はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

城ロマン:掛川3城廻り(高天神城趾2)

2018-02-04 10:27:32 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-1-20(土)
歩行時間:8時間00分   休憩時間:0時間50分   延時間:8時間50分
出発時刻:7時25分     到着時刻:16時15分
歩  数: 38、253歩(推定距離27.16km)    GPS距離km
行程表
 掛川駅 0:10> 掛川城 2:00> 小笠山 0:05> 小笠山砦 0:05> 小笠神社 1:20> 高天神城趾入口 0:50> 本丸跡
 0:35> 高天神城趾出口 0:45> 県道合流 0:40> 横須賀街道合流 0:25> 大須賀図書館 0:25> 横須賀城趾入口
 0:40> 横須賀城趾出口 0:02> 西田バス停


                           高天神城内の想像図

  地理院の地形図に高天神城の史跡の場所を記入してみましたが、あくまでは私の想像ですので間違いは許してください。

        
             南口(大手門)入口                        大手門址

  無駄な労力を使ってしまったが、いざ高天神城へ登城!
有名な城の割には貧弱な鳥居を潜ると 「追手門」 と書かれた杭が建っていた。
エッ!こっちが大手門? と思ったが、兎も角案内板を見ると、 「追手門(大手門ノ址)」 とあった。
大手門、追手門の何方が書かれていれば気にならないが、このように二つが同時に書いてあると、その違いが気になり調べてみた。
 「追手とは城の裏側から兵を出し、敵を正面に追い込むことを意味する。この追手が大手に転化した。」
ウッ! 良く分からない。敵が攻めてきたら裏門から兵を出し、敵を正面の門に追い込む? 納得できず他を探したが適当な物は無い。
得意のウイキペディアには
 「大手門とは、日本の城郭における内部の曲輪へ通じる大手城門。正門にあたる。元は追手門(おうてもん)と書かれていた。」
違いについては書いてなかったが仕方ない、追手門とは大手門と同じと理解しておこう。
それにしてはこの大手門の場所は斜面の途中で、とても城の正門があった所は思えない。これなら北口の方が大手門に相応しそうだが。

        
                倒木で進めない                        こちらも通行止

  メイン通路から外れた道があったので這入りこんででみたが、倒木の隙間に何とか跡と書いた杭は建っているものの読む事ができない。
当然進む事も出来ないのでメイン通路に戻るが、今度は “土砂崩れのため立入禁止” となっていた。復旧する気はないのかな?
この通行止の先は 「二の丸・高天神神社」 となっていて、メイン通路は 「三の丸・本丸」 となっていた。

  次の標識は二の丸方面に行く道と、三の丸・本丸への道と別れていて、更にその先は三の丸と本丸に行く道が分かれていた。
何か違和感を感じる。私のつたない城の知識では本丸の近くには二の丸があり、次いで三の丸があった。
敵は本丸を攻めるには二の丸や三の丸を壊滅してから本丸に向かわなければならなかった。
それが高天神城は本丸の横に三の丸があり二の丸は遠く離れている。まだそれは良いとしても、それぞれの曲輪の下に2本の通路が
あるのは理解しずらい。これでは敵は三の丸が強そうならそこを避け、本丸や二の丸に取りつく等、自由に選ぶ事ができる。
戦闘状態でなければ通路があった方が便利だが、山城は戦闘のための施設なのだから普段は不便でも防御を固めるべきだ。

 
               お前曲輪跡                                 お前曲輪跡から

  先ずは本丸からと、本丸に上がり一瞥して三の丸に向かった。で、最初に眼に入ったのは鎧姿の侍と奥女中風の顔出しパネルだった。
観光地でもあるまいものを、何でこんな物を・・・・・・
横には 「高天神戦国ロマンの里 大東町 城主・小笠原与八郎長忠 奥方」 と裏切者の小笠原の名が書いてあった。
前回紹介したが小笠原とは今川氏親の娘を貰い、義元と義兄弟になった縁で高天神城主になっている。それなのに徳川家康の甘い
誘惑にのり今川を裏切り、主君でもある今川氏真が籠る掛川城を攻撃までした裏切り者だ。
しかも彼は武田勝頼との第一次高天神城の戦いで敗れ、高天神城を武田の手に渡した張本人だ。
そんな男の顔出しパネルを作るなんて大東町の歴史感が分からない。

