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第一章 「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い (テキスト形式)前編

2024-03-19 12:00:00 | 賢治渉猟
第一章 「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い
 生前全国的にはほぼ無名だった宮澤賢治及びその作品を初めて全国規模で世に知らしめたのは誰か。それは、今では殆ど忘れ去られてしまっているが、山形県最上郡稲舟村鳥越の松田甚次郎という青年だった。

 賢治が甚次郎に贈った『春と修羅』再発見
 ある時、拙ブログ『宮澤賢治の里より』に石川博久という方から、
 松田甚次郎の署名のある春と修羅に草刈という「詩」が書かれております。甚次郎と賢治の関係を知りたくて、検索してこのページにたどり着きましたのでご連絡いたしました。
というコメントをいただいた。そこで同氏のホームページを拝見したところ、そこには「昭和六年二月 松田甚次郎」と墨書(<注一>)された同氏所有の『春と修羅』の「見返し」の写真が載っていた。併せて、同書の外箱(表表紙の写真参照)に次のような詩、
      草刈
   寝いのに刈れと云ふのか
   冷いのに刈れと云ふのか
が手書きされている写真も掲載されていた。
 実は、甚次郎が賢治から『春と修羅』を贈られたということは既に甚次郎自身が公に(<注二>)していたことだから、おそらくこの『春と修羅』はまさにその本そのものであろうと直ぐ推断できたし、この手書きはもちろんほぼ甚次郎自身によるものだと言えるだろう。しかも、その『春と修羅』の外箱に「草刈」の詩が手書きされていたということはまだ公には知られていなかったことなので、この新事実から、「草刈」の詩は賢治が詠んだ詩であるという蓋然性がさらに一層高まったと言える。
 なぜならば、甚次郎は大ベストセラーになった『𡈽に叫ぶ』の中で既に、
 先生の詩 故宮澤先生を偲ぶ情にたへず、二つの詩を記すことにする。
    農夫の朝(草刈)
  冷いのに刈れと言ふのか
  眠いのに刈れと言ふのか
    雲の信號
  あゝいゝなせいせいするな
  風が吹くし
  農具はぴかぴか光つてゐる
     …(筆者略)…
  山はぼんやり
  きつと四本杉には
  今夜は雁もおりて來る
<『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店、昭13)6p~>
と述べているからだ。さらに佐藤隆房は「賢治さんとその弟子」の中で、この「弟子」とは甚次郎のことだが、彼が「下根子桜」の賢治の許を訪れた際のこととして、
 數々朗讀された詩の中で、
   草 刈
  つめたいといふのに刈れといふのか
  ねむいといふのに刈れといふのか
は、その表現されてゐるすさまじい努力のいきづかひが、農人たらむと志す松田君の心をゆりうごかし、
<『農民藝術8』(村井勉編輯、農民藝術社、昭24)26P >
と述べているからでもある。
 つまり、これら二つ著書からは、賢治は甚次郎の目の前で「草刈」という自分の詩を朗読したという蓋然性の高いことがまず導かれる。そしてこの度、件の『春と修羅』の外箱にこれらの詩とよく似た詩が手書きされていたということが新たにわかったことにより、この三つの詩の中身は微妙に違ってはいるもののその内容はほぼ同じで、題も皆同じ「草刈」だから、
 松田甚次郎が賢治の許を訪れた際に、賢治は「草刈」という題の「眠いのに刈れと云ふのか/冷いのに刈れと云ふのか」というような内容の自作の詩を詠じた。
という蓋然性がさらに一層高まったと言える。したがって、再発見されたとも言えるこの石川氏所有の『春と修羅』はとりわけ貴重なものであり価値がある。
 ちなみにこの件に関しては、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・伝記資料篇』(筑摩書房)の24頁に、
間接的に伝えられた詩
 賢治について回想した文章においてのみ伝えられる賢治の詩及び題名を次に掲げる。これらの草稿は現存せず、また生前に 発表されていないものである。
一、「農夫の朝(草刈)」
    農夫の朝(草刈)
  冷いのに刈れと言ふのか
  眠いのに刈れと言ふのか
〔松田甚次郎『𡈽に叫ぶ』(普及版)昭和十四年九月十五日刊、羽田書店、六頁〕
とあるだけだから、石川博久氏所蔵の『春と修羅』の、つまり賢治が甚次郎に贈ったであろう『春と修羅』の外箱に、
       草刈
    寝いのに刈れと云ふのか
    冷いのに刈れと云ふのか
と書かれていることを現時点では筑摩書房はおそらく知らない。
 なお、本来であれば、本の外箱に書かれている「寝いのに」の部分の正しい漢字の使い方は「眠いのに」であるから、甚次郎はこの詩を字で書かれた状態(草稿など)で賢治から見せられたわけではなく、耳で聞いたものを覚えていてそれをこの本の外箱に書き記したと言えそうだ。そして、それは「冷たいのに」が「つめたいといふのに」であったり、「つめたい」と「ねむい」の順番が逆であったりしていることからも窺える。
 だから私は、賢治は甚次郎を前にして「草刈」というタイトルの即興詩を詠んだ蓋然性が高いと推測している。それも、甚次郎は賢治の許を昭和2年の3月8日と同年8月8日の2回だけ訪れているから、草刈の時期を考えれば、8月に訪れた時のことであったであろうということが推測できる。

〈注一:本文3p〉この筆跡は甚次郎が墨書した「水五則」等の筆跡と似ているから、これは甚次郎自身の署名とほぼ判断できる。
〈注二:本文3p〉松田甚次郎は「宮澤先生と私」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)所収)において次のように述べてある。
 其後昭和六年に、春と修羅を御手紙と共に送つていただいたのが最後の御手紙でそのときはもう病牀に起き臥し中であつて盛んに石灰岩の事などを御述べになられて、殘念だ身體が弱くて殘念だとつぶやいて居られたのである。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)426p>
 したがって、賢治が甚次郎に贈ったと推断できる『春と修羅』の今回の再発見によってこの甚次郎の記述が裏付けられたと共に、その贈られた時期が昭和6年の2月であるということもこれでほぼ確定したと言える。

 賢治の最も短い詩「草刈」?
 さてこれで、限りなく賢治が詠んだのであろうと思われる「草刈」という題の詩は、
  寝いのに刈れと云ふのか
  冷いのに刈れと云ふのか

