はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵3回目-1

2013-10-12 10:58:00 | 寺社遍路
  21番目 ~ 40番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:10時間25分 休憩時間:2時間10分 延時間:12時間35分
出発時間:6時00分   到着時間:18時35分
歩  数:  58、500歩   GPS距離:43.4km
行程表
 安倍川駅 0:08> 21番 0:27> 22番 1:42> 23番 0:46> 24番 0:05> 25番 0:05> 26番 
 0:03> 27番 0:21> 28番 0:13> 29番 0:16> 30番 0:08> 31番 0:25> 32番 0:12> 33番
 1:50> 34番 1:20> 35番 1:24> 36番 0:06> 37番 0:04> 38番 0:03> 39番 0:17> 40番
 0:30> 安倍川駅

              21番目(8番)明光寺

 駿河百地蔵の3回目は、静岡市内の地蔵を20ヶ所も回る予定だが果たして可能なのか。
市内といっても34番目の新光明寺は市街地から10km以上も奥にある寺だ。前回の峠の地蔵も奥にあったが
地蔵の数か今日の半分の11ヶ所だったので回れたのだろう。それが20ヶ所ともなると1ヶ所で10分と見ても、
それだけで200分、3時間は必要になってしまう。ハードな一日になりそうだ。

 当然電車は始発で、安倍川駅に着いたのは6時前。GPSや歩数計の準備を終えて出発したのはジャスト6時。
安倍川駅から朝鮮岩方面は線路沿いを西に行き、徳願寺尾根方面なら東に進む。だが今日は駅の前から前に
進む初めての道だ。
新幹線のガードを潜り少し行っただけで今日最初の明光寺があった。
境内の西側に建つ新しい地蔵堂には、百観音の標札が張られていたが、ご詠歌の板は見当たらない。
地蔵堂の中を覗くと立像の地蔵が見えたが、格子戸の濃い影が映っていてはっきり見えなかった。

 ここのお地蔵さんは「虫除地蔵」と呼ばれているが、はて何の虫でしょう。
蚊や虻のような虫? それとも女性に付く悪い虫? イエ正解は子供の「疳の虫」でした。
たしか焼津の辻地蔵も子供の夜泣に効いたとあったが、お地蔵さんには子供に関した物が多いように感じる。
子供が産まれますようにと「子授地蔵」に願掛けし、産まれれば無事育つように「子育地蔵」にお祈りする。
疳が強くなれば「虫除地蔵」に、疣ができれば「疣地蔵」に治癒をお願いする。
そんな子供に関する地蔵で、最近多いのが「水子地蔵」だ。この地蔵の特徴は新しい地蔵ばかりで、古い
水子地蔵はまだ見ていない事だ。
これは人工的妊娠中絶が増えてしまった現在、親の悔悟の念を見越した、寺の経営方針の表れか。

 
            明光寺                              虫除地蔵堂
      明光寺の地図

              22番目(9番)小野薬師寺(万葉古道)

 明光寺の横の道を出て西に進んで行くと、丸子川の遊歩道に合流した。合流するのが想定より早く、しかも
上流のような気がして後で地図を見ると、いつも歩く線路から丸子川に出る道の1/3の距離だった。
いわゆる三角形の一片を歩く事になった。では次回からはこの道にするか? ウーン住宅地の中を歩くより、
距離は長くても川べりの遊歩道の方がいいかな。

 遊歩道とは井尻橋で別れ、小野薬師寺への道に入る。
この道は大崩山塊の朝鮮岩・丸子富士・満観峰のコースで何回も歩いている道だ。
小路の先の石垣に「最古の東海道 万葉の道 井尻峠⇔的山峠」の標識が立てかけてある。さらにそこから
少し先の神社の横には、朽ちかけ始めた「最古の東海道 万葉の道 井尻峠⇔井尻」もある。

