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みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

二 イーハトーヴの土地、賢治の土地(鬱屈)

2018-12-15 12:00:00 | 賢治渉猟
《『宮澤賢治』(國分一太郎著、福村書店)》

 さて國分一太郎は、
 有名な「雨ニモマケズ」の詩ばかりでなく、「稲作挿話」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」「それでは計算いたしましょう」「稲熱病」「地主」「倒れかかった稲の間で」などの詩も、よく味わうことができるだろうと思うのです。
            〈『宮澤賢治』(國分一太郎著、福村書店)》28p〉
と述べていたので、残りの詩4篇「それでは計算いたしましょう」「稲熱病」「地主」「倒れかかった稲の間で」についても少し目を通してみたい。

 まず「それでは計算いたしましょう」についてだが、それは、
      〔それでは計算いたしませう〕

   それでは計算いたしませう
   場所は湯口の上根子ですな
   そこのところの
   総反別はどれだけですか
   五反八畝と
   それは台帳面ですか
   それとも百刈勘定ですか
   いつでも乾田ですか湿田ですか、
   すると川から何段上になりますか
   つまりあすこの栗の木のある観音堂と
   同じ並びになりますか
   あゝさうですか、あの下ですか
   そしてやっぱり川からは
   一段上になるでせう
   畦やそこらに
   しろつめくさが生えますか
   上の方にはないでせう
   そんならスカンコは生えますか
   マルコや・・はどうですか
   土はどういふふうですか
   くろぼくのある砂がゝり
   はあさうでせう
   けれども砂といったって
   指でかうしてサラサラするほどでもないでせう
   堀り返すとき崖下の田と
   どっちの方が楽ですか
   上をあるくとはねあげるやうな気がしますか
   水を二寸も掛けておいて、あとをとめても
   半日ぐらゐはもちますか
   げんげを播いてよくできますか
   槍たて草が生えますか
   村の中では上田ですか
   はやく茂ってあとですがれる気味でせう
   そこでこんどは苗代ですな
   苗代はうちのそば 高台ですな
   一日一ぱい日のあたるとこですか
   北にはひばの垣ですな
   西にも林がありますか
   それはまばらなものですか
   生籾でどれだけ播きますか
   燐酸を使ったことがありますか
   苗は大体とってから
   その日のうちに植えますか
   これで苗代もすみ まづ ご一服して下さい
   そのうち勘定しますから