  まだ腹がたつことがった。パネルの横に立つ案内国は、ここは 「お前曲輪跡」 となっている。ここは三の丸だろ。何故 “三の丸” と
書かないのだ。おまけに “お前曲輪” の “お前” とは何のことだ。解説でもしておけ。なんて八つ当たり気味。

  パネルの後ろにコンクリの土台は 「昭和9年に地元出身の軍医少将が、故郷を偲び2層の模擬天守閣を建てられました。
残念なことに昭和20年落雷によって焼失(一説には陸軍が駐屯していたので目につきやすい事から自ら爆破させたとも)・・・? 」

何が故郷を偲びだ!。偲ぶなら派遣された先に建てればいい。地元に建てるという事は、立身出世した己の見せびらかせたいだけだ。
もうイライラの焔は消えそうもありませ。。

  お前曲輪の一部から東方面の景色が見えていた。
ここが437年前に武田と徳川が死闘を演じた戦場ととても思えないのどか風景でした。
実はこの時はてっきりお前曲輪が三の丸だと思い込んでいたので、そのまま本丸の方に移動してしまったのです。
ところが後で資料を見てその勘違いに気付いたが、その時は後の祭りで宿題を残してしまいました。

 
               元天神社                               本丸址

  お前曲輪と本丸の間には元天神社が祀られています。この神社は神社本庁の由緒によれば
 「創建年代詳ならず、(中略)今川了俊当山に城郭を築き、筑紫太宰府の天満宮を御同殿に斎き奉り、城中守護の神となす。
元亀天正の頃戦場と化し、古記類等失亡して往古を知る由もないが、慶長6年(1601)横須賀城主大須賀出羽守忠政武運長久を祈り、
霊験をもって新たに6石の地を寄進し社殿を造営す。」
とあります。
更に現在地元で行われる高天神神社の祭は、東峰の社に神様が里帰りされる行事として行われているそうです。
と、いう事は高天神で激しい戦闘があった頃は、この神社しかなかったのでしょう。

  本丸跡は中々広く周りには土塁も残っています。西南戦争や日清戦争の慰霊碑もいくつもある。
本丸の案内板は高天神城の三つの戦いを列記したものだったのでここでは省略。
高天神城の決死の突撃については、地元大東公民館の案内板に “あやうし高天神” と突撃前夜の哀しい話が書いてあったので、
いつか紹介したいと思います。

 
                石窟跡                              鏡曲輪跡?

  本丸を下り罪人を押し込めていた石牢があるとの標識があったので見に行きました。
 「大河内幽閉の石風呂(石窟)」 とあり、第一次高天神城の戦いで徳川方の軍監大河内何某が武田勢に捕らえられ、この石窟に
8年も閉じ込めれていた。第二次高天神の戦いで徳川が勝利して漸く石窟から救出されが、足掛け8年も石窟に押し込まれて
いたため歩行困難がだった。と案内していた。
今は牢内は土砂で埋まったのか内部は見えず、石窟と云うより土牢の方が相応しい感じです。

  石窟から弓矢の訓練をしたという “的場曲輪” を通り、北口(ここの案内板には搦手門とある)に抜ける場所に出ます。
今は三辻だがかっては北に下れば搦手門、西に登れば二の丸や西丸、北に上れば今歩いて来た本丸。更に南に下れば大手門に
通じる重要な場所だったようです。今は南に下る大手門の道は土砂崩れで通行止になっています。

 
                井戸曲輪跡                             かな井戸

  広くなっている四辻の上は井戸曲輪で城内の飲料水を供給した井戸があった場所だという。
井戸の中はどうなっているか覗いてみたいが、進入禁止の垣根があって中に入れない。それにしても井戸がある場所の北も南も
急斜面の尾根筋なのに、よく水が湧くと分かったものだです。
ここでまた失敗をしてしまった。正面に見える白い板には “二の丸” と書いてあったのに、下の文字に気を取られ二の丸を見逃して
しまった。これも家に戻ってから気が付く後の祭りで、こうなったらもう一度高天神には来なければならないな。

