場 所:静岡県静岡市
歩行月日:2012/01/11
歩行データ: コースタイム
安倍川駅-1:00-徳願寺-0:30-仏平-0:10-梵天山-0:20-歓昌院坂峠-0:35-駿河峰-0:40-
大鈩山-0:40-飯間山-1:10-三角点-0:15-宇津ノ谷峠-0:25-蔦の細道峠-1:40-安倍川駅
歩行時間:7時間25分 休憩時間:1時間15分 延時間:8時間40分
出発時間:7時40分 到着時間:16時20分
歩数:31,665歩 歩幅推測:0,77m 距離推測:24.4km (GPS距離 21.6km)
安倍川駅~徳願寺
一昨年の夏、満観峰の山頂で知らない人に「向廻山コース 向敷地~明治トンネル上 約6時間」と書かれた地図を貰った。
その人は「この尾根はアップダウンが激しいのに景色が見えない。そのため余り人が歩かない静かな山だ」と言っていた。
アップダウンが厳しいのも静かな山もどちらかと言えば好きな方だ。だが景色が見えないのはどうもなー。
更に「夏は草が生い茂り道がはっきりしない所もある」のは嫌だなー。とそのままになっていた。
今週の天気予報は曇り空が多く景色は望めそうもない。それじゃ何処にしようかと考え、この景色が良くない向廻山の話を思い出した。
地図を引っ張り出して確認すると、コース上には徳願寺山、梵天山、歓昌院山、大鈩山、飯間山の山名が見える。標高は一番高いのが飯間山で481mで他の山はすべて400m以下だった。これならアップダウンがあっても知れているだろう。すでにアップダウンが激しいと有名な沼津アルプスを完歩済みだし、と1月11日安倍川駅を出発した。
これから歩く徳願寺から宇津ノ谷峠の稜線は、大崩山塊の北の外れの東西に延びている尾根で、その尾根南側の底部には尾根と平行に江戸時代の東海道や国道1号線が走っている。そして国道の南側は大崩山塊の人気ルートの安倍川-朝鮮岩-丸子富士-満観峰 の稜線がある。ようは国道や旧東海道は、この二つの尾根に挟まれた沢底を走っていることになる。
安倍川駅を出て丸子宿と安倍川の間の旧東海道を横断すると徳願寺の尾根が始まる。今日はこの尾根の始端から登るのではなく、途中にある「手児(てこ)の呼坂」と呼ばれている古代東海道の峠を歩くつもりだ。
国道1号線の手越し原の5差路を、いや自転車と歩行者の専用の道を入れると6差路なのだろうか。その歩行者専用の細い道を北に進む。
手児の呼坂に行かないときは、国道交差点を左折し小学校の方向に向かう。沢渡交差点の歩道橋を渡ると斜面の上に鳥居が見えるので、その鳥居を目指して階段を登って行けばの農道に合流する。その農道を登って行けば徳願寺の寺に出る
一方手児の呼坂の道は少し分かりにくい。歩行者専用の道に入ったら何はともかく山に近くなるように左側に行く。そして進行方向を北にとっていくとT字路にぶつかる。その正面には古い石仏があり、横には判読が難しくなった古い手児の呼坂の案内板がある。案内板に従い左折していよいよ山に向かって登り始めると、すぐ左がミカン畑で右が石垣の所に出る。その石垣の上を見ると石垣の上に手児の呼坂と書かれた看板が見えるので、階段を登り山道を少し行くとそこが手児の呼坂の峠で石碑や案内板が建っている。
石垣の上の標識 手児の呼坂の石碑
「手児」とはなんだろう? 娘。愛しい女。若い女。赤子。赤ん坊。幼児と色々出てきた。では「呼坂」----- 残念ヒットしない。
でもきっと、坂の途中で娘が誰かを呼んでいたり、あるいは想っていたりしたのだろう。いや逆に男が娘を呼んだのかもしれない。
そういえばこの坂の下の手越(てごし)は「平家物語」の能「千手前」の千手の前のふるさとでもある。とここまでは知っていたが千手の前のエピソードは忘れていた。そこで調べ直してみると面白い事が判明した。
千手の前の相方は「平清盛の五男 重衡が源氏に捕えれ鎌倉に護送された。そのご源頼朝の命により伊豆の狩野氏が重衡を幽閉した」 まてよどこかで聞いた話だ。そうだこれは昨年秋に沼津アルプスを歩いたとき「中将さん」と呼んでいた大岩の祠に祀られていた人物だ。確か中将さんはその後狩野氏の許を脱出して小鷲頭山で捕えられて切腹したはずだ。だが「千手前」では話が違っていた。
「幽閉され鬱々とした日を送っていた重衡を慰めたのは手越の長者の娘「千手」でした。この後千手は重衡を慕うようになり、重衡が都で処刑されると 出家して信濃国善光寺にこもり、重衡の菩提を弔った」ということです。
アレレ! 重衡は沼津アルプスの山中で切腹したのではないのか?
