瀬崎祐の本棚

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詩集「外のなかで」 貞久秀紀 (2021/06) 思潮社

2021-07-01 22:59:56 | 詩集
93頁に32編を収める。
前詩集「具現」は「写生の試み」の作品を集めたものだった。その感想で、作者の写生について私(瀬崎)は「対峙する外部の物の形を借りて、作者が自分の内から取り出そうとしたものに新たな形を与える試みである」として、「それはおそろしく規律的で、自己抑制的でもある行為である。しかし、それ故にこそ自由に自分の内と向き合える、ということにもなるのではないだろうか。」と書いた。今回の詩集でも作者の立ち位置は一貫している。

巻末近くの4連からなる「日付」を読んでみる。1連目では父子がさざなみに揺らぐ舟に「身をさだめる」までが描かれる。2連目ではその舟を操る櫂が描写され、「それが留金にあたり/幼い軋みをくりかえすのが/木立をとおしてきこえてくる」。いわば、父子を操る脇役ともいえる。3連目で風景が動く。櫂は池のおもてに渦まきをつくり、いずこかへ向かうのだ。そして4連目、「日がおりてくると」「水の上に/あかるい柱のようなものがおとずれている」。それは雲間からの光のすじを思わせ、まるで父子が高みから祝福されているかのようだ。一日はこうして完成される。最終部分は、

   しかしべつのところでは
   枝につどういくつもの葉が木立に照りはじめ
   こうして手にふれるほど近く
   日がおりている

その光景のどの部分を選び取り、どれだけを描写するか。説明や感情表現を排して、ただただ描かれたものですべてをあらわしている。そうして単に見えているだけであった風景は作者の心象風景と重なってくるのだ。この静謐な美しさは、アンドレイ・タルコフスキー映画、たとえば「ノスタルジア」や「サクリファイス」を想起させる。

こうした描写を支えている作者独特の表現にも惹かれる。たとえば「木の台」では、巣を胸にいだいて夜道をあるく母が描かれる。そして母はこのことをひとりの婦人の身におきたこととして語るのである。話者に見られていたはずの母は遠のき、代わりに立ち上がるのは話者が確かめることのできない次元のものとなる。その婦人は巣を胸に夜の家路をあるくのだが、

   このとき誰かがきていてそとから家のとびらをひらき
   ゆくすえにあたる一間の奥に据えた木の台へ
   それを手からうごかしたという

無論、きていたのが誰であるかを確かめる術は(母が語らない限りは)ない。「手からうごかす」といった奇妙な叙述もあいまって、こうして描こうとした物語はいつしか曖昧な輪郭のものとなっていく。精緻に描写されているようにみえて、実はそれは謎をまとった光景なのである。

好きな作品「平坦な道」の一部を紹介する。「小さなものに近づく姉妹のところへ/わたしが来ている」というのだが、この表現はまるで話者が「わたし」からは離脱しているかのようである。そのために作品は、話者のモノローグであるにもかかわらず、話者をも含めた光景を遥か高みから見ているような不思議な視点を感じさせるのだ。

   それとともに両わきにかたく合わされ対をなす羽根や
   ほどけた尾のなかに
   かぜにそよぐ黄のやわらかな
   毛をもつ鳥が土をかぶせられるまでの平坦な道を
   わたしのほうへ歩きはじめた

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