  冷いのに刈れと言ふのか
  眠いのに刈れと言ふのか
あるいは
  つめたいというのに刈れというのか
  ねむいというのに刈れというのか
のいずれかであろうということがほぼわかった。
 そこで次に、私は山形の『新庄ふるさと歴史センター』を訪ねて行った。というのは、甚次郎が賢治から贈られたと思われる『春と修羅』には、
    昭和六年二月 松田甚次郎 
と墨書されているし、かつて私は甚次郎の大正15年や昭和2年の日記を同センターで見せてもらったことがあるので、今度は昭和6年のそれを見せてもらえばこれらの三つの中のいずれが賢治が詠んだ詩であるかがもう少し明らかになると思ったからだ。がしかし、残念ながら昭和6年のものは所蔵されていなかった。
 とはいえ、これらのいずれかかあるいはこれと酷似した内容の詩「草刈」を賢治が詠んだという蓋然性は極めて高いことに変わりはないから、もしこのことが事実であるとするならば、賢治が詠んだ詩の中で最も短い詩と今までいわれてきたものよりも、この「草刈」はさらに短い詩であるということになりそうだ。
 なぜならば、栗原敦氏の論考「最も短い詩、その次の長さの詩…」の中に、賢治が詠んだ詩の中で最も短い詩は、
  報告
さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張つて居ります
              (一九二二、六、一五)
  イーハトーブの氷霧
けさじつにはじめて凜々しい氷霧だつたから
みんなはまるめろやなにかまで出して歓迎した
             (一九二三、一一、二二)
<『NHKシリーズ宮沢賢治』(栗原敦著、NHK出版)17p >
の二作品であると述べられているが、前掲の「草刈」のいずれにしてもこれらよりもさらに短いからだ。
 なお、当初私は、「草刈」の詩が上掲のいずれであったにせよその中身はあまり賢治らしくない詩だと思っていたので違和感があったのだが、栗原氏の掲げたこれらの二つの詩に対して同氏が「投げ出されたままのような作品」と前掲書で評していることを知って、「草刈」もまさにこれらの二作品と実によく似た「投げ出されたままのような作品」なので、この「草刈」が賢治の詩であるとしてもそれ程の違和感がなくなった。したがって私はますます、
 松田甚次郎が賢治の許を訪れた際に、賢治は「草刈」という題の「眠いのに刈れと云ふのか/冷たいのに刈れと云ふのか」というような内容の詩を詠じた。しかもその詩は賢治が詠んだ詩の中で最も短い作品である。
という蓋然性が極めて高いと思えるようになったし、この「最も短い詩」という観点からいっても、限りなく賢治が詠んだであろうと推断できるこの詩「草刈」は興味深いものである。

 賢治の「訓へ」(小作人たれ/農村劇をやれ)
 ところで、山形の松田甚次郎がなぜわざわざ岩手の賢治の許を訪れたのか。その経緯は、それこそ甚次郎が著して当時大ベストセラーとなった『𡈽に叫ぶ』の巻頭「一 恩師宮澤賢治先生」によってある程度知ることができる。ちなみに同書は次のようにして始まっていて、
     一 恩師宮澤賢治先生
 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸鄕する喜びにひたつてゐる頃、…(筆者略)…その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
<『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店、昭和13)1p >
と述べられているから、当時甚次郎は盛岡高等農林学校の学生であり、賢治の後輩であったことが関係していたためだと言えそうだ。
 さらに、甚次郎は追想「宮澤先生と私」において、
 盛岡高等農林學校在學中、農村に關する書籍は隨分と讀破したのであるが、仲々合點が行かなかつた。が、或日岩手日報で先生の羅須地人協會の事が出て居つたのを讀む(ママ)で訪れることになつたのである。花巻町を離れたある松林の二階建ての御宅、門をたゝいたら直に先生は見えられて親しい弟子を迎ふる樣な實になつかしい面持ちで早速二階に通された。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14)424P >
とも述べているので、「或日岩手日報で先生の羅須地人協會」の記事を見たことがその「下根子桜」訪問の直接の切っ掛けであったと言えるだろう。
 さてそれではその新聞記事が具体的にはどのようなものであったかだが、それは松田甚次郎の日記を見ればわかる。というのは、甚次郎は当時日記を付けていて、しかもその日記には出納帳もついているので、甚次郎が「下根子桜」の賢治の許を訪ねた日は
   初めて訪れたのが昭和2年3月8日

   2度目にして最後に訪れた昭和2年8月8日
の2回であり、その2回しかないことがわかる(<注三>)。
 よって、甚次郎が見たであろう「羅須地人協會」の記事とは、昭和2年2月1日付『岩手日報』の次の記事、
 農村文化の創造に努む
    花巻の靑年有志が 地人協會を組織し
                自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の靑年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一囘の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協會員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三囘づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協會の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる(写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農學校で教鞭を取つてゐた人)
であったとほぼ判断できる。
 なおこの他にもう一つだけ、大正15年4月1日付同紙の「新しい農村の 建設に努力する 花巻農学校を 辞した宮澤先生」という見出しの記事も考えられないわけでもないが、それではあまりにも時期がかけ離れているし、こちらの場合には「羅須地人協會」という固有名詞も使われていないので、まずはあり得ないだろう。