 
              高天神城合戦将士英魂碑                       井戸曲輪を上から

  高天神城の戦死者の慰霊碑です。この慰霊碑の他に旧大東町には “千人塚” でも戦死者の慰霊をしているそうです。

  2枚目の写真は井戸曲輪を上から見ています。こんな尾根筋の井戸で千人もの飲料水を賄う事ができたとはとても思えません。
多分戦時以外は麓の水場から水を運んでいたのでしょう。

        
                   西の丸址(社務所)                              堀 切

  一段目の階段を登った場所には今は社務所が建ってるが、昔は西の丸だったという。確か第一次の戦いでは武田軍に西の丸を
破られ落城したとあったが、今こうして歩いてみても、本丸付近には幾つかの曲輪があるが、西の丸は井戸曲輪しかない。
武田軍はこの手薄の西側を破ってから本丸攻撃をしたのだろう。高天神を占領後武田軍は弱点である城の西側を補強したという。

  社務所の前の杭に 「堀切 この社務所の裏尾根伝い」 と書いてあったので、社務所の裏に行ったが堀切は無く、山道が
尾根伝いに延びている。ここまで無駄な時間を使っているので迷ったが、今日はまだ堀切を見てないので行ってみる事にした。
3分ほど歩いたが何もなく引き返すか悩みだしたときに、右に下る道と分岐した。下れば上らなければならないので当然直進する
平らの道を行くと、すぐとても下れそうもない急斜面になってしまった。諦めて下を見ると “堀切” と書いた白い杭が見えている。
そこは尾根の鞍部を更に深くした形跡も見えるが、とても下る気は起きないので、上から写真を写して引き返した。
堀切から先にも道は延びていが何処に続く道だろう。ハイキングコースかな?

 
                 馬場平                              馬場平から
 
  堀切を確認して西の丸まで戻り、更に階段を登り高天神神社の前に出る。で、またここでミスをした。何と神社の写真を撮るのを
忘れてしまったのだ。どうも高天神城とは相性が悪いようだ。
神社の裏の浅い堀切を渡ると馬場平に出た。馬場平の名前から想像すると馬の訓練場所と思えるが、それにしては狭すぎるので
馬を飼育していた場所かと思った。
だが、ここは城の南部を見張る見張台があった場所だという。確かに南側が開けていて見張台になりそうだ。

 
                甚五郎抜道                             三日月井戸

  高天神城では第二次高天神の戦いで、城が落城した事を甲斐の武田に知らせるため、城から脱出した話を聞いたことがある。
その 「甚五郎抜け道」 が馬場平にあった。案内板には
 「天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、是より
西方約一千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った。この難所を別名「犬戻り猿戻り」とも言う。」

こういう説明を聞くとすぐイチャモンを付けたくなる悪い癖。

犬戻りは今日小笠山で、犬戻りの上の橋を歩いて来たし、小笠池の上の細い道も写真で紹介したので怖い場所だとは分かります。
では、猿戻りとはどんな道だろう? 身軽な猿させ戻るのだから犬戻りよりもっと怖い場所ではないか。そんな場所を馬が駆け抜ける?
いや通れることが出来るだろうか。
それと “信州を経て甲州へ” ともあるが、私なら大井川に抜けて井川から安倍川に出て、更に安倍峠を越えて甲斐に行く。
それが信州経由だと徳川の領地を通り天竜川に出て、塩の道をから信州に行く遠回りの道となる。
脱出した兵が徳川兵ならその道でも分かるが、抜け出したのは武田兵だ。それなら武田の勢力の残る大井川に出、武田の金山が
あった井川・梅ヶ島の道を行くだろう。
まだある。確か北口の案内板には甚五郎抜道から北口に戻る道があったが、ここには “西方約一千米の尾根続きの険路を辿って”
なんて書いてある。と、いう事は北口には行かず、そのまま小笠山に通じる尾根に延びてしまうのか。
この後、横須賀城に行くには西に見える尾根を越していくのだから、何処かでこの抜道に出合うかもしれない。だがそんな不確かな
事でまた無駄な労力を使うわけには行かない。それに犬戻り猿戻りも恐ろしい。と、引き返してしまいました。

  接近しすぎていて全体が分からない写真ですが、井戸ではありません。これは水溜まりです。と云っても良いような井戸です。
アッ! チョッと待ってください。杭に上にある案内には
 「この水は、飲料用ではないようです。武田方が領した時、几水の事から作ったと言われており、岩から水がしみ出ています。
飲料の井戸は城の中頃辺に確保されている。」

