動きを感じる
本日は、藤平光一先生のご子息で心身統一合氣道会を主宰されている藤平信一師範と公立はこだて未来大学の伊藤精英教授の対談です。伊藤教授は10代で全盲となられたそうです。それでは、最後までじっくりとお読みください。
気配の感覚
藤平信一会長(以下、藤平):伊藤先生は大学では心理学、特に「振動を通じた知覚」を中心に研究をなさっていると聞きました。
伊藤精英先生(以下、伊藤):「人が自分の感覚、特に振動や音などの感覚を通じてどの様に周囲や自己を認識しているか」を研究しています。目が見えないということもあって、聴覚や触覚など視覚にフォーカスを置かない、自己や周囲の認識に関するメカニズムの解明を30年くらいかけてやってきました。最近、五感を超えた六感、気配の感覚の解明にも取りかかっています。読者の中には人混みの中で視線を感じたことがある方もいるのではないでしょうか?見回してみたら誰かからじっと見られていたなどの経験です。これも気配の感覚の一つです。
藤平:心身統一合氣道に関心をお持ちになったことにも関係していそうですね。
伊藤:そのとおりです。NHK総合の「あさイチ」という番組で藤平信一会長がされていた「相手が動く前に気配で分かる」というデモンストレーションで、まさにいま関心のある気配の感覚にドンピシャだと感激しました。自分の感覚にも通じているので、これはぜひ稽古して、体感しながら科学的に解明する道を開きたいと熱望したわけです。
藤平:先日は、相手が打ってくる気配を感じて動く稽古をしましたが、伊藤先生がすぐに出来て驚きました。
伊藤:「出来ているかどうか」が自分では分からないというのが非常に面白くもあり、不思議ですが(笑)。タイミングが合っているという自覚は全くないのです。ただ、気づくとすでに身体が動いていたという自覚はあります。
藤平:なるほど。
全身全霊
伊藤:人は「心」が頭の中だけにあると思いがちだけれども、実はそうではなくて、脳は腕や足、内臓などと同じ様に、人の身体や生命を働かせるための一部に過ぎません。脳だけに心があるのではなく、心は全身にあって繋がっている。もしかすると、脳が情報を処理する前に身体が認識をして、自然に動いているのかもしれませんね。
藤平:トップアスリートに氣の指導をしていると、頭で考えるより前に身体が動いているのが良く分かります。頭であれこれと命令はしていません。
伊藤:僕は盲学校時代にグランドソフトボール(盲人野球)をしていました。中学生までは右目だけ多少見えていて野球をやっていたのです。プレッシャーに弱い子どもで、例えば二死満塁で、「お前が打たないとここで負ける」というプレッシャーがかかると、一生懸命、ボールを見ようとしてしまうのです。すると、手が動かない。それで空振りして負けてしまったという夢を今でも見ます(笑)。頭であれこれ考えた末に、力んでしまって身体が動かない。普段、打てているスピードのボールが打てなくて、とても悔しい思いをしました。
藤平:先ほどの稽古でも、「雑念が入ると分からなくなる」と言われていましたね。
伊藤:会長を相手にした瞬間に「え!」となってプレッシャーがかかり、上ずる感じがしました。「失敗したらどうしよう」とか、「他の人と比較されるのではないか」などの雑念(心理学ではマインドワンダリングと呼びます)があると、「心ここにあらず」となってしまい、心は波立った水面のようになってしまう。つまり、心が静まっていないわけです。すると、相手や周囲に関する注意が散漫になる。一方、意識が臍下の一点に定まると心は明鏡止水の状態になっている。すると、水面に伝わる微妙な変化を受け取ることができるのだと思います。
藤平:波静まった水面であれば、風が吹いたこともキャッチできます。
伊藤:はい。風が吹いたのか、木の葉が落ちたのか、石が落ちたのかも区別できる。本当に水面が静まっていないとその違いは分かりません。そして、全身が心なのですから、全身で感じ取っています。
藤平:「全身全霊」など、昔から日本語には全身に関わる言葉はたくさんあります。
伊藤:正に、そういうことだと思います。もう一つ大事なことはポジティブに考えること。余計なこと、例えば「出来なかったらどうしよう」とか「上手くいかなかったら評価が下がる」といった、ネガティブなことを考えると、全身全霊にはならないのだと思います。