 そこでこの記事のポイントを箇条書きにしてみれば、
(1) 羅須地人協会を創設し農村文化の創造に努力する
(2) 現代の悪弊都會文化に對抗し農民の一大復興運動を起こす
(3) 田園生活の愉快を一層味わうために原始人の自然生活たち返る
(4) 収穫物を持ち寄り物々交換する制度導入
(5) 農民劇農民音楽を創設して家族団らんの生活を図る
ということになるから、甚次郎はこれらのことに感ずるところがあって「下根子桜」に賢治を訪ねたと言えるだろう。
 さて話はまた甚次郎の『𡈽に叫ぶ』に戻る。同書には、甚次郎が昭和2年3月の「下根子桜」訪問の際に、
 赤石村を慰問した日のお別れ夕食に握飯をほゝ張りながら、野菜スープを戴き、いゝレコードを聽き、和やかな氣分になつた時、先生は嚴かに教訓して下さつた。この訓へこそ、私には終世の信條として、一日も忘れる事の出來ぬ言葉である。先生は「君達はどんな心構へで歸鄕し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「學校で學んだ學術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を學校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ──
  一、小作人たれ
  二、農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。語をついで、「日本の農村の骨子は地主でも無く、役場、農會でもない。實に小農、小作人であつて將來ともこの形態は變らない。…(筆者略)…君達だつて、地主の息子然として學校で習得した事を、なかば遊び乍ら實行して他の範とする等は、もつての他の事だ。眞人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として眞に生くるには、先づ眞の小作人たることだ。小作人となって粗衣粗食、過勞と更に加はる社會的經濟的壓迫を體驗することが出來たら、必ず人間の真面目が顯現される。默つて十年間、誰が何と言はうと、實行し續けてくれ。そして十年後に、宮澤が言つた事が眞理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、實行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。私共は先覺の師、宮澤先生をただただ信じ切つた。
<『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)2p >
と、「終世の信條として、一日も忘れる事の出來ぬ」「訓へ」があったということをそこで述べている。
 ということは、前掲の〝(1)~(5)〟がこの「小作人たれ/農村劇をやれ」に集約されていると甚次郎は受け止め、いたく感動して、この「訓へ」のとおりに生きて行こうとこの時即座に決意したのだろう。
 しかし一方で、甚次郎のこの記述が事実であったならば、賢治の甚次郎に対する教訓の仕方は私には正直意外である。「そんなことでは私の同志ではない」という言い方などから窺える賢治の強い口調、妥協を許さない姿勢は私が抱いていた賢治のイメージからはかけ離れていると感ずるからである。しかも、「黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。……今はこの宮澤を信じて、実行してくれ」というようなだめ押しまでを賢治が言うなどということはゆめゆめ思っていなかったからだ。だからもしかすると、賢治の発言に対して甚次郎は多少自分の想いを織り込みすぎた記述をしているという可能性も否定しきれない。がしかし、少なくとも甚次郎がこのように受け止めたという事実は動かせない。
 さらに賢治は続けて「農村劇をやれ」ということに関しては、次のように諭したと『𡈽に叫ぶ』は伝えている。
 次に農民芝居をやれといふことだ。これは單に農村に娯樂を與へよ、といふ樣な小さなことではないのだ。我等人間として美を求め美を好む以上、そこに必ず藝術生活が生れる。殊に農業者は天然の現象にその絶大なる藝術を感得し、更らに自らの農耕に、生活行事に、藝術を實現しつゝあるのだ。たゞそれを本當に感激せず、これを纏めずに散じてゐる。これを磨きこれを生かすことが大事なのである。若しこれが美事に成果した暁には、農村も農家もどんなにか樂しい、美しい日々を送り得ることであらうか──と想ふ。…(筆者略)…
 そしてこれをやるには、何も金を使はずとも出來る。山の側に土舞臺でも作り、脚本は村の生活をそのまゝすればよい。唯、常に教化といふことゝ、熱烈さと、純情さと、美を沒却してはいけない。あく迄も藝術の大業であることを忘れてはならいない」と懇々教えられた上、小山内氏の『演劇と脚本』といふ本をくださつた。そしてこれをよく硏究して、靑年達を一團としてやる樣にと、事こまごまとさとされた。つい時の過るのを忘れ、恩師の溫情と眞心溢るゝ教訓に、首を垂れたものであつた。
<『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)4p >
 それにしても、自分は小作人になっているわけでもない賢治が「小作人たれ」とまず諭し、続けて「農村劇をやれ」と一回り以上も年が若い甚次郎に対してたたみかけ、結果的には他人の人生を決定づけるようなことを言い切ったということは私にとっては予想外であった。一方で、賢治に初めて見えて直ぐさま彼に尊敬の念を抱き始めたのであろう甚次郎とすれば、「そんなことでは私の同志ではない」と外堀を埋められてしまえばその選択肢は他にはなかったのではなかろうかということさえも私などは想像してしまうのだが、おそらくそうではなくて、賢治からのこの時の「訓へ」は熱と気迫のこもったものだったので甚次郎は圧倒されると共にとても感動し、たちまち賢治に心酔するようになっていったに違いない。
 そして実際、この「訓へ」どおりに甚次郎は故郷山形の稲舟村鳥越に戻って本当に小作人になり、農村劇を毎年のように上演しながら農村改革に我が身を捧げ、遂には昭和18年8月4日、賢治より若い享年35歳で志し半ばで斃れてしまうのである。

