瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

tab  24号  (2010/09)

2010-11-17 22:30:26 | ローマ字で始まる詩誌
 「なほうらめしき」倉田良成。
 飲酒についての散文詩なのだが、まるでエッセイのような面持ちである。若いころに巷で、地元で、酒を飲む。深酒をした時の肉体的反応には個人差が大きいが、話者の場合は寝てしまい、翌朝目ざめた時の気分不快が並大抵ではなかったと。それなのに、夜が訪れると共にふたたび酒を口にするのだ。
 私(瀬崎)は酒に弱く、一定量を過ぎると体が受け付けなくなる。そのために古来からの大酒飲みの詩文を読むにつけ、酒を求める心は、こんなにまでなるものなのかと驚嘆してきた。それは強さなのか、弱さなのか、それともそんな次元で語ることではないのか。イスラム教徒は酒を口にしないが、それは神以外のものに心惹かれることを禁じる心から来ているのだそうだ。

   その後も中野にあった学生寮や、妙法寺裏、巣鴨の友人の部
   屋などに流連荒亡をつづけ、死んだ目で迎える地獄の朝と、
   また巡ってくる輝ける夜の闇のはざまで、もう家には帰らず
   に、いまも飲み続けている小さな私の影がある。
                               (最終部分)

 藤原道伸の歌「明ぬればくるヽものとはしりながらなほうらめしきあさぼらけかな」が牽かれている。ま、これは二日酔いの歌ではないのだろうけれども、この歌をそれに見立てたところに洒落心があらわれている。
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詩集「清潔な獣」  長田典子  (2010/10)  砂子屋書房

2010-11-16 18:20:11 | 詩集
 第4詩集。美しい木炭画の装画をつけたソフトカバーで、131頁に1編の序詩のような行わけ詩と9編の散文詩を収める。とても共感できた川口晴美の栞が付く。
 作品9編は独白調の散文詩で、どれもかなりの長さである。話者は高層ホテルでセックスの妄想をだきながらひとりで誕生日を迎える女であったり、ブランド品の服を買うためにいかがわしいアルバイトをする女子学生だったり、ストーカーまがいの男だったりする。彼らの語る世界は独りよがりに歪んでいて、自分のよりどころが極端に変位している。

   そうだわたしは本当に愛してくれる男とホワイトチョコを食べていたんだった 
   1日が30時間あればいいのに白い外灯が区画ごとにつぎつぎ消えていって明日が
   昇るあたしは幼い頃の真っ暗な浴槽からひとりで這い上がったときのことを思い
   出す
   あのとき世界がくるんって捲れ上がった気がしたんだったそうだそんなすごいこ
   とがあたしにもあったんだと思ったら何だかお腹がすいてきた
                            (「また来てね」より)

 どの作品でも、圧倒的な物語世界が展開されている。話者の存在している地点が揺れ、それに伴って見えている風景が揺れる。その揺れを支配しているのは、表面的には肉体的な、あるいは皮相な欲望であるように見えるのだが、それを呼び起こしているのは話者の皮膚感覚であり、理屈を越えた生理的な欲求である。
 このように作者が自己とは離れたところに存在する話者を借りてまで語りたかったことのすさまじさに、思わずたじろいでしまう。それほどの力業に満ちた詩集であった。
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花  49号  (2010/09)  東京

2010-11-12 22:24:06 | 詩集
 「どこか遠く」秋元炯。
 気がふさいで、疲れも溜まっていたために、行く先も定めずにバスで”どこか遠くへ”出かけた顛末が書かれた散文詩。居眠りをしている間にバスは終点に着き、そこから酒を飲みながらバスを乗り継いだので、自分がどこに来たのかも判らなくなっている。そこは背の高い葦に囲まれた河原で、

    見まわすと 自分の周りだけ葦が踏みなら
   されて丸い空き地ができている 葦のほかは
   何も見えない 立ち上がると 足がふらふら
   する 足が勝手に動き出して 周りの葦を踏
   みつぶし始める どうやら眠り込む前も 同
   じ動作を続けていたらしい

