みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

第一章 「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い (テキスト形式)中編

2024-03-19 14:00:00 | 賢治渉猟
 「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」
さて、私は先ほど端から「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」を用いたが、このことについてここで一度確認しておきたい。
 †「ヒデリでも不作あり」という事実
 いわゆる『雨ニモマケズ手帳』に書かれている「雨ニモマケズ」の全文は以下のとおりである。
 11.3     
  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク
  決シテ瞋ラズ
  イツモシヅカニワラッテヰル
  一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ
  ジブンヲカンジョウニ入レズニ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
  行ッテ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒドリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  サウイフモノニ
  ワタシハナリタイ
    <『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)>
 さて、このことに関してある人は、「ヒデリに不作なし」という言い伝えがあるから「ヒデリ」は農民にとっては歓迎すべきことなので「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たりすることはないという論理によって、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」と訂正するのはおかしいと主張する。しかしながら、こうして大正15年の紫波郡等の大干魃による惨憺たる凶作を新聞報道で知ってしまうと、「ヒデリでも不作あり」という事実があったということになるから、この言い伝えはいつでもどこででも成り立つわけではないということはもはや明らか。よって私はこの論理にくみすることはできない。
 †「ヒドリ」は南部藩の公用語ではない 
 次に、この「雨ニモマケズ」を冷静に読み返してみれば、「ヒドリ」の部分以外は全ていわゆる「標準語」であることは直ぐわかる。となれば、常識的に考えて「ヒドリ」だけが「標準語」ではなくて「方言」だとするわけにはいかないだろうから、「ヒドリ」もやはり「標準語」であると判断せざるを得ない。
 ところが、『広辞苑 第二版』(新村出編、岩波書店)の「ひどり」の項には、
ひどり【日取】或ることを行う日をとりきめること。また、その期日。
しかなく、この【日取】では〔雨ニモマケズ〕において意味をなさないから、この「ヒドリ」は「標準語」としては存在しないことになるのでこれは賢治の誤記であることになろう。
 そこで、対句表現
  ヒドリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
に注意すれば、
  ×「ヒドリ」→〇「ヒデリ」
という判断は極めて合理的である。
 これに対して、「標準語」ではないがそれに準ずる「公用語」としての「ヒドリ」ならばあるといって、和田文雄氏は
「ヒドリ」は南部藩では公用語として使われていて、「ヒドリ」は「日用取」と書かれていた。
という主旨のことを『宮澤賢治のヒドリ』(コールサック社)の中で述べている。「ヒドリ」が南部藩の「公用語」であれば標準語からなる〔雨ニモマケズ〕の中でそれが使われてもおかしくないというのが和田氏の論理のようだ。
 ところが、肝心の、それが南部藩の「公用語」であるとことを裏付けているといって和田氏が前掲書で「引用して転載」している『南部藩百姓一揆の研究』の中の「南部藩の「日用取」の指令」という資料だが、実際に原典『南部藩百姓一揆の研究』(森嘉兵衛著、法政大学出版局)で確認してみたところそこにはそのようなことは記されてはいない。
 ちなみに、和田氏が「引用して転載」したと言っている「南部藩の「日用取」の指令」については、
   南部藩の「日用取(ヒドリ)」の指令
