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詩集「よしろう、かつき、なみ、うらら」 北原千代 (2022/06) 思潮社

2022-07-02 10:48:40 | 詩集
第5詩集。85頁に27編を収める。

「よしろう、かつき、なみ、うらら」。詩集のタイトルにもなっている印象的な詩句で、作品「オルガンの日」にも歌の句のようにあらわれている。あとがきによれば、これは「架空の子どもたちにあてた名まえ」とのこと。そして「会うことのない百年後やさらのその先の子孫たちに思いを馳せてい」るとのこと。
この作品の話者は「滝のうらがわの家」で客人たちとお茶を楽しんでいる。

   舌のうえの砂糖菓子を溶かしながら
   ゆるされて古い歌をうたった
   遠くで林檎の花が香っているわ
   肩の触れるほど寄りあって
   それぞれたったひとりだった

子どもたちの名は7音+5音でリズムをともなって読むこともでき、それは時空を越えた自分の分身が見守ってくれているような感覚も想起させる。

この作品に続く「記念撮影」「春の奏楽堂」もそうなのだが、これらの宴に集っているのはもう限りある生命からは脱却した人々なのだろう。すべてが更紗におおわれているような儚さをともなった光景である。
その「記念撮影」では、花見客はいっせいに「満開とはなんとおそろしいことでしょう」と満開の枝垂れ櫻を見仰いでいる。満開の一瞬を過ぎれば後は散るだけなのだ。記念撮影は、だからそこに集まった人々の満開の儚い思い出のためのものである。

   賑わいとはなんという静けさでしょう
   銀のカメラが口をひらく
   写すひと写されるひと
   カメラの口を通って往来する

詩集なかほどにドイツ在住に材をとった9編の散文詩が置かれている。その矩形の詩形はアルトバウと呼ばれる古い建築物を思わせる。石畳の町並みにf字孔を持つ楽器の音色が低く流れ、フランチェシカのお母さんや先生が、異国の言葉と共に話者を遠くまで連れて行く。

   先生とわたしは バイオリンに触れることもしないで 
   楼蘭の砂漠をゆくことがあった
           (「遊牧民(ノマッド)」最終部分)

後半には父母を詩った作品が収められている。「夕拝」では、話者は「老いた母を根っこから引き抜いて」「西日の射す部屋に植えてきた」と語る。

   抜かれるとき母はひとつも声をあげず
   把手の泥をじっと見ていた
   母を掘り起こした台所の
   穴ぼこでまっしろいごはんを炊く
   もしゆるされるなら
   あしたもあさっても炊かせてください

老いた肉親を遠いところへ連れて行かなければならないという辛いことがある。その思いを夕刻の礼拝のように反芻しているようだ。せめてはこうして自分が生きていくためのご飯を炊かせてもらうのが、話者の母に対する愛なのだろう。

「オルガンの日」「春の奏楽堂」「しろいアスパラ」については詩誌発表時に簡単な紹介記事を書いている。
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