藤平:なるほど、頭で捉えているからですね。
伊藤:頭で「起きていないこと」を妄想してしまうと、心ここにあらず、になります。全身全霊のときは、常に心はここにある。
藤平:「全身が心である」は腑に落ちる表現です。健常者は視覚情報に頼っているので見た目に惑わされやすいですが、実は、視覚以外でも色々な情報をキャッチしていますね。例えば、生演奏が録音とは違って聞こえるのは、音は耳だけではなく、肌でも聞いているからと言われていますね。
伊藤:そのとおりです。全身が震えるような低い振動からとても高い音までを耳だけではなく全身で聞いている。いや、全身で感じていると言ったほうが適切なのかもしれません。だから、生演奏に感動したり、自然の音に心地よさを感じたりするのでしょう。資生堂の著名な皮膚研究者である傳田光洋さん達が10年ぐらい前に、身体の表皮にあるケラチノサイトという細胞が10,000ヘルツを超える高い音に応答することなどを発見しています。発生の過程で、人間の皮膚は神経と同じところから分化していますから、当たり前といえば当たり前なのですが、皮膚で人の存在を感じていても決して不思議ではありません。
藤平:昔から「肌で感じる」とか「肌でつかむ」とか、肌に関する言葉も多くあります。
伊藤:はい。肌に関する言葉が多いということは、日本人は肌感覚を無意識に持っているのかもしれません。全身を覆う皮膚は頭で感じる前に光や音や気配さえも感じるための働きをしているのかもしれませんね。ところで、気配といえば、目が見えない人の中には、直接触らなくても壁や人の方向がわかる人がいます。このような能力の説明として一般的には目が見えない人は音に対する感受性が高く、人の声などの音とその音が窓や壁に反射してくる音とを聞き分けていて、それによって「壁があるかないか」ということが分かると言われています。
藤平:音によって空間認識をしているわけですね。
伊藤:特に、先天的に目の見えない人とか、10代くらいまでに目の見えなくなった人は、音を利用するスキルを獲得していると言われています。つまり耳の使い方がうまいというわけです。でも、僕は耳の使い方がうまいだけでなく、肌感覚も鋭敏なのではないかと思ったのです。それで10年以上前にこんな研究をしてみました。全盲の方に協力してもらい、「耳も皮膚も含めて全身を布などで覆ったままで、壁に向かって歩いてもらう」という、ちょっと無謀な実験をしたのです。全身を覆った状態だと壁に接触してしまいます。ところが、指先だけ覆わずに出して、あとはすべて覆った状態で壁に接近してもらうと、壁の直前20センチくらいで止まれるのです。もちろん、耳を覆っているので音は聞こえません。なぜこれができるのかの手がかりを得るために、指先に加速度センサーを付けて、生理的振戦と呼ばれる指の微細な震えを調べてみました。すると、壁に近づくと壁があるほうの指先の震えが大きくなりました。理由はまだよくわかりませんが、目が見えないと肌感覚が鋭敏になって、その皮膚感覚が空間の認識にも関連しているのかもしれません。もちろん、全ての目の見えない人がそうなるというわけではありません。
藤平:健常者でも同じことが生じるのでしょうか。
伊藤:突然目隠しして健常者が同じことを行ったらおそらく感覚は鈍いと思います。ただ、気配をいち早く感じて動く稽古している方はもしかすると、皮膚感覚が鋭敏になっているので、同じ現象が起きるかもしれません。
藤平:脳が新たな機能を習得しているということですね。
伊藤:そう思います。脳というより全身が新たな機能を獲得している。脳で言えば、目の見えない人は視覚野を全く使わないので無駄にしているかというと、そんなことはなく、点字を読んだり、肌の感覚を処理したり、音を聴いたりということに使われていることも分かっています。他の感覚を処理する為に、脳はきちんと使われているのです。「目から光が入ってこないから働かなくて楽ちん」なんてサボリ屋さんは脳の中にはいないようです。
氣の動きで捉える
藤平:伊藤先生は、日頃の稽古でどのようなことをお感じになっていますか。