 一 御領内御境筋表ニ他領出入之義前々より御停止之処ニ、不心得之者共他領間遠之所ニ而ハ乍当分御境を越、日用取、月雇等相成渡世仕候者茂多ク有之由ニ而、却而其筋之御領分ニ而ハ耕作働之者不足仕候故、奉公人等召抱候ニ及差支候由ニ付、御代官共稠舖申付置候旨申出候、依之村々向後一ヵ年二季人別之改年々被仰付候間、改之砌不於合者委ク御詮議之上、他領罷出候事相知候ハヽ相返、急度曲
【和田氏の当該ページ(一部抜粋)】

【森氏の当該ページ(一部抜粋)】
事可被仰付候、尤奉公人日雇等他領江之人元ニ罷成候者本人同罪可被仰付被仰出
  寛保四年正月
      (森嘉兵衛『南部藩百姓一揆の研究』から)
<『宮沢澤賢治のヒドリ』(和田文雄著、コールサック社)71p >
となっているが、出典である森嘉兵衛著『南部藩百姓一揆の研究』の当該ページは次のような中身であり、
  第三節 延享元年黒沢尻・鬼柳通新田開発反対一揆
 一 新田開発の奨励
財政政策の一環として行われた新田開発は、享保・寛保の検知の結果予想以上の成績をあげたので、さらに計画を拡大し、黒沢尻通では享保三年十月から新田開発のために和賀川をせきとめて、新堰を掘り、畑返し新田を起こすととし、その人夫として、郷中から一人一日十文の賃金で徴発し、開発に当った。しかし、それはあまりにも低賃銀であり、人夫に出る百姓がない。やむなく賃銀を四十五文に引き上げ、半ば強制的に高割りに徴用をかけた。しかし、当時農村の賃銀は高騰を続け、遠く他領まで出稼ぎする者が増加していた。当局もこの現象に気がつき、「二郡中身売払底在々之者共下人召抱殊之外差支候由」につき二郡代官に命じて、他領に奉公に出ている者を召喚せしめたところが、安俵・高木通から男女百五十二人、二子・万丁目通から八人、鬼柳・黒沢尻通から百五人も出稼ぎしていた。当局は領内の労働力を確保するために、指令を出して、
一 御領内御境筋表ニ他領出入之義前々より御停止之処ニ、不心得之者共他領間遠之所ニ而ハ乍当分御境を越、日用取、月雇等相成渡世仕候者茂多ク有之由ニ而、却而其筋之御領分ニ而ハ耕作働之者不足仕候故、奉公人等召抱候ニ及差支候由ニ付、御代官共稠舖申付置候旨申出候、依之村々向後一ケ年二季人別之改年々被仰付候間、改之砌不於合者委ク御詮議之上、他領罷出候事相知候ハヽ相返、急度曲事可被仰付候、尤奉公人日雇等他領江之人元ニ罷成候者本人同罪可被仰付被仰出
  寛保四年正月   
〈注:傍線  筆者〉
   <『南部藩百姓一揆の研究』(森嘉兵衛著作集第七巻、法政大学出版会)78p >
となっている。
 ということは、この上掲文章中の傍線〝  〟部が、和田氏が『宮沢賢治のヒドリ』で引用したと言っている部分に相当しているはずだ。すると直ぐ判るように、森氏の方になくて和田氏の方にあるのがタイトル「南部藩の「日用取」の指令」であり、さらにそのフリガナ「ヒドリ」であるから、和田氏は引用する際に、このタイトルとフリガナを自分で付け足したことになる。南部藩が出した指令は「領内の労働力を確保するために、指令」と森氏は述べているのにもかかわらず、である。だから私には、南部藩が出したこの指令が「南部藩の「日用取」の指令」とタイトルできるようなことまでは森氏が述べているとはどうしても思えない。もちろん、その指令の中に「日用取」という用語は見出せるが、その「日用取」に「ヒドリ」などというフリガナも付いていない。これでは和田氏は神聖なる資料を改竄してしまったという誹りを受けかねないので、私は和田氏のこのような主張を肯うわけにはいかない。
 よって、件の「ヒドリ」は南部藩の「公用語」と言い切れるわけでもなく、それが「日用取」と書かれていたということやそのフリガナが「ヒドリ」であったということを森氏が述べていたというわけでもないから、どうやら私は、今までもこれからも
「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」の書き間違いである。
と判断するのが極めて合理的であるとするしかないようだ。
 このことに関連しては、入沢康夫氏は論考「「ヒドリ」「ヒデリ」問題のその後」の中で次のように述べている。
 このなにやら詐術めく引用の仕方については、先にも触れた花巻の鈴木氏が、「みちのくの山野草」の二〇〇八年十一月三〇日付「和田文雄氏の『ヒドリ』」、同年十二月一日付「『南部藩百姓一揆の研究』の78p」、同年同月七日付「『日用取=ヒドリ』の新たな検証を」の三回を使い、森氏著書の該当部分の写影をも添えて、指摘しておられる。
<『賢治研究 121号』(宮沢賢治研究会、平成25年8月)4p >

 帰花後の賢治の無関心
 さて、賢治は一ヶ月弱の滞京を終えて年末に帰花(花巻に帰ること)。明けて昭和2年1月からはよく知られているように、次のようにほぼ十日置きに羅須地人協会の講義等を本格的に始めたと云われている。
一月五日(水) 伊藤熊蔵、竹蔵来訪、中野新佐久往訪
