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武道専門学校「武専」の歴史

2022年10月09日 | Weblog
                                在りし日の武道専門学校

 武道専門学校「武専」の歴史

 大日本武徳会の教育機関として、武術教員養成所(明治38年)、武徳学校(明治43年)、武術専門学校(明治45年)、武道専門学校(大正8年)と校名を変えながら、武道教員養成機関として、その中核に位置し、武道教育の源流を形成した。
 大正14年に完成した校舎は、鉄筋コンクリート2階建、階下96坪、階上80坪、屋上露台90坪である。
 武道専門学校の目的は武道教員を養成することであり、武科と文科が設けられる。卒業生は国語・漢文教員の資格を取得し、「武道学士」の称号が与えられた。
 授業は、午前8時授業開始。正午までの4時間を学科、午後1時半から3時まで3時まで稽古。のち3時から始まる講習科の稽古は自由参加となっていた。熱意のある学生は講習科の稽古に参加したあと、市内の道場に稽古に出かけたりしていた。
 また放課後は、角帽に紋付き袴、朴歯の下駄で京の街を闊歩し、人々からは「武専の学生さん」と親しみをこめて呼ばれていたという。

 昭和20年の敗戦を迎え、その後の日本教育制度改革に関する極東委員会指令に基き、学校武道の禁止、社会体育における剣道の制限が行われる。昭和21年、連合軍は文部省から解散命令を発令させ、大日本武徳会は解体、武道専門学校も消滅した。
 その後の武道専門学校の校舎は、京都市警察学校。昭和31年からは京都市音楽学校の校舎(昭和44年まで)となり、昭和59年に武道センター本館建設のため撤去された。
 現在、武道センター本館の前には、昭和62年に卒業生有志により建立された「武道専門学校碑」が建っている。
 また今は開かずの門となっている、かつて大日本武徳会武道専門学校の正門とされていた会津藩京屋敷から移築された門の傍に、ひっそりと佇む、武専最後の校長を務めた鈴鹿登先生の句碑がある。

                             風薫る左文右武の学舎跡   野風呂
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