〈注三:本文7p〉佐藤隆房は、『宮澤賢治』(冨山書房)において、
     八二 師とその弟子
 大正十五年(昭和元年)十二月二十五日、旧冬の東北は天も地も凍結れ、路はいてつき、弱い陽が木立に梳られて落ち、路上の粉雪が小さい玉となって静かな風にゆり動かされています。
 花巻郊外のこの冬の田舎道を、制服制帽に黒のマントを着た高農の生徒が辿って行きます。生徒の名は松田君、岩手日報紙上で「宮沢賢治氏が羅須地人協会を開設し、農村の指導にあたる。」という記事を見て、将来よき指導者として仰ぎ得る人のように思われたので、訪ねて行くところです。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山書房、昭和26年)197p >
と述べていて、大正15年12月25日にも甚次郎が「下根子桜」の賢治の許を訪れたことにしているが、少なくとも甚次郎自身の日記及び出納帳を見る限りそれは事実とは言えず、訪ねてはいないだろう。
 ちなみに、甚次郎の当日の日記は下記のとおりである。
1926年 12月25日(土)戌子 クリスマス
  9.50 for 日詰 下車 役場行
  赤石村長ト面会訪問 被害状況
  及策枝国庫、縣等ヲ終ッテ
  国道ヲ沿ヒテ南日詰行 小供ニ煎餅ノ
  分配、二戸訪問慰聞 12.17
  for moriork ? ヒテ宿ヘ
  後中央入浴 図書館行 施肥 noot
  at room play 7.5 sleep
  赤石村行ノ訪問ニ戸?戸のソノ実談の
  聞キ難キ想惨メナルモノデアリマシタ.
 人情トシテ又一農民トシテ吾々ノ進ミ
  タルモノナリ決シテ?ノタメナラザル?
 明ナルベシ 12.17 の二乗ラントテ
  余リニ走リタルノ結果足ノ環節がイタクテ
  困ツタモノデシタ
  快晴  赤石村行 大行天皇崩御
<大正十五年の『松田甚次郎日記』>
 したがってこの日記に従うならば、甚次郎はこの日は花巻の賢治の許にではなくて、大旱魃罹災によって飢饉寸前のような惨状にあった赤石村を慰問していたことになる。盛岡に帰る際に12:17分の汽車に間に合うようにと走りに走ったので足が痛いというようなことも記している。したがって慰問後は直盛岡へ帰ったことになり、赤石村慰問後の午後に花巻へ足を延ばしてはるわけでもない。このことは、同日記所収の「出納帳」によって、この日購入した切符は日詰までのものであって、花巻までのものではなかったことからもそれが確認できる。

 賢治の「訓へ」の矛盾
 しかしここで冷静に振り返ってみると、急に不安に襲われ始める。常識的に考えれば賢治のこの「訓へ」はおかしいことにすぐ気付かざるを得ないからだ。
 なぜなら、これほどまでに賢治が他人に対して「小作人たれ/農村劇をやれ」と強く迫るのであれば、当然それは素晴らしいことであると賢治は確信していたことであろうから、
「小作人たれ/農村劇をやれ」という「訓へ」は賢治の信念であり、いわば「賢治精神」とも、その方法論とも言える。
ことになるばずで、賢治も甚次郎と同じような立場と環境にあったのだからまず隗より始めよということで、当然、賢治自身が小作人となり、農村劇をやるということに普通はなると思うのだが、賢治はそうならなかったし、やらなかったということが知られているからである。
 したがって、客観的には、賢治の甚次郎に対する「訓へ」は無責任なものであるという誹りを免れられないものとなる。言い換えれば、甚次郎は「賢治精神」を実践したが、肝心の賢治自身がそれを実践しなかったし、する気がなかったという非難を受けることにはならないだろうかという危惧が私にはある。
 そこでその辺りをもう少し具体的に見てみたい。まずは、甚次郎の生家についてだが、『「賢治精神」の実践―松田甚次郎の共働村塾―』(安藤玉治著、農文協)によれば、「新庄鳥越一二〇戸集落で一番の大地主」であり、甚次郎はその惣領息子であったということだから、本来ならば小作人になることはまずあり得ない。ところが、賢治の「訓へ」に従って、甚次郎は父に懇願して水利の劣悪な六反歩の田圃を借り受けて小作人になったのだという。
 一方の賢治だが、賢治も惣領息子であり、賢治の生家も当時10町歩ほどの小作地があったと云われている。例えば、飛田三郎は「肥料設計と羅須地人協會(聞書)」の中で、
 「あそご(宮澤家)の土地を小作(しつけ)でら人も多がったしさ……。」
 これが眞因のようです。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭44)281p>
と述べているし、川原仁左エ門は、大正4年の「岩手紳士録」に
   宮沢政次郎 田五町七反、畑四町四反、山林原野十町
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)272p>
と載っているとことを紹介していることから、賢治の母イチの実家「宮善(<注四>)」ほどではないにしても、賢治の生家も当時少なくとも10町歩ほどの地主であり、田圃を小作させていたことに間違いはなかろう。
 ということであれば、賢治と甚次郎は共に地主の家の長男であり、二人の立場と環境はやはりほぼ同じであったと言える。しかし現実は、その一方の賢治が、甚次郎に「小作人たれ/農村劇をやれ」と強く「訓へ」たのに、その「訓へ」た賢治自身はそうはならなかったし、しなかった。なぜならば賢治が「小作人」にならなかったことは周知のとおりだし、「農村劇(農民劇)」についても、昭和2年2月1日付『岩手日報』の記事によれば、賢治は「目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐる」と記者に答えてはいるものの、その後にこの上演をしたことはないということもまた周知のことである(一方の甚次郎の方は、昭和2年の農村劇「水涸れ」を初回として、その後毎年のように上演し続けていった)からだ。
 つまり、賢治は甚次郎に対しては「小作人たれ/農村劇をやれ」と強く「訓へ」たのだが、甚次郎とほぼ同じような環境と立場にありなが賢治自身はそうはならなかったし、しなかったということになる。したがって、やはり賢治のこの「訓へ」は無責任で身勝手なものだと批判されたとしてもやむを得ないだろう。だから当然、賢治のこの「訓へ」は当初から決定的な矛盾を孕んだいたことなる。となれば、あの賢治のことだから後々この時の甚次郎に対する「訓へ」を恥じ、慚愧に堪えなくなるということがもちろん予想される。