 小さな子供があらわれたりするこの場所は、周囲の様子も見えず、おそらくは時間の流れも通常ではなかったのだろう。桃源郷というにはあまりにも殺風景だが、日常から隔絶された場所へたどり着いていたわけだ。話者も、無意識のうちにそんな場所を求めてバスに乗ったのだっただろう。
 そして話者は、「いつの間にか 体の中から毒気が抜けきってしまってい」ることに気づく。葦を踏みつぶして自分だけの場所を作ったことが、よかったのだろう。しかしそれならば、今までの日常が待っている場所へ帰れることができるのだろうか。
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宇宙詩人  13号 (2010/10)  愛知

2010-11-11 18:57:40 | 「あ行」で始まる詩誌
 「Cyan」高谷和幸。
 残照の商店街を歩きながらの光景、その光景から喚起されるぼくの独白が散文詩として提示される。Cyan色の空間には、「『人の固有の名前の間隙がつかめなくなった』と言う、運動員が歩いていたりする」。サラリーマンの存在を皮肉に捉えたり、わが子を異分子のように、しかし愛おしく見つめる眼差しがあったりする。

   大音響の運搬車から威勢がよい歌声が聞かれ、
   そのあとをぼくの子ら(踊っているときのぼ
   くは、すごくゆっくり動く)が踊っていた。
   「ハッ!(何かを切るように)ハッ!」はど
   んな分節であったか?

 全体としては、何を言いたいのか、いったい何のことやらさっぱり判らない。その判らないところが面白い。もちろん、判らなくてつまらない詩はいくらでもある。というか、判らない詩の大半はつまらない。この作品が何故面白いのかというと、独白がぼくと密着していながら客観的な視点を持っているところだろう。

   扨、バスの停車場のベンチでは、青く浮いた血
   管のかたまりの、遠い地球のバイタルな夕暮れ
   に、「共食いをしたぼくの子」を返してくれる
   よう懇願した。
                        (最終部分)

 Cyanは綺麗だけれども少し冷たい色合いで物事を染める。眠りから覚めたばかりのような曖昧な気持ちで、そんな新しい色合いの世界を彷徨っている。無意識の流れで書いているようでいながら、自分の独白にいささかも酔っていないし、美しいものを造りあげようと意識もしているのだろう。
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エウメニデスⅡ  38号  (2010/10)  長野

2010-11-10 23:04:44 | 「あ行」で始まる詩誌
 「空の道」小島きみ子。
 「カワラヒワ」「鳶の冷たい息が両目を刺した」の2編からなる。カワラヒワや鳶が飛んでいく道が”空の道”であるようなのだが、はて、空に道があるのだろうか? 小島が言う”空の道”とはいったい何なのだろうか?
 鳶がわたしを「ママ」と呼ぶ。鳶は鳥のままで、わたしは人のままで会話をしている。鳥が家族の一員であるのは、小島の作品ではおなじみの設定だ。違和感を覚える家族でなければ、家族とは言いたくないのだろうか。その感覚には惹かれるものがあるのだが、私(瀬崎)にはまだ捉えきれていない。

   鳶は鼻をひくひくさせて笑ったあとで、
   (僕はパパとうまくやっているよ)と言って青い「空の道」へ消えて行った。

   鳶の飛ぶ道筋には、他の鳥はいない。
   この地上に私を一人残して、
   鳶はまっすぐに「自分の道」のほうへ飛んで行った。
                                  (最終部分)

 境界も制限もない空ではどこを通るのも自由だろう。そんな空では、道はあとからできるのではないだろうか。歩んだあとに初めてできる道、それが”空の道”なのだろう。ルートが選び取られ”道”と名付けられるものは、その人の道の求め方によって異なってくるのだろう。小島が求めている道も、そんな道なのだろう。
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