しかし史実は「重衡は木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された」とある。
一体何処で如何して「中将さん」の話になったのだろう。無名な人の祠だったのを高名な平重衡の名を利用した? でも何のために? 分からない。
話がとんでもない方に飛んでしまったので元に戻します。
「千手前」は死んでも重衡を忘れる事ができず、魂は重衡の名をいつまでも呼んでいた。その魂の訴えを聞いた故郷の住民は、いつしか坂の名前を「手児の呼坂」と呼ぶようになったとさ。
この手児の呼坂は沢渡交差点から徳願寺まで南北に続く尾根を縦断していて、東の手越と西の丸子を結んでいる。だから必然的に尾根道と合流する筈だった。なのに尾根道には合わないまま丸子側の平地に着いてしまった。地図を見ても農道にトンネルは無い。以前2回農道を歩いているので確かにトンネルは無かった。なのに農道に合流しない。なぜだろう?今でも狐につままれたようで理解できない。痴呆が始まったのか?それともアル中の禁断症状か。次回確認しよう。
「手児の呼坂」の丸子側には歌碑が建っていた。石碑は全てひら仮名なので読みやすくすると
「東道(あづまぢ)の 手児の呼坂 越えて去なば 我れは恋ひむな 後は逢ひぬとも」となり、意味は
「あなたが東海道にある手児の呼坂を越えて去っていくと、わたしは恋しく思うだろう。また逢えるとしても」となるそうです。
この歌は万葉集3477に収められているとなっている。アレー待てよ、万葉時代からここを手児の呼坂と呼んでいたのなら私の妄想的歴史解釈は成り立たない。何しろ「千手前」は平家の公達に好意を持ったのだから鎌倉時代の話だ。
手児の呼坂の歌碑
しかしここで尻尾を巻いてしまったら妄想的歴史家の名がすたる。ならばこんな説はどうだ。
ここ手児の呼坂を更に西に向かい日本坂峠を越した「やきつべの道」にこんな歌碑が建っている。
「やきつべに わが行きしかば 駿河なる 安倍の市道(いちじ)に 逢いし児(こ)らはも」
意味は「私が焼津に行ったとき 安倍の市に通う道であった娘たちがいたが 今頃どうしているのだろう」となるそうだが、この歌の中の安倍の娘たちとは、安倍川の手前の手越の娘たちに違いない。
この時代から手越の娘たちは美人で明るかったのだろう。そして娘たちがお互いを呼び合う様子を見て、にある坂を「手児(娘)の呼坂」と呼ぶようになった。どうですか、この説は。
歌碑の先の上り坂の道に入り尾根にある農道に向かう。徐々に高度を上げていくと丸子のが見えてくる。以前は「手児の呼坂」の存在理由が理解できなかったが、こうして高台から丸子を眺めるとなんとなく分かってくる。
江戸時代の旧東海道は宇津ノ谷峠から、下に見える丸子川に沿うようにして安倍川に至るほぼ平坦な道だ。
それが古代東海道は宇津ノ谷峠より更に南(海)側にある、日本坂峠を越えて安倍川に向かう道をとっている。それもそのまま平らな道を安倍川方面に行くなら理解できるのだが、途中で道は北に方向を変え、わざわざ峠を越えて旧東海道側に向かう。
峠を越えても下まで降りず中腹を今度は西に向かって逆走を始める。そして丁度江戸時代の丸子宿のあたりでようやく山を下り丸子川を横断する。川を渡ると次は対岸の山の裾まで行き、そこでようやく東に向かい、ここの呼坂の入り口来る。そして手児の呼坂を越して安倍川にと向かっている。
当時は何故こんな大回りをしたり、峠を越えたりしたのか。それはいま下に見える辺りはきっと安倍川と丸子川が合流する扇状地で湿地帯だったのだろう。そのため古代東海道はその湿地帯を避けるため峠を越えたり、山の中腹を歩いたりしたのだろう。
昔は湿地帯だった?丸子地区
(写真の左が安倍川で古代東海道は写真の左の低い所の峠を越え、その山の中腹を右に行き、写真右端辺りでこちら側の山に来る。そして山の麓を左に向かい、写真手前左の山にある峠が手児の呼坂になる。旧東海道や国道1号線は建物の建っている中央を走っている)
尾根の農道に合流し少し登った先で東側の景色が見えるようになる。今日のコースは景色は見えないので、天気予報は余り気にせずいたが、何と富士山が見えていた。心がけが良かったのかな?