   さてと今年はどういふ稲を植えますか
   この種子は何年前の原種ですか
   肥料はそこで反当いくらかけますか

   安全に八分目の収穫を望みますかそれともまたは
   三十年に一度のやうな悪天候の来たときは
   藁だけとるといふ覚悟で大やましをかけて見ますか
         〈『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)442p~〉
のことであろう。
 かつての私は、この詩を通じて賢治の肥料設計の見事さを知り、いたく感動したものだ。流石に賢治の肥料設計の仕方はいろいろなことを踏まえた上でのそれであり、素晴らしいものだということが容易に読み取れたからだ。
 ところが、私はある時点で賢治の稲作指導の限界を知ってしまった。よくよく考えてみれば、賢治の稲作経験とは花巻農学校の先生になってからのものであり、豊富な実体験があった上での稲作指導というわけではないのだから、経験豊富な農民たちに対して賢治が指導できることは限定的なものであり、食味もよく冷害にも稲熱病にも強いといわれて普及し始めていた陸羽132号を、ただし同品種は金肥に対応して開発された品種だったからそれには金肥が欠かせないので肥料設計までしてやる、というのが賢治の稲作指導であったとならざるを得ない。したがって、お金がなければ購入できない金肥を必要とするこの農法は、残念ながら、当時の大半を占めていた貧しい自小作農や小作農にとってはもともとふさわしいものではなかったということは当然の帰結である。
 ちなみに、羅須地人協会の直ぐ西隣の協会員の伊藤忠一も、
 私も肥料設計をしてもらいましたが、なんせその頃は化学肥料が高くて、わたしどもには手が出ませんでした。
           <『宮沢賢治―地人への道―』(佐藤成著、川嶋印刷)>
ということだし、高橋末治(鍋倉)の聞書においては、それは大正13、14年頃の農会主催の講習会に関するものだが、
 (賢治の)肥料設計のお話しを聞いた我々の感じでは〝今までの施肥よりは、ずっと多くの肥料を使うものだな〟〝高價なものだな〟ということでした。
 化學肥料というものを(農藥も)耳新しく聞いた人たちが、その場では多かったのです。折角教えていただいても、高價な肥料代と、それにくっついている様々の危惧感から、すぐについていけない人も相當あったのが事實です。
              <『宮澤賢治研究 宮澤賢治全集別巻』(草野心平編、筑摩書房、昭和44)275p>
と述べているという。賢治の稲作指導法は金肥が購入できる中農以上の金銭的に余裕のある農家には合っていたかもしれないが、少なくとも自小作農以下の貧農にとってはふさわしものであったと言えない。賢治の稲作指導には初めから限界があったのだった。
 まして、例えば中農以上の場合であっても、「安全に八分目の収穫を望みますかそれともまたは/三十年に一度のやうな悪天候の来たときは/藁だけとるといふ覚悟で大やましをかけて見ますか」という山師みたいな農業は普通はできないということは、賢治のことをやっと客観的に見ることができるようになった今は、もちろん明らかだ。
 結局私の場合には、國分氏が「もしも、みなさんが、すこしでも、こんなことを知っていて、「グスコー・ブドリの伝記」だけでなく、その他の賢治の文学を読んだら、いままでよりも、すこしよけいに、彼の作品がわかるのではないかと思ったからです」と親切に教えてくれたので本来ならば「「それでは計算いたしましょう」「稲熱病」「地主」「倒れかかった稲の間で」などの詩も、よく味わうことができる」はずだったのだが、まずこの「それでは計算いたしましょう」については逆によく味わうことができなくなってしまったのだった。かつてはこの詩を読んでとても感動したのだがもうそれは薄い<*1>。せいぜい詩の出来具合に感心するだけだ。

 次に「稲熱病」だが、こんどは國分氏が言うとおりに「「稲熱病」「地主」「倒れかかった稲の間で」などの詩も、よく味わうことができる」となるだろうか。では、この詩の中身だがそれは、
         稲熱病

   稲熱に赤く敗られた稲に
   みんなめいめい影を落して
   ならんで畔に立ってゐると
   浅黄いろした野袴をはき
   蕈の根付を腰にはさむ
   七十近い人相もいゝ竹取翁、
   しかも西方ほの青い夏の火山列を越えて
   和風が絶えず嫋々と吹けば
   シャツの袖もすゞしく
   みんなの胸も閑雅であるが
   恐らく半透明な黄いろの胞子は
   億万無数東方かけて飛んでゐるので
   風下の百姓たちは
   はやくもため息をついて
   恨めしさうに翁をちらちら見てゐるのだ
   この田の主はふるえてゐる
   胸にまっ黒く毛の生えた区長が
   向ふの畔で
   厚い舌を出して唇をなめて
   何かどなりでもしさうなのだ
   そらでは幾きれ鯖ぐもが
   きらきらひかってながれるのだ
   これが烈々たる太陽の下でなくて
   顔のつらさもはっきり知れない月夜ならば
   百姓たちはお腹が空いたら召しあがれえといふ訳で
   翁は空を仰いで得ならぬ香気と
   天楽の影を慕ふであらうし
   拙者もいかに助かることであらう
         〈『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)445p~〉
というものである。
 ところがこの詩についても「よく味わうことができ」そうにもない不安に襲われる。それは、いかな勝れた稲作指導者賢治といえども、稲熱病に対しては殆ど為す術がなかったということが、まさに最後の「拙者もいかに助かることであらう」という一言から窺えたからだ。
 一般に、賢治は稲熱病の対策のために奔走したといわれているようだ。例えば、ある「賢治年譜」の昭和3年には、「七~八月、稲熱病や旱魃対策に奔走」というようにである。しかし、稲熱病は「高温多湿」の場合に猖獗するというので当時の気象を調べてみると、同年の「七~八月」は日照りが続き「多湿」であったという可能性は低いから、そうとも言い切れなさそうだ。あるいは、「窒素が効き過ぎて徒長になった場合などが稲熱病に罹りやすい」ということだから、もしかするとこの詩「稲熱病」に出てくる農民たちは賢治に肥料設計をしたもらったのだが、それが逆に災いしてこうなったと疑っていたかもしれないし、賢治だってそれを不安に思っていたかもしれない。
 とまれ、高温多湿の気象条件下で猖獗する稲熱病に対しては、賢治に気象を制御できる能力があろう筈もなく、殆ど為す術もなく無力感を感じていたのが実態だったのではなかろうか、ということが私はこの詩から読み取れる。だから、やはりこの詩の場合も私はよく味わうことができず、逆に虚しさを感じて気の毒に思ってしまう。