〈注四:本文11p〉森嘉兵衛の論文「明治百年序説」の中の〝岩手県大地主調査表(昭和12年)〟から拾ってみれば花巻関係の大地主のリストは以下のとおりである。
◇50町歩以上花巻関係者7名(岩手県54人中)
花巻 瀬川弥右衛門(金融業)
        田 107.0 畑27.5 計134.5 小作人158人
花巻 梅津健吉(金融業)
            75.7   18.9   94.6    115
花巻 宮沢直治(商 業)
            62.9   23.7   86.6    102
花巻 佐藤秀六郎(商業)
            49.1   26.4   75.5    92
花巻 松田忠太郎(商業)
          52.9   9.6   62.5    60
湯口 宮沢善治(旅館業)
          46.9   13.2   60.1   100
花巻 宮沢商店(商 業)
          24.6   26.8   51.4    57
(筆者注:田畑の単位は町歩である)
<『岩手史学研究NO.50』(岩手史学会)16p~>
なんと、昭和12年当時、宮沢直治の小作人は102名、宮沢善治同100名、宮沢商店同57名にも及ぶ。いわゆる「宮澤マキ」は計134町歩の田圃、畑も加えれば計198町歩もの小作地を有していたことになるし、小作人の総数は259名にも及ぶ。

 「賢治精神」を実践しようと努力し続けた甚次郎
 さて賢治から「小作人たれ/農村劇をやれ」と「訓へ」を受けた甚次郎は、昭和2年3月に盛岡高等農林学校を卒業し、故郷に帰ってその「訓へ」どおりに小作人となり、農村劇を上演し続けたという。いわば「賢治精神」を甚次郎は実践しようと心に決め、その実践をし続けたとも言える。具体的には、前掲の『「賢治精神」の実践―松田甚次郎の共働村塾―』や松田甚次郎の『𡈽に叫ぶ』(羽田書店)によれば、前述したことと一部重複するが、おおよそ以下のとおりである。
 実は、甚次郎の生家は稲舟村(現新庄市)鳥越一二〇戸集落の中で一番の大地主であった。しかも甚次郎はその惣領息子であったから、本来ならば小作人になるなどということはまずあり得ない立場にあった。しかし、息子甚次郎の強い願いを入れて父甚五郎は水利が劣悪な六反歩の田圃を小作貸借契約し、甚次郎は自宅から数百メートル離れた場所に三坪の小さい小屋を建て、羊を飼う生活から小作人生活に入った。
 そしてその後、甚次郎が取り組んだ主なものを箇条書きにしてみると次のようになる。
・自給肥料を増産し金肥を全廃
土を肥やし、自給自足の小作生活を送るための必然でもあり、下肥のみならず川ごみや鋸屑などの廃物も集めて作った堆肥を使った。(賢治の稲作指導は金肥に対応して作られた陸羽132号による増収であったが、甚次郎の場合は金肥を全廃した自給肥料によるそれであった。これは昨今の持続可能な稲作にも通ずるところがあると筆者の私は思っている。「賢治精神」には沿っているが方法論はそのまま賢治の真似をしているわけではなくて、甚次郎の場合には小作人の実態に即して工夫していて現実的であった、とも言えよう)。
・村をあげての麹・醤油・味噌・澱粉作り
 日々の農家生活で現金支出を最も多く要したのが調味料であり、それを自給するために麹室や醤油タンクを作ったりして、村をあげて麹・醤油・味噌・澱粉を自分達で作った。
・ホームスパン作り
 折角羊を飼育して剪毛までしているのだからということで、被服の自給を図るために甚次郎は古自転車を利用して「松田式紡毛機」を造り、ホームスパンの織物も作った。
・「鳥越倶楽部」の発足
 賢治から「訓へ」られたもう一つ、「農村劇」をやるために創設した会であり、当初は「休日に色々話し合ったり、そこいらを見物したりする、楽しい会を作ろうではないかと」同級生たちなどに話しかけて昭和2年4月25日に十数名で立ち上げたという(甚次郎はこの年の3月に賢治に初めて会い、その年度末に盛岡高等農林学校を卒業して鳥越に帰郷したのだから、甚次郎の実践は着々と進められていったことがこれで了解できる)。
・農村劇「水涸れ」の初公演
 次に、甚次郎はこの倶楽部の皆に「お盆か村祭りの時、芝居をやってみないか」と提案し、「水掛の労苦」をテーマにした農村劇の脚本を書き、昭和3年8月8日に再び「下根子桜」に賢治を訪れ、野外演劇のノウハウを教わり、劇の題名も「水涸れ」と命名してもらった。
 そして、同年9月10日村社の八幡神社の境内に土舞台を作って上演した。
・農村劇による農村文化運動
 そしてその後も甚次郎は農村劇を上演し続け(<注五>)、農村文化の向上のために活動に尽力した。
・「鳥越隣保館(農繁期託児所)」の建設
 前述したような活動が認められて、昭和8年に「有栖川宮記念更正資金」を受領。それを機に、鳥越に会館建設を企て、同年10月に落成。「鳥越隣保館」と命名し、そこで農繁期の託児を始めた。
・農村婦人愛護運動
 甚次郎は昭和6年住井すゑと会って農村婦人問題に関心を持ち始め、住井も同7年に鳥越を訪れて「新しき農村婦人」という題の講演をしているし、奥むめおも同様鳥越で講演をしてるという。さらには、住井の紹介で増子あさが鳥越にやって来て「産婆先生」と皆に慕われながら、農村婦人愛護運動に献身した。
・「最上共働村塾」設立
 昭和7年8月14日、2週間の予定で「誰が先生で、誰が生徒ということもなしに自治共働でやるのだ」という村塾を開始。そして、この塾の名を「最上共働村塾」と命名、その後は毎年期間が11ヶ月間の村塾が続けられていった。
これらのこと以外にも甚次郎の実践は目覚ましいものがあったと伝えられているがそれは割愛する。ここまで掲げた事項の具体的な内容からして、甚次郎が賢治の「訓へ」(小作人たれ/農村劇をやれ)を実践し続けたことはもはや確かなことであったと判断できたからだ。まさに、
   松田甚次郎は「賢治精神」を実践し続けた。
と言えるようだ。ただし、甚次郎のこれらの実践やこれら以外の彼の実践が皆「賢治精神」に沿ったそれであったかというと議論の余地がありそうだから、もっと正確に言えば、
 少なくとも、松田甚次郎は「賢治精神」を実践しようと努力し続けた。
となるのかもしれないが。
 さりながら、「賢治精神」といえばそれこそ「農民芸術概論綱要」で高らかに謳い上げたことと言い換えていいのであろうが、残念ながらそこには方法論がほぼ提示されていないようだし、その実践も賢治の場合にはあまり見られず長続きもしなかったので、甚次郎の継続的で徹底した実践ぶりに(もちろんその実践に問題点がないわけではないが)素直に頭が下がる。
 そして、甚次郎はこれらの実践をまとめて昭和13年に本を出版した。それが他ならぬ『𡈽に叫ぶ』であり、これが一躍大ベストセラーになったというわけである。するとおのずから、このベストセラーの読者の多くは、巻頭に揚げている「恩師宮澤賢治先生」とは一体どんな人物なのだろうかと興味と関心を抱いたはずだ。しかも、甚次郎は昭和14年に今度は『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、羽田書店)を出版し、これまたベストセラーとなって増刷が繰り返されたので、賢治とその作品がこれを機に全国の多くの人々に知られるようになっていったのは当然の帰結であった。
 とりわけ、この『宮澤賢治名作選』を手にしたことが切っ掛けで、賢治研究家になった高名な作家も少なくないはずだ。例えば、吉本隆明とか西田良子氏などのように。よって、賢治の受容などを始めとして、甚次郎の果たした役割と貢献度は計り知れないものがあると私は確信しているのだが、どうしてだろうか、現状は「今では殆ど忘れ去られてしまった松田甚次郎」になってしまっている。そう簡単に井戸を掘った人の恩を忘れてしまってよいものなのだろうか。
 