ようやく徳願寺に到着。この寺に来るといつも思うのだが、「方広寺の鐘銘事件」で片桐且元が、当時駿府に住んでいた徳川家康に弁解に来たとき、最初に逗留したのがこの徳願寺だという。だが家康は中々面会を許さなかったので片桐且元は「駿府を上から眺めるのは失礼だ」と逗留する寺を、ここより更に西の山中にある誓願寺に変えたという。
こうして静岡市街を上から見ていると、その話が満更嘘ではないと感じてくる。
エッ!方広寺の鐘銘事件ですか?これは豊臣家が京都の方広寺大仏殿の梵鐘に「国家安康」や「君臣豊楽」と刻印したとに、徳川方が国家安康は家康の名前を分断し、君臣豊楽は豊臣家の繁栄を願い、徳川家に対する呪詛が込められていると難癖をつけた事件です。
それにしてもここに城を設ければ駿府の西の守りは盤石になりそうだ。東海道は真下にあるので常に監視でき手中の収めていることができる。また、敵の軍勢が西から攻めてきても、安倍川を渡るとき背後から攻めれば一ころだろう。なのに城は無かった。何故だろう?
徳願寺から静岡市街 徳願寺
アーア 徳願寺までは距離は短いのに随分時間がかかってしまった。次回は寄り道せず歩こう。
歩行月日:2012/01/11
歩行データ: コースタイム
安倍川駅-1:00-徳願寺-0:30-仏平-0:10-梵天山-0:20-歓昌院坂峠-0:35-駿河峰-0:40-
大鈩山-0:40-飯間山-1:10-三角点-0:15-宇津ノ谷峠-0:25-蔦の細道峠-1:40-安倍川駅
歩行時間:7時間25分 休憩時間:1時間15分 延時間:8時間40分
出発時間:7時40分 到着時間:16時20分
歩数:31,665歩 歩幅推測:0,77m 距離推測:24.4km (GPS距離 21.6km)
安倍川駅~徳願寺
一昨年の夏、満観峰の山頂で知らない人に「向廻山コース 向敷地~明治トンネル上 約6時間」と書かれた地図を貰った。
その人は「この尾根はアップダウンが激しいのに景色が見えない。そのため余り人が歩かない静かな山だ」と言っていた。
アップダウンが厳しいのも静かな山もどちらかと言えば好きな方だ。だが景色が見えないのはどうもなー。
更に「夏は草が生い茂り道がはっきりしない所もある」のは嫌だなー。とそのままになっていた。
今週の天気予報は曇り空が多く景色は望めそうもない。それじゃ何処にしようかと考え、この景色が良くない向廻山の話を思い出した。
地図を引っ張り出して確認すると、コース上には徳願寺山、梵天山、歓昌院山、大鈩山、飯間山の山名が見える。標高は一番高いのが飯間山で481mで他の山はすべて400m以下だった。これならアップダウンがあっても知れているだろう。すでにアップダウンが激しいと有名な沼津アルプスを完歩済みだし、と1月11日安倍川駅を出発した。
これから歩く徳願寺から宇津ノ谷峠の稜線は、大崩山塊の北の外れの東西に延びている尾根で、その尾根南側の底部には尾根と平行に江戸時代の東海道や国道1号線が走っている。そして国道の南側は大崩山塊の人気ルートの安倍川-朝鮮岩-丸子富士-満観峰 の稜線がある。ようは国道や旧東海道は、この二つの尾根に挟まれた沢底を走っていることになる。
安倍川駅を出て丸子宿と安倍川の間の旧東海道を横断すると徳願寺の尾根が始まる。今日はこの尾根の始端から登るのではなく、途中にある「手児(てこ)の呼坂」と呼ばれている古代東海道の峠を歩くつもりだ。
国道1号線の手越し原の5差路を、いや自転車と歩行者の専用の道を入れると6差路なのだろうか。その歩行者専用の細い道を北に進む。