 では「地主」の場合こそ「よく味わうことができる」だろうか。まずその中身だが、それは、
       地主

   水もごろごろ鳴れば
   鳥が幾むれも幾むれも
   まばゆい東の雲やけむりにうかんで
   小松の野はらを過ぎるとき
   ひとは瑪瑙のやうに
   酒にうるんだ赤い眼をして
   がまのはむばきをはき
   古いスナイドルを斜めにしょって
   胸高く腕を組み
   怨霊のやうにひとりさまよふ
   この山ぎはの狭いで
   三町歩の田をもってゐるばかりに
   殿さまのやうにみんなにおもはれ
   じぶんでも首まで借金につかりながら
   やっぱりりんとした地主気取り
   うしろではみみづく森や
   六角山の下からつゞく
   一里四方の巨きな丘に
   まだ芽を出さない栗の木が
   褐色の梢をぎっしりそろへ
   その麓の
   月光いろの草地には
   立派なはんの一むれが
   東邦風にすくすくと立つ
   そんな桃いろの春のなかで
   ふかぶかとうなじを垂れて
   ひとはさびしく行き惑ふ
   一ぺん入った小作米は
   もう全くたべるものがないからと
   かはるがはるみんなに泣きつかれ
   秋までにはみんな借りられてしまふので
   そんならおれは男らしく
   じぶんの腕で食ってみせると
   古いスナイドルをかつぎだして
   首尾よく熊をとってくれば
   山の神様を殺したから
   ことしはお蔭で作も悪いと云はれる
   その苗代はいま朝ごとに緑金を増し
   畔では羊歯の芽もひらき
   すぎなも青く冴えれば
   あっちでもこっちでも
   つかれた腕をふりあげて
   三本鍬をぴかぴかさせ
   乾田を起してゐるときに
   もう熊をうてばいゝか
   何をうてばいゝかわからず
   うるんで赤いまなこして
   怨霊のやうにあるきまはる
         〈『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)206p~〉
というものである。
 しかし、この詩には「三町歩」の地主に対する賢治の冷ややかな視線が見え隠れしてしまって、私は「よく味わうことができ」そうにないことを察知してしまう。そしてそもそも、賢治の父政次郎は当時10町歩ほどの地主<*2>であり、賢治の「マキ」である宮澤一族はまして大地主ばかりだった。だからもしかすると、賢治の屈折した心理をして、たった「三町歩」の地主を見くださせたということはなかったのだろうか、とつい私は訝ったりもする。

