はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

天城越え 指月殿

2012-05-23 17:34:55 | ウォーキング
天城越え1-9

修善寺駅
 独鈷の湯は現在は足湯になっているのか、温泉の塀の隙間からは服を着た人たちがしゃがんでいるのが見える。その入口にはそれに入る人達が並んでいた。ただ案内板には「独鈷の湯は、観光施設として管理されており、入浴はお断りしています」と書いてあった。
そしてその独鈷の湯からすぐの所に「河原湯」と名前の付いた足湯があった。5・6人入れば一杯になるような細長い小さな足湯だったが、こちらは年配の人たちが利用していた。
足湯が二つあればこんな使い分けもでき、中々気が利いていると感じたが、先程の「入浴はお断りしています」が気になった。足湯に入るのは入浴とは言わないのだろうか? 
因みに伊豆市や伊豆市観光協会のHPの足湯紹介には、河原湯はあるが独鈷の湯は無い。しかも独鈷の湯を紹介しているブログの中には「足湯としても利用できない」としている物もあった。
一体独鈷の湯は足湯として利用して良いのか、悪いのか、どっちだろう。今日見た感じでは年代により上手に使い分けができていたので、当然二つあった方が良いと私は感じたが。。
どっちにしても伊豆市はもっと明確にすべきだ。駄目なら独鈷の湯に「入湯禁止」の貼紙をすべきだし、足湯がOKならHPなどで足湯として紹介すべきだ。もちろん案内板も変更した方が良い。

 桂川を渡り「竹林の小径」なる場所を通り更に上流に遡る。この辺りまでは散策する観光客が多かったが、再度桂川を渡ると観光客の姿は見えなくなった。この先には源範頼(のりより)の墓があるのだが普通の観光客は興味を感じないようだ。私だって修善寺には何度も来ていたが、今までここには来たかことが無かった。

 車道を横断し高台への道の先に源範頼の墓があった。源範頼は先ほど寄った日枝神社に幽閉されていた人物だが、それ以外の知識は無かったが案内板には
「源範頼は頼朝や義経と兄弟で、義経とは共に木曽義仲や平家を破った。頼朝と義経の中が険悪化し、頼朝が義経討伐を範頼に命じたが応じず、そのため頼朝に疑われるようになった。
その後、曽我兄弟の仇討の際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子に「範頼がいる限りご安心を」と慰めため、幕府横領の疑いを招いた。範頼は必死に弁明に努めたが、遂に修善寺に幽閉され、更に梶原景時に攻められ、日枝神社したにて自害した」
となっていた。
 こうして読むと頼朝とは随分疑り深い性格なのかと感じてしまう。中国地方の武将の毛利元就ではないが、頼朝兄弟の父義朝が「三本の矢」を子供に教えていれば日本の歴史は随分変わっただろう。

   
  独鈷の湯                         源範頼の墓 

 源範頼の墓より上流には修善寺の奥の院があるようだが、時間も4時を過ぎてしまったので今日は止めよう。
帰り道に桂川の右岸を下って行くと今度は源頼家の墓の標識があった。ここまで来たならもう寄るしかないと路地に入り階段を登って行く。
鎌倉幕府二代将軍でしかも地元では愛童将軍と慕われていたのだから、さぞかし立派な墓だろうと想像したが、その期待は見事に外れた。先ほど寄った源範頼の墓よりも粗末で、しかも最初に墓と思ったのは供養塔で、墓はその後ろに隠れるようにある五輪塔だという。
その供養塔には「征夷大将軍左源頼家尊霊」と誇らしい名前が刻まれているが、その割には小さな石碑で名前とバランスを欠き余計淋しげだった。

   
  鎌倉二代将軍源頼家の供養塔                   頼家の墓

 頼家の事をもう少し紹介したい。
源頼朝と北条政子の嫡男として生まれ、二代将軍になった頼家は、次第に乳母の実家の影響を受けるようになった。そのため母政子の父、北条時政の顰蹙をかってしまい、時政は孫の頼家を修善寺に幽閉しってしまった。その時の事を横瀬の愛童将軍地蔵の案内板では「鬼よりも尚残酷たり鎌倉執権時政に、孫の頼家将軍を伊豆修善寺の山の家に出家となして押し込めてたり」と紹介している。
 ちょっと待って!この鬼より残酷な時政は、地元伊豆の出身ではないか。それなのにこんなにアクドク言われる理由は何故だろう。普通なら地元贔屓で全国的には悪人でも、地元では名君とされ慕われるケースが多いと思う。例えば忠臣蔵の吉良良上野介や賄賂政治を行った田沼意次などがそうだ。なのに時政は地元でも嫌われている。
大体静岡県出身の歴史上に人物というと、北条時政と政子親娘、今川義元、山田長政、由比正雪ぐらいの者か。源頼朝は数年伊豆に居ただけで、徳川は三河の人。となると時政は初代鎌倉幕府執権で、政子は尼将軍として日本の歴史に影響を与えている。それこそ伊豆いや静岡の代表選手だ。なのに嫌われている理由は何か?