手児の呼坂に行かないときは、国道交差点を左折し小学校の方向に向かう。沢渡交差点の歩道橋を渡ると斜面の上に鳥居が見えるので、その鳥居を目指して階段を登って行けばの農道に合流する。その農道を登って行けば徳願寺の寺に出る
一方手児の呼坂の道は少し分かりにくい。歩行者専用の道に入ったら何はともかく山に近くなるように左側に行く。そして進行方向を北にとっていくとT字路にぶつかる。その正面には古い石仏があり、横には判読が難しくなった古い手児の呼坂の案内板がある。案内板に従い左折していよいよ山に向かって登り始めると、すぐ左がミカン畑で右が石垣の所に出る。その石垣の上を見ると石垣の上に手児の呼坂と書かれた看板が見えるので、階段を登り山道を少し行くとそこが手児の呼坂の峠で石碑や案内板が建っている。
石垣の上の標識 手児の呼坂の石碑
「手児」とはなんだろう? 娘。愛しい女。若い女。赤子。赤ん坊。幼児と色々出てきた。では「呼坂」----- 残念ヒットしない。
でもきっと、坂の途中で娘が誰かを呼んでいたり、あるいは想っていたりしたのだろう。いや逆に男が娘を呼んだのかもしれない。
そういえばこの坂の下の手越(てごし)は「平家物語」の能「千手前」の千手の前のふるさとでもある。とここまでは知っていたが千手の前のエピソードは忘れていた。そこで調べ直してみると面白い事が判明した。
千手の前の相方は「平清盛の五男 重衡が源氏に捕えれ鎌倉に護送された。そのご源頼朝の命により伊豆の狩野氏が重衡を幽閉した」 まてよどこかで聞いた話だ。そうだこれは昨年秋に沼津アルプスを歩いたとき「中将さん」と呼んでいた大岩の祠に祀られていた人物だ。確か中将さんはその後狩野氏の許を脱出して小鷲頭山で捕えられて切腹したはずだ。だが「千手前」では話が違っていた。
「幽閉され鬱々とした日を送っていた重衡を慰めたのは手越の長者の娘「千手」でした。この後千手は重衡を慕うようになり、重衡が都で処刑されると 出家して信濃国善光寺にこもり、重衡の菩提を弔った」ということです。
アレレ! 重衡は沼津アルプスの山中で切腹したのではないのか?
しかし史実は「重衡は木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された」とある。
一体何処で如何して「中将さん」の話になったのだろう。無名な人の祠だったのを高名な平重衡の名を利用した? でも何のために? 分からない。
話がとんでもない方に飛んでしまったので元に戻します。
「千手前」は死んでも重衡を忘れる事ができず、魂は重衡の名をいつまでも呼んでいた。その魂の訴えを聞いた故郷の住民は、いつしか坂の名前を「手児の呼坂」と呼ぶようになったとさ。
この手児の呼坂は沢渡交差点から徳願寺まで南北に続く尾根を縦断していて、東の手越と西の丸子を結んでいる。だから必然的に尾根道と合流する筈だった。なのに尾根道には合わないまま丸子側の平地に着いてしまった。地図を見ても農道にトンネルは無い。以前2回農道を歩いているので確かにトンネルは無かった。なのに農道に合流しない。なぜだろう?今でも狐につままれたようで理解できない。痴呆が始まったのか?それともアル中の禁断症状か。次回確認しよう。
「手児の呼坂」の丸子側には歌碑が建っていた。石碑は全てひら仮名なので読みやすくすると
「東道(あづまぢ)の 手児の呼坂 越えて去なば 我れは恋ひむな 後は逢ひぬとも」となり、意味は
「あなたが東海道にある手児の呼坂を越えて去っていくと、わたしは恋しく思うだろう。また逢えるとしても」となるそうです。
この歌は万葉集3477に収められているとなっている。アレー待てよ、万葉時代からここを手児の呼坂と呼んでいたのなら私の妄想的歴史解釈は成り立たない。何しろ「千手前」は平家の公達に好意を持ったのだから鎌倉時代の話だ。