一月七日(金) 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪
一月一〇日(月)〔講義案内〕による羅須地人協会講義が行われたと見られる。
一月二〇日(木) 羅須地人協会講義。参会者に「土壌要務一覧」のプリントを配布し、図解を示しつつ土壌学要綱を講じる。
一月三〇日(日) 羅須地人協会講義「植物生理学要綱」上部。午前一〇時より午後三時まで。伊藤清一より農事講話を依頼される。ことわり状(書簡225)
一月 「文語詩篇」ノートに「一月 嬰児遺棄」とあり
一月(日付不詳) 斎藤貞一に書簡(226)
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)>
 一方『岩手日報』は、前年末に大正天皇が崩御したので新年になってもその関連の記事が紙面の殆どを占めていたのだが、1月8日以降になると再び旱魃被害関連の記事が紙面に載り始める。
◇昭和2年1月8日付『岩手日報』には、
農村經濟は全く破滅の苦境 米價の大崩落にて肥料購入も困難
という見出しの記事があり、旱害のみならず米価も大幅に下落しているという報道があり、農民は泣きっ面に蜂であった。
 そして翌日になると、
◇1月9日付『岩手日報』夕刊の「一面」は、そのほぼ全面を使っての紫波地方の旱害被害に関する報道をしている。まずは、
  未だかつてなかつた紫波地方旱害慘状
     飢えに泣き寒さに慓ふ同胞
       本社特派員調査の顚末發表
という見出しで始まり、
紫波地方昨夏の旱魃は古老の言にもいまだ聞かざる程度のものであった水田全く變じて荒野と化し農村の人たちはたゞ天を仰いで長大息するのみであった。したがって秋の収穫は、一物もなかった、なんといふ悲慘事であらう、飢に泣き寒さに慄へる幼き子どもらを思ふとき我れら言ふ言葉がない…(筆者略)…。
  赤石村に劣らぬ不動村の慘めさ
    灌漑は全く徒勞に終わって収穫は皆無
不動村は赤石村に劣らない慘害を受けたが鉄道が多少離れてゐる關係か比較的一般に知られてゐない、村役場の調査によると耕地反別五百三十一町歩中植つけ不能段別四十七町一反歩、植つけはしたが枯れて仕舞又は結實せず収穫が皆無のもの六十三町歩、七割減収が六十三町歩、五割減収が六十八町歩、三割減が三十四町歩、三割以下の減収が三十三町歩といふ數字をしめし耕地面積の半分に近い二百四十一町歩余は収穫皆無又は半作以下で地租免税の申請をなしたものが百八十六町歩に達した、ために収穫高もカン害を受けた昨年一萬三百六十石の半ばにたらぬ、四千五百石で純小作百十三戸、自作兼小作二百七十戸が生活せねばならないのであるから既に生活資金に窮するに至つたのである
水稻のみだけでなく畑作の麥、靑刈大豆等も三割以下減収の上揚水機の設備に多額の金を投じた、動力使用の揚水機を設備したのは十ヶ所で一ヶ所平均九百圓を要し九ヶ所は買ひ入れたものであるが内早くから設備した二ヶ所である他は焼けつく樣な炎天に雨を待ちドウにもならなくなつてから設備したため十ヶ所の揚水機で僅かに四町歩の灌漑をなしたに過ぎなかつた、手ぼりの井戸は百八十ヶ所で之も三十圓から五十圓の経費を要した之とて焼石にそゝぐ樣なものでカン害狀態視察の得能知事がソウして昼夜水をかけてなん反歩の灌漑が出來るかと聞いて涙ぐんだほどで灌漑水については惱み苦しんだ上結果から見れば何等の効果もなかつた揚水機設備に貴重な一萬餘圓をむなしく投じてしまつたのである。この揚水機もむなしく手をつかねて雨を待たずに設備をしたならば夫相當の効果はあつたのであらふも時機を失した為徒勞に歸したのみでなく更に疲弊困難に陥入るの因をなすに至つた
斯くして得たる米も玄米一駄(七斗)十五六圓でもつき減りが多く『砕け』のみになるといふので買ひ人がないといふ有り樣である、仝村に足を入れ小學校付近に行くとむなしく雪に埋づもれ朔風の吹きまくるに委せて居る水稻がある、幾つかの藁みよが並んで居るがこの藁みよには穂がついて居るが、聞くと刈つては見たが米はとれないから肥料にする外ないので積んで置くのだといふ、油汗をたらし血を流す樣な努力をかさねた結果肥料にする藁を得るに過ぎなかつた時農民の心中は如何なる思ひに滿たされたことであらう、
縣ではかん害救済資金として一萬五百圓を代用作物種子代と動力使用揚水機設備補助に支出することになつたが揚水機補助は兎も角代用作物種子代補助の如きは當村で馬糧にする靑大豆を僅かに五反歩植つけたにすぎなかつた、之は大豆、稗其他の代用作物を植つければ翌年の収穫に影響を及ぼすため縣でイクラ種子代を補助すると參事會に代決を求め決定しても植つけなかつたので此點は縣の見込み違ひで救濟方法としては當を得なかつたが通常縣會に要求の勸業奬勵費二萬圓の追加はかん害地の衣食に窮する農民に對しては本當に救濟の実を擧げることが出來るものである
