アーダ、コーダ、イーダ!

浮かんでは消えていく想い。消える前に名前をつければ、何かにつながるかもしれない。何処かにいけるかもしれない。

動詞で考える日本 「くらべる」

2010年11月10日 22時42分37秒 | Weblog
 司馬遼太郎の『坂の上の雲』の第2部がやがて放映される。それに合わせるように、文藝春秋から特集号が出て、それを読むと、なんとまァ、明治の政治家の凄まじい気骨であることか。文明開化で、今の日本は明治から始まった。文化、科学、工業、商業、全てのものが進化してきた。ただ、一つだけ、明治より退化したものがある。それが政治家。

 中国船の「攻撃」、逮捕と釈放、映像の「公開」。この一連で浮き上がったのは管と仙石のキッカイ。内弁慶というか、弱い者に強く、強い者に弱いというか、情けないを通り越して、醜い。尖閣付近で働く海保の人達がいかに過酷で危険な状況にあるか。中国船船長の釈放とその後の動きは、彼らのことを何も考えていないことをどんどん明確にしていった。政治家の仕事は自分の地位を守ることではなく、最前線に立って、国民を守ることではないのか。できるできないはすぐに判断できるだろう。的確に判断して、政治から身を引くことだ。「石にかじりついてでも」と総理はおしゃったけれど、レベルもレトリックも低い。あまりにも低い。ここは一般市民になって、四国遍路の続きをしてらいいんじゃないか。次の選挙で仕分けされる前に。