〈注五:本文13p〉「松田甚次郎の行った農村劇公演等のリスト」
昭和2年9月10日 │農村劇「水涸れ」
昭和4年 │農村劇「酒造り」
昭和5年9月15日 │農村劇(移民劇)
昭和6年9月 │農村劇「壁が崩れた」
昭和7年2月 │農村劇「国境の夜」
昭和8年2月 │農村劇「佐倉宗吾」
昭和9年 │農村喜劇「結婚後の一日」
昭和10年12月 │「ベニスの商人」
  〃  暮 │選挙粛正劇「ある村の出来事」
昭和11年4月 │農村劇「故郷の人々」「乃木将軍と渡守」
昭和12年1月10日│「農村劇と映画の夕」公開
   (実家の都合により塾一時閉鎖)
昭和13年 │農村劇「永遠の師父」
昭和14年8月15日│農村劇「双子星」
昭和17年2月 │農村劇「勇士愛」
昭和18年3月21日│「種山ヶ原」「一握の種子」
(昭和18年8月4日│松田甚次郎逝去(享年35歳))
     <『𡈽に叫ぶ』及び『宮澤賢治精神の実践』(安藤玉治著、農文協)の年譜より抜粋)>

 大正十五年の未曾有の旱害と多くの救援
 さて、これで甚次郎の実践、とりわけ賢治の「訓へ」(小作人たれ/農村劇をやれ)に従ったそれについては徹底していたし、継続的に続けられていたことがわかったのだが、不安が増してくるのは賢治の方の実践である。管見故か、甚次郎の実践のような賢治のそれを思い付かないからだ。
 そこで、どうやら私は今まで賢治のことを良心的に見過ぎていたのかもしれないということが頭の隅をよぎり始め、そんなことに思い悩んでいた頃、『𡈽に叫ぶ』の巻頭、
      一 恩師宮澤賢治先生
 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸鄕する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々會ふ子供に與へていつた。その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
<『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)1p >
を読み直して、「旱魃に苦悶する赤石村のこと…道々會ふ子供に與へていつた」に目が留まった。そこからは、大正15年の赤石村では旱害が甚大だったということなどがおのずから導かれるからだ。
 そこで『新校本年譜』を見てみると、昭和2年について、
三月八日(火) 盛岡高農農学別科の学生松田甚次郎の訪問をうける。…(筆者略)…
「松田甚次郎日記」は次の如く記されている。
「忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ Reading
9. for mr 須田 花巻町
11.5,0 桜の宮沢賢治氏面会
1. 戯、其他農村芸術ニツキ、
2. 生活 其他 処世上
[?]pple
2.30. for morioka 運送店
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)>
となっていて、この日が甚次郎が初めて「下根子桜」を訪れた日であるということははっきりしているのだが何か変だぞと直感した。そうだ、そこには甚次郎が赤石村を慰問したとは記されていない!
 幸いその後、何度か甚次郎の故郷新庄を訪れることができて私は甚次郎の日記を直接見ることが叶って、大正15年の彼の日記を見たならばその12月25日(10p参照)には次のようなことなどが書かれていた。
9.50 for 日詰 下車 役場行
赤石村長ト面会訪問 被害状況
及策枝(?)国庫、縣等ヲ終ッテ
國道ヲ沿ヒテ南日詰行 小(ママ)供ニ煎餅ノ
分配、二戸訪問慰問 12.17
for moriork ? ヒテ宿ヘ
後中央入浴 図書館行 施肥 noot
at room play 7.5 sleep
<大正十五年の『松田甚次郎日記』>
 よってこの日記に従うならば、旱害によって苦悶していた赤石村を甚次郎が慰問していたのは実は大正15年12月25日であったということになろう(おそらく甚次郎は、この日は大正天皇が崩御した日だったからそれを憚って巻頭にはあのように書いたに違いない)。
 さて、これで一応疑問は解けたのだが新たな疑問が生じてきた。甚次郎が「小(ママ)供ニ煎餅」を配りながらこの村を見舞ったというくらいだから、この時の赤石村の旱害は甚大であり、かつその惨状は広く知られていたということになるだろうから、「下根子桜」に移り住んだ賢治は「貧しい農民たちのために献身的に活動しようとしていた」と思っていた私からすれば、まさにそのような活動を賢治が展開するにふさわしい絶好の機会だったはずだがそれが為されてはいなかったのではなかろうか、という疑問がである。
 そこでまずは、当時の赤石村の旱害等に関する『岩手日報』の関連記事を調べてみた。すると例えば、以下のような報道等がなされていた。
◇大正15年12月7日
 村の子供達にやつて下さい 紫波の旱害罹災地へ人情味豐かな贈物
(日詰)五日仙臺市東三番丁中村産婆學校生徒佐久間ハツ(十九)さんから紫波郡赤石村長下河原菊治氏宛一封の手紙を添へ小包郵便が届いた文面に依ると
 日照りのため村の子供さんたちが大へんおこまりなさうですがこれは私の苦學してゐる内僅かの金で買つたものですどうぞ可愛想なお子さんたちにわけてやつて下さい
と細々と認めてあつた下河原氏は早速小包を開くと一貫五百目もある新しい食ぱんだつたので晝飯持たぬ子供等に分配してやつた
 この記事から推測されることは、赤石村を含む紫波地方の旱害の惨状は岩手県内だけでなく、宮城県は仙台にまでも知れ渡っていたであろうことである。
◇同年12月15日
 赤石村民に同情集まる
     東京の小學生からやさしい寄附
(日詰)本年未曾有の旱害に遭遇した紫波赤石地方の農民は日を經るに隨ひ生活のどん底におちいつてゐるがその後各地方からぞくぞく同情あつまり世の情に罹災者はいづれも感泣してゐる數日前東京淺草区森下町濟美小學校高等二年生高井政五郎(一四)君から川村赤石小學校長宛一通の書面が到達した文面に依ると
わたし達のお友だちが今年お米が取れぬのでこまつてゐることをお母から聞きました、わたし達の學校では今度修學旅行をするのでしたがわたしは行けなかつたので、お小使の内から僅か三圓だけお送り致します、不幸な人
と涙ぐましいほど眞心をこめた手紙だった 
々のため、少しでも爲になつたらわたしの幸福です
 したがって、これらの報道からは、この年の赤石村等の旱害による農民の窮状は東京方面でも知られるところとなり、そのことを知って小学生でさえも救援の手を差し伸べてきたことがわかる。
 もちろん地元でも義捐の輪は広がっていて、
◇同年12月16日
かねて勞農党盛岡支部その他縣下無産者団体が主催となつて紫波郡赤石村の慘狀義えん金を街頭に立ちひろく同情を募つてゐたが第一回の締きり日たる十五日には十二円八十銭に達したが都合に依つて二十二日まで延期し纏めた上二十五日慰問のため出發し悲慘な村民を慰める事となつた。
       ×
紫波郡ひこ部村第二消防組ではりん村赤石村のかん害慘状に深く同情した結果上等の藁三千束を赤石村共同製作所に販賣しそのあがり高を全部、赤石小學校児童に寄附することとなつて十五日午前九時馬車にて藁運搬をなすところがあつた
というように、労農党盛岡支部や紫波郡彦部村第二消防組なども義捐金を寄付したりしていた。
 あるいは、
◇同年12月20日
  在京岩手學生会 旱害罹災者を慰問
    學生及先輩有志より醵金をして寄附
東京岩手學生會は紫波地方かん害罹災者慰問の計畫を樹てその第一案として學生より醵金をする事第二案としては先輩有志より醵金する事になり今囘實狀調査のため明治大學生佐々木猛夫君來縣したなほ第三案として學生が縣の木炭を販賣してその純益金を救濟に向くべく決定し同上佐々木君は本縣の木炭業者に交渉する使命をもつて來たのであると佐々木君は語る
 かん害救済の事については此のあひだ東京廣瀬、田子、柏田の各先輩及び學生があつまつて相談をしましたが何れ實地調査してから積極的の方法をとらふといふ事にきめました。學生の木炭販賣は既に秋田學生會でも實行し成せきをあげたのですから是ヒやりたいと思ひます。同志の學生三十名あります。此場合特志の木炭業者にお願して目的の遂行をはかりたいと思ひます。
というように、在京学生も動き出し始めていた。また、地元の青年や少年たちも同様で、
 紫波旱害に同情 一関靑年有志が
紫波郡赤石村はかん害のため村民一同悲慘なる狀態に同情し一の關靑年有志は本月十八日午後五時關(?)座に於て活動寫眞會を開會し純益金を赤石村民救済資金として贈る事にした
という報道もあった。
 そして、甚次郎が赤石村を慰問した25日の3日前には、
◇同年12月22日
  米の御飯をくはぬ赤石の小學生
    大根めしをとる 哀れな人たち
(日詰)岩手合同勞働組合吉田耕三岩手學生會佐々木猛夫兩氏は二十一日紫波郡赤石村かん害罹災者慰問のため同地に出張しなほ役場學校について調査したが、その要領左の如し
一、役場
(イ)植附け反別は四百一反(ママ)(正しくは町)歩でかん害總面積は三百十五町歩、その中全然収穫なき反別は五十町歩に及び
(ロ)被害戸數は百六十戸である(同村の總戸數は五百二十五戸であるから同村三分の一は米一粒も取らなかつたといふ事が出來る)このうち小作人の戸數は六十戸である。    …(筆者略)…
二、學校
全然晝飯を持參せざる者二三日前の調査よれば二十四人に及びその内三人は晝飯を持參されぬ事を申出でゝ役場の救濟をあふいでゐる(外米三升をもらつた)又學用品を給與した者は十六人であるが、晝飯の内に麥粟をまじへてゐるもの殆ど三割をしめてゐる
というような赤石村の旱害関連報道があり、特に、この記事の中の「同村三分の一は米一粒も取らなかつた」という旱害の酷さに吃驚してしまうし、学校に弁当を持って行けない多くの子どもがいたことが哀れでならない。
 したがって、甚次郎はおそらくこの12月22日の記事を見て居ても立ってもいられなくなって、同25日に赤石村を慰問したに違いない。
 とまれ、大正15年の紫波郡、とりわけ赤石村は未曾有の旱害に見舞われということが広く知られ、遠く都会の小学生を含む多くの人々からの義捐が陸続と届いていたのであった。そしてその中の一人に甚次郎もいたということになろう。