という記事内容であった。
 つい今までは赤石村の旱害被害が甚大だということにばかり目を奪われていたが、この記事を見て初めて不動村の未曾有の旱害被害、過酷さを知って愕然としてしまう。以前触れたように、赤石村の旱魃被害に対しては宮城県、はては東京の小学生からさえも義捐があったくらいだからこの時の赤石村の惨状は広く知られていたのだろうが、たしかに不動村のこの惨状は赤石村のそれとさほど差違はなく、単に報道されていなかっただけのことだったようだ。
 また、同一面には
 この冬をどうして暮らす 赤石と本村は同樣 菅原不動村長語る
という見出しのなどの記事もあり、
十三年と十四年は植つけ後のかん魃であつたから収穫は減る事は減ったが今度のようにヒドクはなかつた、今度は植つけないうちからかん魃であつたから全然無収穫になつたので前二年續けてかん害に疲弊してゐる所に今度のですから全く暮しに困る事になつたのです、只赤石の方は大變ヒドイ樣に思はれるが當村とて之と甲乙がなく、赤石は鐵道に近く村の人達も事を大きくして騒ぐので一般に知られて居るのだと思ふ、來年からは鹿妻堰の幹線工事が出来たから水に困ることはないと思ふが此の冬はドウして暮らすか副業以外にないが藁工品を作るにしても二尺ソコソコの藁では何も出來ないから矢張り他縣から買はねばならぬし製筵機も縣から二十五臺配當されただけで不足だから之も増して何とか此の冬だけを凌いで行きたいと考へてるが今まで景氣がよいのになれ贅沢になつて居たから之を引き締めるには却つて良いかも知れません
 さらに次のような見出しの記事が続き、
  辨當を持たぬ小学生のいぢらしい姿
    校長は毎日泣かされて居る
      とても正視はできない
村民の生活もやうやく窮乏を告げ初め舊正月に餅をつき得ない者が大部あらうとの見込みで地主さへももち米は買はなければならないといふ、之は自分の田で出來たものではろくな餅にならないからである、村民の食物は小學児童の晝食辨當で大躰を察知することが出來るが岡村校長は
高等科の生活は割合によい家庭だが辨當をもたづにくるものが十二三人あり三年以上五百五十人中八十九人はべん當をもたずに來て晝の休み時間は他人の辨當を食べてゐるのを見かねて屋外であそんで居る姿は實際可愛想です、べん當を持つてきても夫々他人に見られるのがいやで新聞紙の中に顔を埋づめる樣にして時々周囲の眼を見渡しながらマルデ盗んだものでもたべてる風にして居り會食の教員も涙なくして見られぬといつて居りますが親たちの身になつてみれば自分は食はずとも子供にべん當を持たせてやりたいのが人情ですのに夫さへ出來ないものとみへます、べん當の多くは大根が半分以上這入つたものか、くだけ米の団子、小麦粉をねつたもの等で通學の途中ある児童は一昨日から団子ばかりたべてるが米の御飯がたべたくなつたと話したそうですが…
と伝えているし、この他にも同紙面には、
  ・炭俵の賣日なく赤石村民糊口の糧苦む
  ・志和も不動と大差ない慘状
という見出しの記事もあり、大正15年の紫波地方の旱魃被害は凄まじい惨状にあり、その惨状を呈しているのは赤石村のみならず、不動村も志和村も同様であったといえよう。
 そしてその後も旱害の報道は続き、
◇1月19日付『岩手日報』には、
・寒さと飢えに泣く村人
という見出しの記事があり、
  得能知事が旱害地視察
   寒さと飢えになく村民
    正視するに忍びない彼等のドン底生活
紫波郡地方のかん害慘状は日一日と深刻の度を増し行きやがて來るべき越年の喜びも今はどこへやら同地方では舊年末をひかへて益々慘苦は激甚を極め村民は只飢えとさむさにふるえて居る得能知事は殊にもこの慘狀に深く同情し救濟方法として常に製筵事業を奨勵する一方再三同地を訪ねては善後策につき絶えずアタマを悩まして居るが十八日更に猪股勧業課長、藤原技師、佐藤篤の関係職員を隨へて最もひどく被害影響を被つて居る古館、志和、赤石日詰の一町三ヶ村を巡視し困窮のドン底に喘ぐ村民たちの實生活を詳細に視察したが各村ともドコの軒をのぞいても正視するに忍びない悲慘な生活狀態であった
  赤石村にも劣らぬ古舘村の慘状
    舊年末を控えて益々窮乏を告ぐ
古館は赤石におとらぬ慘状を呈し舊年末をひかへて益々窮乏をつげてゐる仝村役場の調査に依れば耕地反別二百町歩のうち収穫皆無は八十町歩の大きに達し減収反別を加へれば百二十町歩の多きに達し昨年の五千三百石収穫高に比し約三千石減収二千石の収穫であるが之とても品質は非常にわるく、一石につき六圓の格差を示し市場等には販賣も出來ぬ有り樣であると、右について高橋古館村長は語る
本年のかん害は自作人も小作人と同樣明日の食糧にも窮する有り樣で之が救濟策としては、縣の奨勵方法に基き十三日から二十臺の製筵機をかり受けて製筵事業を始めましたが何しろ未だ日も淺い事とて只今の處講習を行って居ます
