦女子を殺害した後、塔に放火し、自分らは切腹した。そのとき、明智の二人の子が死んだーー。かの8日ないし10日の間に、津の国から美濃国にかけて執行された貴人並びに他の人々の死については述べ得ないほど多数である。ーー我らの一司祭は、淀川に沿ってくるときに、五百の死体が川下に流されていくのを目撃した程である。ーー明智に加担した者は一人残らず生命を奪われた。ーー僅かの日々に、すでに一万人以上の者が殺されたらしい。
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