 時政は孫の頼家を抹殺し、三代将軍に頼家の弟の実朝を将軍にしている。その時実朝は12才で実権は執権時政が握っていた。これで終わっていれば時政も「鬼より残酷」とは言われなかったのだが、時政は若い後妻の甘言に誘われ、孫の将軍実朝朝を殺害し、娘婿を新将軍として擁立しようとした。しかしそのことを政子に知られ陰謀は失敗する。結局時政は出家させられ伊豆の北条へ隠居させられた。
まだある。だがここから先は憶測にすぎないが------
時政の陰謀から逃れた実朝だったが、1219年正月、鎌倉鶴岡八幡宮で正月の祝賀を行い御所に帰る途中、大公孫樹の陰に隠れて「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ、二代将軍頼家の子供公暁に襲われ落命した。
さてここで気になるのが「親の敵はかく討つぞ」と叫んだ言葉だ。この言葉は後世の作文かもしれないが、下手人の公暁としては父親が殺され、次に将軍になった実朝を親の敵と思ったのかもしれない。だが実朝が将軍になったのは12歳の時で実朝に陰謀を謀ることが無理なのは誰が考えても分かる事だ。なのに公暁は実朝を親の敵と思っていた。
その理由として、将軍実朝が邪魔になった時政が、頼家の子、公暁に「お前の親を殺したのは実朝だ」とそそのかしたとも言われている。だがこの説は眉唾だ。時政は実朝が暗殺されるより4年も前に伊豆で死んでいる。
叔父の三代将軍実朝を暗殺した公暁は、その場で捕えられ殺されてしまった。これで源氏の血筋は途絶えてしまい、四代将軍は京の藤原家から迎えるしかなかった。浅はかといえば浅はかな公暁の行為だった。

 小さな五輪塔の頼家の墓の近くには、母親の北条政子が我が子のために建立した「指月殿」や、頼家の家臣の「十三士の墓」があり、ヒッソリ眠る頼家にとってせめてもの慰めに感じた。
 
  
  指月殿                            十三士の墓

 桂川の橋を渡れば来た道に戻るのだが、それでは面白くないとそのまま川の右岸側の道を行く事にする。
「ホテル桂川」の横から道は上り坂になってきたが多分大丈夫だろう。道は太いし最悪遠回りになったとしても下田に向かう国道に出るはずだとそのまま直進した。
 「修善寺ハリスト正教会」が建っていた。案内板には明治に建てた教会で静岡県の文化財になっていて、中には見事な聖器物があると紹介しているが教会内部には入れないようになっていた。

 行に歩いた道が随分下に見えてきて、少々不安を感じてきたときジョギングの人が近づいてきた
「済みません。この道は修善寺駅に行きますか?」と聞くと
「この先で国道に出るので、左に行けば国道沿いに駅に行くし、右のトンネルを通ってその先で下に行けば旧道経由で駅に行きます」よしそれならトンネル経由で行こう。


    
   ハリスト正教会                        越路トンネル

 トンネルを潜ると狭間というバス停の所から下る道があった。多分ここを下れば下田街道に出るのだろ。しかしその下田街道は次回歩くので今日はなるべく歩きたくない。そこで途中から脇道に入る事にした。
道路脇の祠の中に髪は総髪で後ろに流し、手には笏を持っている今日何回も見た石仏が座っていた。まだ新しく近代的な面立ちをしている。多分賽の神だろうと思ったが正確には分からない。たまたま近くにおばあさんが草取りをしていたので
「この石仏は道祖神ですか。それとも賽の神ですか」と聞いてみた。
「このへんでは道祖神と呼んでますよ」と返事が返ってきた。
ウーンこれが道祖神か、なら賽の神はどのような形だろう?と改めて疑問が深くなっててしまった。
ネットの紀行文を読むと、賽の神とか道祖神を言い切っているものがあるが、その根拠は何なんだろう? 私の拙い知識では文字で賽の神とか道祖神と書いてないと判断できない。だが道祖神と書いた石碑は良く見かけたが、賽の神と書いた物は見た事がない。ウーン分からない。

 道が狩野川沿いの下田街道に出たが、少し右に狩野川の橋が見えていた。このまま街道を左に下って行けば修善寺駅方面に行くのだが、そこは次回歩く予定になっている。それならあの橋を渡って狩野川の右岸を行こうと橋を渡って行った。
勘は見事に当たり途中からは狩野川沿いの遊歩道になり横瀬の交差点の所にある修善寺橋に出る事が出来た。

5時30分修善寺駅到着。駅の近くのコンビニで氷結を購入。1回目の天城越えの完歩を祝う。
それにしても1回の歩きの報告に9回も掛けるなんて、幾らなんでも遅すぎだ。次回はもう少し簡潔にしなければ。

  
  道祖神                          修善寺橋

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