伊藤:毎回、新たな発見があって本当に面白く、好奇心をそそられています。これまで直感的に捉えていた「氣」を、少しずつですが、体感的にも捕らえられるようになってきました。なんといっても学びが多いのは技をかけていただく時です。衝撃的で一番印象に残っているのは初めて会長に技をかけていただいた時です。倒される瞬間、それまで私が掴んでいた会長の手首、会長の体幹が個体として感じられなくなり、まるで、「つかみどころのない」水が私のほうに流れてきて、私の身体を巻き込んで倒されてしまうという感覚になりました。心身一如で心が身体を動かすというのは、心は静かな湖面のように波立たず、身体はよどみない水のように流れるということなのかもしれないと私なりに思っています。心の状態も身体の状態もともに、形を自由に変えることができる水に例えられるというのは、新たな発見でした。この経験で私はすっかり心身統一合氣道の虜になりましたね。この感覚はなぜ起きるのか。どうしたらこのように動けるのか。この水のような流れはまさに気配なのかなどなど。もっと稽古したいと思うようになり、今に至っています。稽古で感じたことはいつもしっかり記憶していようと堅く決めています。
藤平:私が伊藤先生にお伝えしていて感じるのは、理解が質的に異なることです。通常は、形や動きのことから習得するわけですが、伊藤先生は常に氣の動きで捉えていますね。
伊藤:そう言っていただけると光栄です。まぁ、私は会長や指導者の先生の動きが見えないことが幸いしているのかもしれませんね(笑)。僕は目が見えなくても稽古していることを全身でまるごと「感じたい」と強く思っているからだと思います。
藤平:最後に、今後の抱負を教えていただけますか。
伊藤:心身統一合氣道の稽古での様々な体験が教えてくれるのは、人の潜在的能力は無限だということです。稽古を続けることで、氣の動きの感覚と気配の感覚をさらに磨きたいと思います。そして、人の感覚や身体の使い方には無限の可能性があることを、身をもって発信していきたいです。たとえ目が見えなくても、できることは尽きないということを。
藤平:本日は貴重なお話をありがとうございます。
(「心身統一合氣道会 会報」2023年7月発行より転載させていただきました)
本日は、藤平光一先生のご子息で心身統一合氣道会を主宰されている藤平信一師範と公立はこだて未来大学の伊藤精英教授の対談です。伊藤教授は10代で全盲となられたそうです。それでは、最後までじっくりとお読みください。
気配の感覚
藤平信一会長(以下、藤平):伊藤先生は大学では心理学、特に「振動を通じた知覚」を中心に研究をなさっていると聞きました。
伊藤精英先生(以下、伊藤):「人が自分の感覚、特に振動や音などの感覚を通じてどの様に周囲や自己を認識しているか」を研究しています。目が見えないということもあって、聴覚や触覚など視覚にフォーカスを置かない、自己や周囲の認識に関するメカニズムの解明を30年くらいかけてやってきました。最近、五感を超えた六感、気配の感覚の解明にも取りかかっています。読者の中には人混みの中で視線を感じたことがある方もいるのではないでしょうか?見回してみたら誰かからじっと見られていたなどの経験です。これも気配の感覚の一つです。
藤平:心身統一合氣道に関心をお持ちになったことにも関係していそうですね。
伊藤:そのとおりです。NHK総合の「あさイチ」という番組で藤平信一会長がされていた「相手が動く前に気配で分かる」というデモンストレーションで、まさにいま関心のある気配の感覚にドンピシャだと感激しました。自分の感覚にも通じているので、これはぜひ稽古して、体感しながら科学的に解明する道を開きたいと熱望したわけです。
藤平:先日は、相手が打ってくる気配を感じて動く稽古をしましたが、伊藤先生がすぐに出来て驚きました。
伊藤:「出来ているかどうか」が自分では分からないというのが非常に面白くもあり、不思議ですが(笑)。タイミングが合っているという自覚は全くないのです。ただ、気づくとすでに身体が動いていたという自覚はあります。
藤平:なるほど。
全身全霊
伊藤:人は「心」が頭の中だけにあると思いがちだけれども、実はそうではなくて、脳は腕や足、内臓などと同じ様に、人の身体や生命を働かせるための一部に過ぎません。脳だけに心があるのではなく、心は全身にあって繋がっている。もしかすると、脳が情報を処理する前に身体が認識をして、自然に動いているのかもしれませんね。