 では最後の「倒れかかった稲の間で」についてだ。これにだけは少なくとも期待をしたい。ではその中身だが、それは、
       〔倒れかかった稲のあひだで〕

   倒れかかった稲のあひだで
   ある眼は白く忿ってゐたし
   ある眼はさびしく正視を避けた
     ……そして結局たづねるさきは
       地べたについたそのまっ黒な雲のなか……
   あゝむらさきのいなづまが
   みちの粘土をかすめれば
   一すじかすかなせゝらぎは
   わだちのあとをはしってゐる
   それもたちまち風が吹いて
   稲がいちめんまたしんしんとくらくなって
   あっちもこっちも
   ごろごろまはるからの水車だ
     ……幾重の松の林のはてで
       うづまく黒い雲のなか
       そこの小さな石に座って
       もう村村も町々も、
       衰へるだけ衰へつくし、
       うごくも云ふもできなくなる
       たゞそのことを考へやう……
   百万遍の石塚に
   巫戯化た柳が一本立つ
         〈『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)279p~〉
のことであろう。
 となれば、「ある眼は白く忿ってゐたし/ある眼はさびしく正視を避けた」という連に注意すれば、賢治が肥料設計した田圃の稲が倒れかかっており、その田圃も持ち主たちが賢治に対して「忿ってゐた」とか、苦々しく思っていて「正視を避けた」と賢治には見えた、とも解釈できる。だとすれば、それに対して賢治は無力感を強く持ったということになりそうで、残念ながらこの詩の場合も私はよく味わうことができない。

 というわけで、賢治作品の詩作のある頂点を示すとも言われている「稲作挿話」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」には虚構があり、しかも賢治自身はこれらの詩を封印した。一方、國分が推す残りの「それでは計算いたしましょう」「稲熱病」「地主」「倒れかかった稲の間で」については、私はよく味わうことができず、結局國分が推した7篇のいずれにも私はもはや殆ど感動を覚えない。
 逆にわかったことは、前者3篇の詩において虚構することは何ら問題がないとはいえ、賢治は虚構したことを恥じていた蓋然性が低くないこと、および、残りの4篇のうちの「稲熱病」「地主」「倒れかかった稲の間で」についてはもはや賢治の無力感等が伝わってくることから、どうやら当時の賢治はかなり鬱屈していたに違いないということ、だ。詩作のみならず、羅須地人協会の活動も、チェロの約3ヶ月間の猛勉強も、労農とへのシンパ活動も、そして肥料設計・稲作指導も何もかにもがだ、と鬱々としていたということはなかったのだろうか<*3>。
 そういえば、ある著名な賢治研究家が、
 「野の師父」はさらなる改稿を受けるにつれて、茫然とした空虚な表情へとうつろいを見せ、「和風は……」の下書稿はまだ七月の、台風襲来以前の段階で発想されており、最終形と同日付の「〔もはたらくな〕」は、ごらんの通り、失意の暗い怒りの詩である。これら、一見リアルな、生活体験に発想したと見られる詩篇もまた、単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟であることがわかる。
と鑑賞していたが、もしかすると賢治自身は、「野の師父」や「和風は河谷いっぱいに吹く」それ自体がもはや〝心象スケッチ〟でないということを自覚していたということはないのだろうか。あるいは、『春と修羅 第一集』所収のような〝心象スケッチ〟が「羅須地人協会時代」になるともうできなくなって悩んでいて、賢治は八方ふさがりで鬱屈していたということはなかったであろうか。

 とりわけ、かつては斬新で素晴らしい沢山の〝心象スケッチ〟ができた賢治の詩囊だったが、「羅須地人協会時代」になると次第にそれが痩せてきたと認識せざるを得ないということが当時の賢治の最大の不安であったのではなかろうかと、私はそんなあらぬ妄想に襲われるのだった。

<*1:註> これが例えば、石川理紀之助松田甚次郎の場合の稲作指導のように長期にわたって徹底的かつ持続的に実践されたのであれば、また違った鑑賞が出来ると私は思うのだが、賢治のこのような肥料設計の活動はそのようなものでなかった。
<*2:註> 当時賢治の実家では10町歩ほどの小作地があったという。それは大正4年の「岩手紳士録」に
   宮沢政次郎 田五町七反、畑四町四反、山林原野十町
   <『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)272p>
とあるからである。
<*3:註> このことは、賢治が昭和5年3月10日付で伊藤忠一にあてた宛書簡(258)で、
根子ではいろいろとお世話になりました。
たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
               <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
と詫び、「羅須地人協会時代」をほぼ全否定していることからも傍証される。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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