そうだろうな、こんな水溜りの水は非常のときは兎も角、通常の時は飲む気にはなれない。
それにしても “几水” って何だ? 調べてみたが分からない。 “几” という文字は机とかひじ掛けの意味らしいが、それに水で
何を意味するのだろうか? 折角の案内板なのに意味が不明では意味がない。
そうそう几水を調べていたら三日月井戸の古い画像があり、そこに写っていた案内板にはこんな事が書かれていた。
 「天正二年七月より篭城した武田勢は飲料水に恵まれるようにと水乞いの祈願をこめて、井戸を造った。今も極わずかながらも岸壁から
しみ出る垂れ水が絶えることが無い。」

ご免なさい、古い話を持ち出して。これも “几水” の意味を説明さえしてくれてあれば調べなかったのですが・・・

 
                 地 層                              搦手門址

  小笠山の地層は小石交じりの物が多いが、ここの地層はシッカリした岩盤に見える。さっき見た石窟も本当に石だったのかも。
大手門の道を倍する太さの道にようやく 「搦手門址」 の案内があった。矢張り城は南口、北口より、大手(追手)門、搦手門の
方が雰囲気がでる。高天神の地図の案内板はなぜ南口、北口にしたのでしょうか。
案内板には 「搦手門 城の裏門に当り、城南から出て来る者を搦め捕る意味からこの名がある。(後略)」
 “城南” の意味は分からないが、この搦手門の解釈は初めて聞いた。一般的にはこれとは逆で
 「搦め手とは余り注意が向けられていない箇所を指す場合にも用いられる。転じて、裏技を用いるといった意味合いで用いられる
場合もある。 搦手門は有事の際には、領主などはここから城外や外郭へ逃げられるようになっていた。」


 
               高天神城の山                               通行止だった

  手間取った高天神城がようやく終わり、次の目的地の横須賀城に向かう。
高天神では色々ケチを付けてしまったが、決して高天神が面白くなかったのではありません。イエどちらかと言えば見る物が多く
楽しくさえあった。それなのに入口探しで無駄骨を折ってしまったため嫌味を垂れ流してしまったのです。
いつまで経っても子供ですが、見残しの多い高天神城には近いうちにもう一度来ようと思っています。

  高天神城を出て西に向かう車道を行けば横須賀に向かう県道に合流するはずです。若しかすれば途中で甚五郎抜道と合流する
かも知れない。など考えながら気軽に歩いてました。
ところがなんていう事だ。道の前は掛川水道局の入口で、その門は閉まっている。門の中を覗き込んでも上に行く道は見えない。
そんな馬鹿な~。今から高天神まで戻って南の海岸方向に向かうのでは、とんでもなく遠回りになってしまう。困った。
今でさえ想定していた時間より遅れているのだから、これ以上遅れてしまったら横須賀から東海道線の駅まではどうしよう。
若しバスが無かったらタクシーとは思っていたが、それは最悪の状態で心の中では掛川駅は無理でも愛野駅までなら何とか歩けると
思っていた。だがこんなに無駄な事に時間ばかりかけてしまうとそれさえも無理だ。
ウーンどうしよう。悩んでいても仕方ない、戻るしかない。

        
                    この道でいいのかな?                          大城隧道

  こうなったら横須賀城趾は諦めて高天神まで戻って掛川に帰ろう、なんて考えながら来た道を下って行くと、今歩いている
道より大分細めだが舗装された道が西の尾根に向かって延びていた。若しかしてこの道?
よく見れば入口には掛川市の 「凍結注意!」 の貼紙もある。若しこの道が農道ならこんな貼紙をしないだろう。それに電線も先に
延びている。マーいいか。例え農道で道が途中で行止りだったら引き返して掛川に戻るだけだ。と細めの道を前進することに。

  途中で電柱は無くなってしまったが、道はそれなりに交通量がある感じで雑草や落葉も積もっていず続いている。
だが車が1台も通らない事に若干の不安はあったものの、前方のトンネルを見て安心した。もうこれで100%大丈夫!

 
               県道合流                                    ??池

  トンネルを出てからは思ったより早く県道に出た。合流した先は溜池もあり、横須賀にはこの道を下るだけだ。

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