藤平:トップアスリートに氣の指導をしていると、頭で考えるより前に身体が動いているのが良く分かります。頭であれこれと命令はしていません。
伊藤:僕は盲学校時代にグランドソフトボール(盲人野球)をしていました。中学生までは右目だけ多少見えていて野球をやっていたのです。プレッシャーに弱い子どもで、例えば二死満塁で、「お前が打たないとここで負ける」というプレッシャーがかかると、一生懸命、ボールを見ようとしてしまうのです。すると、手が動かない。それで空振りして負けてしまったという夢を今でも見ます(笑)。頭であれこれ考えた末に、力んでしまって身体が動かない。普段、打てているスピードのボールが打てなくて、とても悔しい思いをしました。
藤平:先ほどの稽古でも、「雑念が入ると分からなくなる」と言われていましたね。
伊藤:会長を相手にした瞬間に「え!」となってプレッシャーがかかり、上ずる感じがしました。「失敗したらどうしよう」とか、「他の人と比較されるのではないか」などの雑念(心理学ではマインドワンダリングと呼びます)があると、「心ここにあらず」となってしまい、心は波立った水面のようになってしまう。つまり、心が静まっていないわけです。すると、相手や周囲に関する注意が散漫になる。一方、意識が臍下の一点に定まると心は明鏡止水の状態になっている。すると、水面に伝わる微妙な変化を受け取ることができるのだと思います。
藤平:波静まった水面であれば、風が吹いたこともキャッチできます。
伊藤:はい。風が吹いたのか、木の葉が落ちたのか、石が落ちたのかも区別できる。本当に水面が静まっていないとその違いは分かりません。そして、全身が心なのですから、全身で感じ取っています。
藤平:「全身全霊」など、昔から日本語には全身に関わる言葉はたくさんあります。
伊藤:正に、そういうことだと思います。もう一つ大事なことはポジティブに考えること。余計なこと、例えば「出来なかったらどうしよう」とか「上手くいかなかったら評価が下がる」といった、ネガティブなことを考えると、全身全霊にはならないのだと思います。
藤平:なるほど、頭で捉えているからですね。
伊藤:頭で「起きていないこと」を妄想してしまうと、心ここにあらず、になります。全身全霊のときは、常に心はここにある。
藤平:「全身が心である」は腑に落ちる表現です。健常者は視覚情報に頼っているので見た目に惑わされやすいですが、実は、視覚以外でも色々な情報をキャッチしていますね。例えば、生演奏が録音とは違って聞こえるのは、音は耳だけではなく、肌でも聞いているからと言われていますね。
伊藤:そのとおりです。全身が震えるような低い振動からとても高い音までを耳だけではなく全身で聞いている。いや、全身で感じていると言ったほうが適切なのかもしれません。だから、生演奏に感動したり、自然の音に心地よさを感じたりするのでしょう。資生堂の著名な皮膚研究者である傳田光洋さん達が10年ぐらい前に、身体の表皮にあるケラチノサイトという細胞が10,000ヘルツを超える高い音に応答することなどを発見しています。発生の過程で、人間の皮膚は神経と同じところから分化していますから、当たり前といえば当たり前なのですが、皮膚で人の存在を感じていても決して不思議ではありません。
藤平:昔から「肌で感じる」とか「肌でつかむ」とか、肌に関する言葉も多くあります。
伊藤:はい。肌に関する言葉が多いということは、日本人は肌感覚を無意識に持っているのかもしれません。全身を覆う皮膚は頭で感じる前に光や音や気配さえも感じるための働きをしているのかもしれませんね。ところで、気配といえば、目が見えない人の中には、直接触らなくても壁や人の方向がわかる人がいます。このような能力の説明として一般的には目が見えない人は音に対する感受性が高く、人の声などの音とその音が窓や壁に反射してくる音とを聞き分けていて、それによって「壁があるかないか」ということが分かると言われています。
藤平:音によって空間認識をしているわけですね。