という報道があり、古舘村に関して言えば、
   大正15年の収穫高は2,000石
であり、前年の5,300石と比べれば
   2,000÷5,300=37.7%
だから、6割強もの減収だったことになる。しかもその上に米の品質は極めて悪かったのだ。
 なんと、紫波地方の旱魃被害によって惨状を呈していたのは赤石村、不動村、志和村のみならず古館村もまた同様であったということを知ることができる。
◇1月25日付『岩手日報』には
   志和村の収穫僅かに三十二石
という見出しの記事があり、同村の一日の消費は2石2斗8升なので、たった16日分(正しくは14日分?)しか穫れなかったという内容であった。志和村の旱害の凄まじさがわかる。
 そして、
◇1月26日付『岩手日報』には、
  舊年末を前に本縣下の農村は破産の狀態
    借金の苦しさに土蔵を賣拂ひ
      家を閉ぢて逃げ隱る
二三年この方つゞいた未曾有のカン魃とお米が捨て賣り同樣の安値のため農村では舊年末を前に悲境のドンぞこに落ちてゐる。これがため家財を賣り、遠くで稼ぎに赴いた者も數尠なくない模樣で稗貫郡某村の如きは中産以上の農家でさへ年末の支拂ひに二進も三進も行かず、祖先伝來の土地を賣り拂つたとの哀話もあり、毎日借金取りに攻められるので、致方なく家を閉ぢて水車小屋に引き移ってゐるといふ話しもある。況して旱害の程度も一層深酷であつた紫波地方の難民は日々の生活にさへ困窮してゐる者が多くその慘狀は全く事實以上であらうとのことだ。かくて本縣下の農村はいまや経濟上破産狀態にあるがやがて本縣にもいむべき農村問題社会問題がもちあがるのでないかと識者間に可なり憂慮されてゐる
という報道もあり、この記事は隣の紫波郡のことではなくて賢治の住む稗貫郡内のことであり、そこの中産以上の農家でさえも先祖伝来の土地を売り払ったという哀話である。まして紫波地方のそれに至っては農家は破産状態、困窮の極みにあるというとどめを刺すような記事である。さぞかしこの記事を見ながら賢治は心を痛めたであろうと思われるのだが…。
 以上のように、年が明けてからも相変わらず新聞は紫波郡の未曾有の大旱害の惨状等を報じていた。その中で一つだけ、嬉しい次のような記事が、
◇2月24日付『岩手日報』に、
   稗貫太田村靑年團より旱害地へ餅八斗
稗貫郡太田村靑年團にては旱害罹災民見舞として餅八斗を搗き平賀團長統導の下に團員十二名に携運せしめ十八日午前十時九分花巻駅發列車にて赤石村を訪問した
と載っていた。花巻町の隣の太田村の青年達の心温まる救援の報道であった。
 ところが一方で、当時の賢治の営為を『新校本年譜』等によって調べてみた限りでは、「下根子桜」移住~昭和2年4月において、この時の旱害に対して賢治が救援活動等を行ったということは見出せない。せいぜいあったのは、
〈一〇二二 〔一昨年四月来たときは〕一九二七、四、一、〉という詩においてその最後尾に初めて、「そしてその夏あの(〈注七〉)恐ろしい旱魃が来た」と「旱魃」に言及していた。
ことだけだった。
 では、この当時の羅須地人協会員はどう語っているか。その一人伊藤克己は「先生と私達―羅須地人協会時代―」において、
 その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)395p>
と語り、同じく協会員の高橋光一は「肥料設計と羅須地人協會」において、
 藝事の好きな人でした。興にのってくると、先にたって、「それ、神樂やれ。」の「それ、しばいやるべし。」だのと賑やかなものでした。
 御自身も「ししおどり」が大好きだったしまたお上手でした。
  ダンスコ ダンスコ ダン
  ダンダンスコ ダン
  ダンスコダンスコ ダン
と、はやして、うたって、踊ったものです。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭44)283p>
と「羅須地人協会時代」の賢治について語っているから、「その頃の冬」の羅須地人協会の集まりはたしかに楽しかったにちがいない。しかも「その頃の冬」とはまさに大正15年末から明けて昭和2年の冬のことである(それ以外の「羅須地人協会時代」の冬には、協会員のそのような「集まり」は開かれていないからだ)。
 したがって、前年12月までのことはさておき、帰花後の賢治がこれらの一連の新聞報道を全く知らなかったということはまずあり得ない(〈注八〉)のだから、もし賢治が貧しい農民たちのために献身しようとして「羅須地人協会」を設立したというのであればこのような楽しいことだけではなく、為すべき喫緊の課題があったはずだ。それはまさに、この時の大旱魃被害の救援活動である。そしてそのような活動を賢治が当時していたとすれば、巷間云われているような賢治像からすればなおさらに、「聖人」とか「聖農」と賞賛されて、その具体的な実践活動を多くの人々が証言として残していたはずだ。ところがどういうわけか、そのようなことをこの大干魃の際に賢治が為したという証言等は残念ながら何一つ見つけることができない。