 賢治一ヶ月弱もの滞京
 さて、甚次郎が「每日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた」というところの大正15年の12月は、私のかつて抱いていた賢治像(「下根子桜」に移り住んで、貧しい農民たちのために献身的に活動しようとしていた賢治、という)からすれば、まさにそのような活動を展開するにふさわしい絶好の機会だったはずだが、当時賢治がそうしたという資料も証言も私は何一つ見出せないでいる。
 ちなみにその頃の賢治の営為等については、『新校本年譜』等によれば大正15年の、
11月22日 この日付の案内状を発送。伊藤忠一方へ持参し、配布依頼。
11月29日 「肥培原理習得上必須ナ物質ノ名称」など講義。
12月1日 羅須地人協会定期集会を開き、持寄競賣を行ったと見られる。。
12月2日 澤里武治に見送られ、チェロを持って上京。
12月3日 着京、神田錦町上州屋に下宿。
12月4日 前日の報告を父へ書き送る(書簡220)
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席(書簡221)
12月15日 父あてに状況報告をし、小林六太郎方に費用二〇〇円預けてほしいと依頼(書簡222)。
12月20日前後 父へ返信(書簡223)。重ねて二〇〇円を小林六太郎が花巻へ行った節、預けてほしいこと、既に九〇円立替てもらっていること、農学校へ画の複製五七葉額縁大小二個を寄贈したことをしらせる。
12月23日 父あて報告(書簡224)。二一日小林家から二〇円だけ受けとったこと、二九日の夜発つことをしらせる。
ということだから、賢治はほぼまるまるこの年の12月は上京し、滞京していたことになる。
 そしてそもそも、「羅須地人協会時代」に現金収入の目処など全くなかった賢治が、どうやってこの時の上京・滞京費用を工面したかだが、次のような三つが主に考えられるだろう。
  ・蓄音器(〈注六〉)の売却代
  ・持寄競売売上金
  ・父からの援助
次に、それぞれについて少しく説明を付け加えたい。
 †蓄音器の売却代
 当時賢治と一緒に暮らしていた千葉恭のこのことに関する次のような2つの証言が残っている。その一つ目は、
 雪の降つた冬の生活に苦しくなつて私に「この蓄音機を賣つて來て呉れないか」と云はれました。その当時一寸その辺に見られない大きな機械で、花巻の岩田屋から買つた大切なものでありました。…(筆者略)…雪の降る寒い日、それを橇に積んで上町に出かけました。「三百五十円迄なら賣つて差支ない。それ以上の場合はあなたに上げますから」と、言はれましたが、どこに賣れとも言はれないのですが、兎に角どこかで買つて呉れるでせうと、町のやがらを見ながらブラリブラリしてゐるとふと思い浮んだのが、先生は岩田屋から購めたので、若しかしたら岩田屋で買つて呉れるかも知れない……といふことでした。「蓄音機買つて呉れませんか」私は思ひきつてかう言ひますと、岩田屋の主人はぢつとそれを見てゐましたが、「先生のものですなーそれは買ひませう」と言はれましたので蓄音機を橇から下ろして、店先に置いているうちに、主人は金を持つて出て來たのでした。「先に賣つた時は六百五十円だつたからこれだけあげませう」と、六百五十円私の手に渡して呉れたのでした。…(筆者略)…。「先生高く賣つて來ましたよ」「いやどうもご苦労様!ありがたう」差出した金を受取つて勘定をしてゐましたが、先生は三百五十円だけを残して「これはあなたにやりますから」と渡されましたが、私は先の嬉しさは急に消えて、何んだか恐ろしいかんじがしてしまひました。一銭でも多くの金を先生に渡して嬉んで貰ふつもりのが、淋しい氣持とむしろ申訳ない氣にもなりました。私はそのまゝその足で直ぐ町まで行つて、岩田屋の主人に余分を渡して歸つて來ました。先生は非常に正直でありました。三百五十円の金は東京に音樂の勉強に行く旅費であつたことがあとで判りました。
<『四次元 9号』(宮澤賢治友の会)21p~>
というものであり、そして二つ目は、
 金がなくなり、賢治に言いつかつて蓄音器を十字屋(花巻)に売りに出かけたこともあつた。賢治は〝百円か九十円位で売つてくればよい。それ以上に売つて来たら、それは君に上げよう〟と言うのであつたが、十字屋では二百五十円に買つてくれ、私はその金をそのまま賢治の前に出した。賢治はそれから九十円だけとり、あとは約束だからと言つて私に寄こした。それは先生が取られた額のあらかた倍もの金額だつたし、頂くわけには勿論行かず、そのまま十字屋に帰(ママ)して来た。蓄音器は実に立派なもので、オルガン位の大きさがあつたでしょう。今で言えば電蓄位の大きさのものだつた。
<『イーハトーヴォ復刊5』(宮沢賢治の会)11p >
というものである。はたして似たようなことが2度もあったのか、それとも千葉恭の記憶違いなのか現時点では明らかになっていないが、少なくともどちらかの1回はあったと判断しても間違いなかろう。そしてその売却代金は上京費用の捻出のためであったと判断してもほぼ間違いなかろう。
 †「持寄競売」売上金
 この「持寄競売」については次のような二つの証言がある。
 「東京さ行ぐ足(旅費)をこさえなけりゃ……。」などと云って、本だのレコードだのほかの物もせりにかけるのですが、せりがはずんで金額がのぼると「じゃ、じゃ、そったに競るな!」なんて止めさせてしまうのですから、ひょんたな(變な)「おせり」だったのです。
   <飛田三郎「肥料設計と羅須地人協会(聞書)」(『宮澤賢治研究 宮澤賢治全集別巻』、筑摩書房、284p~)>
 また或日は物々交換會のやうな持寄競賣をやつた事がある。その時の司會者は菊池信一さんであの人にしては珍しく燥いで、皆を笑はしたものである。主として先生が多く出して色彩の濃い繪葉書や浮世繪、本、草花の種子が多かつたやうである。
  <伊藤克己「先生と私達―羅須地人協会時代―」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)、396p)>
 ではどうしてこの「持寄競売」売上金が上京費用捻出のためであったと判断できそうだと言えるのかだが、上京前の11月22日に賢治が「これを近隣の皆さんに上げて下さい」(「地人協會の思出(一)」(『イーハトーヴォ6号』(宮沢賢治の會))と言って伊藤忠一に配布を頼んだ案内状の中にこの「持寄競売」に関して具体的に書かれているからである。さらには、このような「持寄競売」を他日にも行ったという証言は残っていないから、この周知を図った「持寄競売」には何等かの狙いがそこにはあったと考えられる。しかも、賢治は12月1日に開いた「持寄競売」のなんと翌日に即上京しているようだから、常識的に判断してそこにその狙いがあったということになろうからである。
 †父からの援助
 このことについては、滞京中の政次郎宛書簡(222)から明らかになる。
 さてこのようにして賢治は上京費用を調達して、周知のように一ヶ月弱の滞京していたわけだが、故郷のこの時の旱害の惨状をどのように彼は認識していたのだろうか。この時の滞京に関しては、『新校本年譜』によれば、
 なお上京以来の状況は、上野の帝国図書館で午後二時頃まで勉強、そのあと神田美土代町のYMCAタイピスト学校、ついで数寄屋橋そばの新交響楽団練習所でオルガンの練習、つぎに丸ビル八階の旭光社でエスペラントを教わり、夜は下宿で復習、予習する、というのがきめたコースであるが、もちろん予定外の行動もあった。観劇やセロの特訓がそうである。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』326p>
ということだし、父政次郎に宛てた当時の書簡によれば、
・築地小劇場も二度見ましたし歌舞技座の立見もしました。(12月12日付書簡221)
・おまけに芝居もいくつか見ました(12月15日付書簡222)
・止むなく先日名画複製品五十七葉額椽大小二個発送(12月20日前後書簡223)
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・本文篇』(筑摩書房)>
ということだから、オルガンやエスペラントのことはさておき、もし賢治が旱害に苦悶する赤石村等のことを知っていれば、巷間「貧しい農民たちのために献身した」と云われている賢治ならば、普通これらの3項目は躊躇っていたであろう。
 また、書簡(222)に書いている、「第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして修繕にやるうちどうせあとで要るし廉いと思って新らしいのを買ってしまったりふだん着もまたその通りせなかゞあちこちほころびて新らしいのを買ひました」などというようなことはせずに我慢していたであろう。まして、「どうか今年だけでも小林様に二百円おあづけをねがひます」などというようなとんでもない高額の無心は毛頭考えもしなかったであろうし、できなかったであろう。
 しかし実際はそうでなかったということからは逆に、大正15年12月の賢治は滞京中だったので遠く離れた故郷の農民達の大旱魃による苦悶をおそらく知らなかったということも推測される。