手児の呼坂の歌碑
しかしここで尻尾を巻いてしまったら妄想的歴史家の名がすたる。ならばこんな説はどうだ。
ここ手児の呼坂を更に西に向かい日本坂峠を越した「やきつべの道」にこんな歌碑が建っている。
「やきつべに わが行きしかば 駿河なる 安倍の市道(いちじ)に 逢いし児(こ)らはも」
意味は「私が焼津に行ったとき 安倍の市に通う道であった娘たちがいたが 今頃どうしているのだろう」となるそうだが、この歌の中の安倍の娘たちとは、安倍川の手前の手越の娘たちに違いない。
この時代から手越の娘たちは美人で明るかったのだろう。そして娘たちがお互いを呼び合う様子を見て、にある坂を「手児(娘)の呼坂」と呼ぶようになった。どうですか、この説は。
歌碑の先の上り坂の道に入り尾根にある農道に向かう。徐々に高度を上げていくと丸子のが見えてくる。以前は「手児の呼坂」の存在理由が理解できなかったが、こうして高台から丸子を眺めるとなんとなく分かってくる。
江戸時代の旧東海道は宇津ノ谷峠から、下に見える丸子川に沿うようにして安倍川に至るほぼ平坦な道だ。
それが古代東海道は宇津ノ谷峠より更に南(海)側にある、日本坂峠を越えて安倍川に向かう道をとっている。それもそのまま平らな道を安倍川方面に行くなら理解できるのだが、途中で道は北に方向を変え、わざわざ峠を越えて旧東海道側に向かう。
峠を越えても下まで降りず中腹を今度は西に向かって逆走を始める。そして丁度江戸時代の丸子宿のあたりでようやく山を下り丸子川を横断する。川を渡ると次は対岸の山の裾まで行き、そこでようやく東に向かい、ここの呼坂の入り口来る。そして手児の呼坂を越して安倍川にと向かっている。
当時は何故こんな大回りをしたり、峠を越えたりしたのか。それはいま下に見える辺りはきっと安倍川と丸子川が合流する扇状地で湿地帯だったのだろう。そのため古代東海道はその湿地帯を避けるため峠を越えたり、山の中腹を歩いたりしたのだろう。
昔は湿地帯だった?丸子地区
(写真の左が安倍川で古代東海道は写真の左の低い所の峠を越え、その山の中腹を右に行き、写真右端辺りでこちら側の山に来る。そして山の麓を左に向かい、写真手前左の山にある峠が手児の呼坂になる。旧東海道や国道1号線は建物の建っている中央を走っている)
尾根の農道に合流し少し登った先で東側の景色が見えるようになる。今日のコースは景色は見えないので、天気予報は余り気にせずいたが、何と富士山が見えていた。心がけが良かったのかな?
ようやく徳願寺に到着。この寺に来るといつも思うのだが、「方広寺の鐘銘事件」で片桐且元が、当時駿府に住んでいた徳川家康に弁解に来たとき、最初に逗留したのがこの徳願寺だという。だが家康は中々面会を許さなかったので片桐且元は「駿府を上から眺めるのは失礼だ」と逗留する寺を、ここより更に西の山中にある誓願寺に変えたという。
こうして静岡市街を上から見ていると、その話が満更嘘ではないと感じてくる。
エッ!方広寺の鐘銘事件ですか?これは豊臣家が京都の方広寺大仏殿の梵鐘に「国家安康」や「君臣豊楽」と刻印したとに、徳川方が国家安康は家康の名前を分断し、君臣豊楽は豊臣家の繁栄を願い、徳川家に対する呪詛が込められていると難癖をつけた事件です。
それにしてもここに城を設ければ駿府の西の守りは盤石になりそうだ。東海道は真下にあるので常に監視でき手中の収めていることができる。また、敵の軍勢が西から攻めてきても、安倍川を渡るとき背後から攻めれば一ころだろう。なのに城は無かった。何故だろう?
徳願寺から静岡市街 徳願寺
アーア 徳願寺までは距離は短いのに随分時間がかかってしまった。次回は寄り道せず歩こう。