 ということは、その頃の「羅須地人協会」の活動は地域社会とはリンクしていなかったと言わざるを得ないし、残念ながら、賢治はこの時の「ヒデリ」に際して、上京以前も、滞京中も、そして帰花後も一切救援活動をしなかったと、「ヒデリノトキニ涙ヲ流シテイナカッタ」と結論せざるを得ないようだ。
 そしてこれらのことからは、この時の大旱魃被害の惨状を知って多くの人々があれこれと救援の手を差し伸べていたというのにもかかわらず、賢治がこの惨状に全く無関心であったということが導かれるから、私とすれば、賢治が一切この時に救援活動をしなかったということよりも「無関心」であったことがとりわけ寂しいし、とても残念に思う。
 だから当然、賢治も後々この時に無関心だったことを後悔して己を恥じ、懺悔することになるはずだ。

〈注七:本文32p〉ただし、この「その夏あの恐ろしい旱魃が来た」が大正15年の旱魃を指しているかどうかは定かでない。「一昨年四月来たときは」で始まっていることから、この詩が詠まれた日付が「一九二七、四、一」とあるので、この「その夏あの恐ろしい旱魃」とは大正14年のそれとも考えられるからである。
 しかも、似たようなことを賢治はあの有名な「一〇二〇 野の師父」でも次のように詠んでいる。
    その不安ない明るさは
    一昨年の夏のひでりの空を
<『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)108p>
そしてこの詩は、賢治が付けた作品番号から判断すれば少なくとも昭和2年のものであると判断できるから、この判断が正しければこの「一昨年」とは大正14年ということになる。
 したがって、賢治は大正15年の紫波郡などの大旱害の認識は乏しく、大正14年の旱魃の方が気掛かりであったとも言えそうだ。ところが、同14年は「ヒデリ」の傾向は確かにあったが、実はこの14年の岩手の米の作柄は近年にない「最豊作」であったということは周知の事実である(大正15年1月28日や同年9月26日付『岩手日報』より判る)。
〈注八:33p〉もし全く知らなかったならば賢治には社会性が著しく欠けていたということになってしまい、大問題となってしまう。

 「本物の百姓」になりたいわけではなかった?
 ここまでの考察の結果、残念ながら、大正15年の賢治は
   ヒデリノトキニ涙ヲ流シテイナカッタ
ということを私はもはや否定できなくなってしまったようだ。しかも、ずっと今まで腑に落ちなかったことの一つに、どうして賢治は甚次郎に「小作人たれ」と強く迫ったのに、なぜ賢治自身は小作人になることもせず、田圃を耕すこともしなかったのだろうかということがあった。
 このようなことに思い悩んでいた私はある時、小菅健吉の次のような追想「大正十五年の秋」をしばらくぶりに読み直して、それまで大いなる誤解と思い込みがあったのではなかろうかということに気付いた。
 大正十五年の秋、米国から帰国したので母校に挨拶に行き花巻の賢治を訪ねた。
 羅須地人協会(現在記念碑の立つてる所)に住み、五十米程離れた所にかまどを作り、めんどう臭いからと云つて、四・五日分の飯を炊いて居た。其の夜は種々語りあつた事を思い出す。
 その頃は、花巻農学校をやめて、花を作つて売つて居たのだつた。
 容姿、風采など実に無頓着。そのあたりの百姓男とかわりない様子をして居た。秋の終わりだと云ふのに麦わら帽子をかぶつて居た。花売りに行つても西洋草花などあまり売れない様であつた。
 羅須地人協会にオルガンを備へつけ、附近の青少年を集めて農民芸術をとき、農民に耕作設計を教へ、農事相談等もやつて居るとの事だつた。
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著、刊行会)250p>
 さて、小菅が訪ねたこの時期のことだが、小菅が米国から帰国した時期と一致するわけだからまずは間違いなかろう。つまり、小菅は大正15年の秋の終わりに「下根子桜」の賢治の許を訪れたことはほぼ確かであり、一般に「秋」といえばその期間は9月~11月だから、小菅は大正15年の11月頃に羅須地人協会に行き、賢治といろいろと話し合ったとほぼ断定できそうだ。