〈注六:本文19p〉平成11年11月1日付『岩手日報』は、
 賢治の請求を受けて県は大正十五年六月七日に一時恩給五百二十円を支給する手続きをとった。
ということがわかったと報道しているから、この520円は大正15年6月に支給され、しかもその大金は「高級蓄音器」の購入のためにすぐに使われたと言えそうだ。仮にこれだけの大金520円を上京時にまだ持っていたとすればこの蓄音器を売却する必要はなかったはずだからである。また常識的に考えて、その一時恩給(退職金)がなければ、収入の当てなどまずない「羅須地人協会時代」の賢治はそのような高級蓄音器は買わなかっただろうし、買えなかったであろう。

 当時の旱魃被害の報道
 しかしながら、それを賢治が知らなかったとすればそれはそれでまた問題だ。そもそも彼の稲作指導者としての知見と力量をもってすれば、この年は早い時点から、とりわけ紫波郡内の旱魃被害が甚大になるだろうということは予見できたはずだからその虞(おそれ)を賢治は抱いていなければならなかったということになり、稲作指導者としての賢治の資質と態度が問われることとなるからだ。
 ちなみに、最愛の愛弟子の一人であった菊池信一は「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」という追想の中で、
 旱魃に惱まされつゞけた田植もやつと終わつた六月の末頃と記憶する。先生の宅を訪ねるのを何よりの樂しみに待つてゐた日が酬ひられた。
<『宮澤賢治硏究』(草野心平編、十字屋書店、昭14)417p>
と述べているから、この「下根子桜」訪問の際に、菊池の住んでいる石鳥谷でも「旱魃に惱まされつゞけた」ということが話題に上らなかったわけがない。あるいは、当時の新聞はしばしばこの年の旱魃関連の報道をしていたのでそのことを賢治は懸念していたはずだ。実際、
◇7月5日付『岩手日報』には
  石鳥谷でやつと田植 北上から上水して 
(石鳥谷)稗貫郡好地村大字好地上口方面水田十七町七反歩は水全滅植つけ出來ないので此度川村與右衛門発起人となり北上川より約四十尺の高地に上水し四日田植ゑを始めた
という記事が載っている。まさに、教え子菊池の家のある好地村の記事だし、この記事は菊池の記述を裏付けてもいる。
 またその後の『岩手日報』の旱害関連記事を瞥見してみると、
◇7月7日
  田植が出來ない所が一千町歩に及ぶ
    北上川の動力上水もホンの一部分 
      紫波數ヶ村の悲慘事
という見出しの記事が載っていて、紫波郡では田植ができない所が一千町歩に及ぶとあり、悲惨な状況に陥っていることがわかる。同記事によれば、赤石村は350町歩もの水田の田植ができないでいる状況にあるということだし、当時赤石村の水田は401町歩だった(18p参照)から、実にそれは8割7分強にも及んでいたことになる。
◇7月25日
  各郡旱害調査
    廿日迄の植付不能水田二千百五十二町歩一反
という見出しの記事があり、同記事によれば植付不能水田について、県下で2,152町歩、紫波郡下で637町歩とあるから、田植のできなかった水田の約3割が紫波郡内に集中していたことがわかる。
◇9月26日
  本縣の稻作 百五、六萬石
    十二年の最凶作に近い収穫高である
という見出しの記事があり、大正15年の県米の予想収穫高は最豊年の14年に及びもつかないどころか、最凶年の大正12年に近い収穫高のようだ、という報道が9月下旬の時点で既になされていたことがわかる。
◇10月27日
  稗和兩郡旱害反別可成り廣範圍に亘る
(花巻)稗和兩郡下本年度のかん害反別は可成廣範圍にわたる模樣…
という稗貫郡と和賀郡に関する旱害被害に関する記事があり、両郡でも旱害被害は広範囲に亘っていたということになる。旱害被害はなにも紫波郡に限ったことではなかったことがわかる。
◇11月9日
  縣米作第二回 収穫豫想高 昨年より大減収
本縣米作第二回収穫豫想高に就いては目下縣統計課に於て十月末日現在にて各町村より報告を取纏めつゝあるが右報告に依れば大体昨年の百十四萬石に比し二割二分二十五萬石の夥しい減少となり實収高九十萬石と見られてゐる之は第一回豫想通り本年は旱害ため出穂が非常におくれたに加へて強霜が例年より早く降り第一回豫想九十六萬石に比し更に約七分の減少を見たは稲熱病が豫想外の蔓延を来たした為である殊に本年は最も大切な収穫期に於て雨量が多く未熟米も相當の數にのぼる見込で、量の減少に加へて質に於ても夥しい影響を來し三四等米のみで生産高の八九割を占めるものと見られてゐる
ということで、その第一回目の予想よりもさらにその収穫高は減少しているという。ほしいと思った降雨がほしい時になく、逆に降ってほしくない時に降雨が多かったという不運、そこへもってきて稲熱病の蔓延で品質も不良のため移出しようとしても三等米、四等米が8~9割を占めそうだという。
◇11月21日
  移出米檢査に半分は不合格
  品質がごく惡い花巻支所の成績
(花巻)今年は出穂時に雨量が多かつたので花巻附近から産出する俵米の如きは移出檢査で三等米に合格する俵米は百俵中五割位で、他は四等米に下落するといふ…
と、賢治上京直前のこの日には他ならぬ地元花巻の移出米についての深刻な報道もあった。
 つまり一連の新聞報道によれば、賢治が12月に上京する以前のもっと早い時点から、この年の紫波郡は旱害のために田植のできなかったところが相当数にのぼっていたとか、紫波郡のみならず稗貫郡や和賀郡でも旱害はかなりの範囲に亘っていたとかいうことはわかるのだが、この旱害対策のために賢治が奔走したという具体的な証言も客観的な資料も、そしてそのことを詠った詩も私は見つけられずにいる。
さらに、9月末時点でもう15年の稲の収穫高は相当心配されるという予想が、11月上旬になると前年に比しそれは「二割二分二十五萬石の夥しい減少となり」そうだという予想が新聞報道されていたし、紫波郡内の旱害のみならず稗貫郡下でも米の出来は極めて悪かったこともまた同様だったのだから、それこそ巷間伝えられているような賢治ならば上京などせずに故郷に居て、未曾有の旱害罹災で多くの農家が苦悶している隣の郡内の農民救済のためなどに、それこそ「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」、徹宵東奔西走の日々を送っていたはずだ。
 しかし実際はそうではなくて、12月中ははほぼまるまる賢治は滞京していたのだから、上京以前も賢治はあまり「ヒデリ」のことに関心は示していなかったのだが、上京中もそのことをあまり気に掛けていなかったと、残念ながら客観的には判断せねばならないようだ。
 そしてもしこの判断が正しいとするならば、賢治は少なくとも後々この時の己を恥じて悔いることになるということもまた私からすればほぼ明らかだ。それは、常識的に考えてみれば、地元のみならず全国から陸続と救援の手が差し伸べられていたというのに、賢治はそのようなことを何一つ為さなかったどころか、無関心でいたということになるからだ。

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