伊藤:特に、先天的に目の見えない人とか、10代くらいまでに目の見えなくなった人は、音を利用するスキルを獲得していると言われています。つまり耳の使い方がうまいというわけです。でも、僕は耳の使い方がうまいだけでなく、肌感覚も鋭敏なのではないかと思ったのです。それで10年以上前にこんな研究をしてみました。全盲の方に協力してもらい、「耳も皮膚も含めて全身を布などで覆ったままで、壁に向かって歩いてもらう」という、ちょっと無謀な実験をしたのです。全身を覆った状態だと壁に接触してしまいます。ところが、指先だけ覆わずに出して、あとはすべて覆った状態で壁に接近してもらうと、壁の直前20センチくらいで止まれるのです。もちろん、耳を覆っているので音は聞こえません。なぜこれができるのかの手がかりを得るために、指先に加速度センサーを付けて、生理的振戦と呼ばれる指の微細な震えを調べてみました。すると、壁に近づくと壁があるほうの指先の震えが大きくなりました。理由はまだよくわかりませんが、目が見えないと肌感覚が鋭敏になって、その皮膚感覚が空間の認識にも関連しているのかもしれません。もちろん、全ての目の見えない人がそうなるというわけではありません。
藤平:健常者でも同じことが生じるのでしょうか。
伊藤:突然目隠しして健常者が同じことを行ったらおそらく感覚は鈍いと思います。ただ、気配をいち早く感じて動く稽古している方はもしかすると、皮膚感覚が鋭敏になっているので、同じ現象が起きるかもしれません。
藤平:脳が新たな機能を習得しているということですね。
伊藤:そう思います。脳というより全身が新たな機能を獲得している。脳で言えば、目の見えない人は視覚野を全く使わないので無駄にしているかというと、そんなことはなく、点字を読んだり、肌の感覚を処理したり、音を聴いたりということに使われていることも分かっています。他の感覚を処理する為に、脳はきちんと使われているのです。「目から光が入ってこないから働かなくて楽ちん」なんてサボリ屋さんは脳の中にはいないようです。
氣の動きで捉える
藤平:伊藤先生は、日頃の稽古でどのようなことをお感じになっていますか。
伊藤:毎回、新たな発見があって本当に面白く、好奇心をそそられています。これまで直感的に捉えていた「氣」を、少しずつですが、体感的にも捕らえられるようになってきました。なんといっても学びが多いのは技をかけていただく時です。衝撃的で一番印象に残っているのは初めて会長に技をかけていただいた時です。倒される瞬間、それまで私が掴んでいた会長の手首、会長の体幹が個体として感じられなくなり、まるで、「つかみどころのない」水が私のほうに流れてきて、私の身体を巻き込んで倒されてしまうという感覚になりました。心身一如で心が身体を動かすというのは、心は静かな湖面のように波立たず、身体はよどみない水のように流れるということなのかもしれないと私なりに思っています。心の状態も身体の状態もともに、形を自由に変えることができる水に例えられるというのは、新たな発見でした。この経験で私はすっかり心身統一合氣道の虜になりましたね。この感覚はなぜ起きるのか。どうしたらこのように動けるのか。この水のような流れはまさに気配なのかなどなど。もっと稽古したいと思うようになり、今に至っています。稽古で感じたことはいつもしっかり記憶していようと堅く決めています。
藤平:私が伊藤先生にお伝えしていて感じるのは、理解が質的に異なることです。通常は、形や動きのことから習得するわけですが、伊藤先生は常に氣の動きで捉えていますね。
伊藤:そう言っていただけると光栄です。まぁ、私は会長や指導者の先生の動きが見えないことが幸いしているのかもしれませんね(笑)。僕は目が見えなくても稽古していることを全身でまるごと「感じたい」と強く思っているからだと思います。
藤平:最後に、今後の抱負を教えていただけますか。
伊藤:心身統一合氣道の稽古での様々な体験が教えてくれるのは、人の潜在的能力は無限だということです。稽古を続けることで、氣の動きの感覚と気配の感覚をさらに磨きたいと思います。そして、人の感覚や身体の使い方には無限の可能性があることを、身をもって発信していきたいです。たとえ目が見えなくても、できることは尽きないということを。
藤平:本日は貴重なお話をありがとうございます。
(「心身統一合氣道会 会報」2023年7月発行より転載させていただきました)