 丁度その頃といえば、紫波郡内の干魃被害が甚大であることがいよいよ明らかになっていった頃であり、千葉恭もまだ羅須地人協会で一緒に暮らしていた頃であり、高瀬露がそこに出入りし始めた時期でもある。そして賢治は、間もなく約一ヶ月の上京をしようと企てていたであろう直前の時期でもある。そのような時期の賢治の許を、アメリカ帰りのあの「アザリア」の仲間が訪ねて来たわけだから、賢治も普段とは違った意識と気持ちであっただろう。かといって、そのような小菅の前で見栄を張ることも空しいことだから、この時に小菅に対して賢治が語ったことにあまり大きな嘘はなかろうということに私は思い至った。言い換えれば、小菅が伝える「花を作つて売つて居たのだつた」も「花売りに行つても西洋草花などあまり売れない様であつた」も共に当時の賢治の実態と本音であり、このことから私は次のようことも充分にあり得たということを考えるに至った。
 それは端的に言えば、
 大正15年頃の賢治は「花卉等の園芸家」になろうとしていた。……①
ことが当時の彼の最大の目標であったのだった、と。決して巷間言われているような、
 俸給生活にあこがれる生徒たちに、村に帰れ、百姓になれとすすめながら、自分は学校に出ていることに対して、矛盾を感じたことからでしょう。
<『野の教師 宮沢賢治』森荘已池著、普通社)231p~>
ということが農学校を辞職した真の理由でもなければ、周辺に沢山いるような貧しい「本物の百姓」になろうとしていたことがその真の理由でもなかったのだと。
 たしかに、花巻農学校を突然辞めて「下根子桜」に移り住んだ賢治は「本統の百姓」になることは目指しはしたのだろうが、賢治はもともと自分で田圃を耕す小作人のような生活をしようとした(=「本物の百姓」になろうとした)わけではなく、それは〝①〟のためであった。つまり、当時の賢治の最大の目標は、賢治が自分の頭の中で思い描いている新しいタイプの百姓になることであり、それを賢治は「本統の百姓になる」と言っていたのであり、具体的には
    「本統の百姓になる」=「花卉等の園芸家になる」
    ≠「本物の百姓になる」
ということであった、ということも私は真剣に考えなければならなくなったようだ。
 そういえば、このことは次のようなことなどからも窺える。まずその一つは、「下根子桜」に移り住んで直ぐ森荘已池に宛てた手紙(4月4日付書簡218)には、
お手紙ありがたうございました。学校をやめて今日で四日木を伐ったり木を植えたり病院の花壇をつくったりしてゐました。もう厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました。東京へその前ちょっとでも出たいのですがどうなりますか。百たびあなたのご健勝を祈ります。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・本文篇』(筑摩書房)>
と賢治は書いているから、賢治が花巻農学校を辞めて初めて外部に対して為した仕事が「病院の花壇」造り(これが佐藤隆房の花巻共立病院のそれであると『新校本年譜』は断定している)という園芸の仕事であったからである。
 もう一つは、伊藤光弥氏が『イーハトーヴの植物学』の中の「教え子たちの証言」という節の中で、『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭和33年)から例えば次のような教え子の証言を幾つか抜き出して、おおよそ次のように論を展開していることからである。
 教え子の回想には次のように、賢治と草花を結びつける証言も多い。
・春になると北上川のほとりの砂畠でチューリップや白菜をつくられたのである。宅の前には美しい花園をつくって色々な草花を植ゑられた。(平來作、272p)
・ある年の同窓会総会のときに先生は、卒業生で種苗協会を作ってアメリカやその他の国から新しい草花などを取り寄せて田園を大いに美しくしようではないかと提案されたことがあります。(浅沼政規、257p)
・また或日は物々交換会のような持寄競売をやった事がある。主として先生が多く出して色彩の濃い絵葉書や浮世絵、本、草花の種子が多かったやうである。(伊藤克己、280p)
・そういえば種苗商をやれと云われたこともある。(小原忠、288p)
 教え子の回想を総合すると、賢治は種苗協会のようなものをつくり、草花や西洋野菜を栽培する共同の事業を始めたかったらしい。学校を辞めてすぐ始めた花壇作りは、その前段階だったようにも思われる。
<『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)76p~>
と。たしかに、前掲書『宮澤賢治研究』で確認してみるとそれぞれの回想はその通りであった(( )内の数値は当該の頁)。
 となれば、先の小菅の証言から導き出された35pの〝①〟の信憑性がさらに増したと言える。そしてこの〝①〟は、賢治が昭和3年6月に上京した大きな理由が、