    
      的山峠への標識                             井尻峠の標識

 旧東海道といえば蔦の細道や宇津ノ谷峠を思い浮かべるが、これらの道は平安時代以後の道で、それ以前の
万葉(奈良)時代の道は、さらに南側の日本坂峠を通っていた。ここに立つ標識は、その万葉時代の東海道を
案内している物です。
下の地図は、万葉時代とそれ以後の東海道を記入した丸子周辺の地形図です。この地形図を見れば万葉時代の
東海道の事が理解しやすいと思います。(万葉時代の東海道の経路は私の想像です)
   
黒い表示は奈良時代、赤い表示は平安時代以後を現します。
こうしてみると奈良時代の東海道は、日本坂峠を下った後、現在の安倍川駅方面に出れば、平地で距離は短い
のに、何故か大和田から向きを北に変え井尻峠を越している。
井尻峠を越して丸子に出ると、今度は西に向きを変え的山峠と谷津峠を越えてから、やっと丸子川に出ている。
さらに大変な事に丸子川を渡ると、今度は北の山の麓まで移動して、その山裾を東に辿って、またもや山地を
越えるため手児の呼坂峠を通り、ようやく手越に抜けていた。
しかし遠回りはまだまだ続き、手越に出ても東を流れている安倍川には向かわず、山裾を北に向け安倍川上流
の中州にある舟山を目指していた。そしてようやくこの舟山を経由して駿府に向かっていた。フー疲れた。
(以前井尻から的山峠の道に入った事があるが、畑が終えると雑草に覆われた斜面になり、道らしき跡は探す
ことができなかった。今度は草の枯れた冬に谷津峠の標識の方から入ってみようと思っています)

 一方平安時代以後の赤い線の東海道は、現在の国道とさほど変わりはない。
ではなぜ奈良時代はこんな大回りをしたのか。それは地形図で見ると何となく分かると思うが、当時の安倍川の
流れは、今より西の山裾を蛇行していたと思われる。そして地図の手越原・丸子・大和田・用宗巴町の辺りは
当時は川原か湿原ではなかったのか。その湿原を避けるため奈良時代の東海道は大蛇行をした。
これが私の妄想的丸子東海道の歴史観です。
しかしこの説の全てが妄想というわけではなく、道標は谷津峠入口と手児の呼坂にもあります。

 
          谷津神社近くの標識                        手児の呼坂の標識

また、大和田の和田の地名は「川が蛇行して湾曲してできる丸みのある平地」のことだそうですし、井尻峠の
大和田側にある地蔵堂のご詠歌は「安養の鐘のひゝきにさそわれて 和田?港のとも綱をとる」と謳っています。
これにより昔の大和田には港があったと考えられる、全てが私の妄想というわけではないと思います。

 
           大和田地蔵堂                        ご詠歌

 話を百地蔵に戻そう。井尻峠入口を左に見て小野薬師寺の参道を行くと、祠の横の赤い幟に「身代地蔵菩薩
と書いてある。祠の中には座像で右手に小槌、左の手の平に宝珠を乗せた地蔵さんが安置されていた。
身代地蔵なら本人の身代りになって、禍いを受けてくれるお地蔵さんだが、今の私は何か身代りになって
欲しい事があるか? 暫し考えたが思いつかなかった。それだけ人生を楽しんでいるということだろう。
身代地蔵を過ぎると道は傾斜を増し息切れがしてくる。この息切れと疲れを代ってくれないかしらお地蔵さん。

 小野薬師寺は現在は無住になっているが、寺の下には家が建っており少し前までは住職が住んでいたようだ。
以前は縁日の1月15日には寺では護摩が焚かれ、参道には露店が出たり、縁結びの寺と知られていたので
谷津峠や的山峠を越して、芹ヶ谷の若者が参詣に来ていたと書いた物もある。
だが今は境内は雑草に覆われ、とても当時を思い浮かべるすべはない。境内に2基の祠はあるが、地蔵を祀って
いる気配はないし、寺の名前が薬師寺なのだから本尊は薬師如来なのだろう。
若しかて前回の峠の地蔵と同じように、百地蔵のHPが間違っていて、さっき参道にあった「身代地蔵」が百地蔵
の可能性だってある。何しろHPには寺の名前だけで、他に何も書かれていないのだから。

 
         身代地蔵                               小野薬師寺
    小野寺の地図

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