 (伊藤七雄の)胸の病はドイツ留学中にえたものであったが、その病気の療養に伊豆大島に渡った。土地も買い、家も建てたという徹底したもので、ここで病がいくらか軽くなるにしたがって、園芸学校を建設することになり、宮沢賢治の智慧をかりることになったのである。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)191p>
ということであれば、たしかに頷けるし、
 (伊藤七雄は)体がよくなってくると大島に園芸学校を建てようと思いつき、その助言を得るため、羅須地人協会で指導している賢治を訪ねてきた、というわけである。
    <『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、圖書新聞社、昭和41年発行)243p>
という理由であったとしたならば、これとも符合する。
 さらには、「伊豆大島行」を終えてからも、その頃故郷では農繁期(猫の手も借りたいといわれる田植の時期であり、植えつけた苗の生育が心配な時期)であったのにもかかわらず、賢治はすぐに帰花せずに帝国図書館に出掛けて行き、当面差し迫ったこととは思えぬ『BRITISHU FLORAL DECORATION』の原文抜粋筆写及び写真のスケッチを手間暇かけて行い、『MEMO FLORA手帳』を作った(〈注九〉)ということも、
 「羅須地人協会時代」の賢治は「花卉等の園芸家」になろうとしていたし、なり続けようとしていた。……②
のであったとすればすんなりと腑に落ちる。こうなってくると当然、この〝②〟は有力な仮説となる。
 つまるところ、「下根子桜」に移り住んだ賢治ではあったが、賢治のその当時のその最大の目的は、「貧しい農民たちのために身を粉にして献身する」ということなどではなくて、あくまでも〝②〟のためであったという蓋然性が増してきた。そしてそれは、「下根子桜」から撤退して豊沢町に戻ってからの、病気がある程度回復した際に書いた『銀行日誌手帳』の栽培日記からも〝②〟は傍証されそうだ。
 だからもしかすると、賢治が突如花巻農学校を辞めて「下根子桜」に移り住んだのは、草花や西洋野菜を栽培する園芸家(=「花卉等の園芸家」)になろうと急に思い立ったからであり、
 「花卉等の園芸家になる」=「本統の百姓になる」
という等式が賢治の場合に成り立つが、一方で、賢治は「本物の百姓」になりたいわけではなかった、とも言えそうだ。
 まさに菅谷規矩雄が指摘(〈注十〉)するとおり、
 なによりも決定的なことは、二年数カ月に及ぶ「下根子桜」の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていない。
ということだったのかもしれない。
 となれば、私はこれまで大いなる誤解と思い込みがあったということをここで認める必要があるのかもしれない。言い換えれば、このように賢治のことを解釈すれば、少なくとも大正15年の未曾有の旱魃罹災に際して当時の賢治が一切救援活動等をしなかったという事実もある意味納得できないこともない、ということに私は思い至ったからだ。また、先に掲げた「賢治自身は小作人になることもせず、田圃を耕すこともしなかったのだろうか」という疑問もこれだとほぼ氷解する。

〈注九:本文36p〉土岐 泰氏の論文「賢治の『MEMO FLORA手帳』解析」(『弘前・宮沢賢治研究会誌 第8号』(宮城一男編集、弘前・宮沢賢治研究会)所収)より。
〈注十:本文37p〉菅谷規矩雄氏は、    
 宮沢がつくったのは、白菜やカブやトマトといった野菜がほとんどで、主食たりうるものといったらジャガイモくらい――いや、なにを主食とするかのもんだいと、作物の選択とがついに結び合わないのである。トウモロコシや大豆はつくったらしいが、麦のソバも播いた様子がない。
なによりも決定的なことは、二年数カ月に及ぶ下根子桜の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていないことである。それがいかなる理由にもせよ、宮沢の〈自耕〉に〈稲作〉が欠落しているかぎり、「本統の百姓になる」ことも自給生活も、ともにはじめから破綻が必至であったろう。
<『宮沢賢治序説』(菅谷規矩雄著、大和書房)98p~>
と論じているが、私もこの「二年数カ月に及ぶ下根子桜の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていない」という指摘はその通りだと思うし、このことに私たちは目を背けてはいけないのだとこの頃は思っている。さもないと、賢治の真実を見誤る虞(おそれ)があるからだ。

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