みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

7月に詠んだ詩〔あすこの田はねえ〕

2015-06-18 09:00:00 | 昭和2年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
「詩ノート」の場合
 さて、この月に詠まれたであろう賢治の詩〈〔あすこの田はねえ〕>や〈和風は河谷いっぱいに吹く>は一般に評価が高いようだ。実際、例えば天沢退二郎氏は、
 「〔あすこの田はねえ〕」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」の三篇は、農民への献身者としての生き甲斐や喜びが明るくうたいあげられているようにも見える。<*1>
            <『新編宮沢賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)414pより>
と評しているし、中村稔は
 かれの「春と修羅」第一集から第四集にいたる作品の中で、もっともみごとな結実を示しているのは、「無声慟哭」の一連の挽歌であり、「和風は河谷いっぱいに吹く」を頂点とする作品群であろうと思われる。
              <『宮沢賢治』(中村稔著、筑摩叢書)12p~より>
と、「「和風は河谷いっぱいに吹く」を頂点とする作品群」も「もっともみごとな結実を示している」と極めて高く評価している。
 それではまず、その「作品群」の一つと中村が見なしているのであろう〈〔あすこの田はねえ〕〉だが、その中身は「詩ノート」の場合には
一〇八二  〔あすこの田はねえ〕    一九二七、七、一〇、
   あすこの田はねえ
   あの品種では少し窒素が多過ぎるから
   もうきっぱりと水を切ってね
   三番除草はやめるんだ
       ……車をおしながら
         遠くからわたくしを見て
         走って汗をふいてゐる……
   それからもしもこの天候が
   これから五日続いたら、
   あの枝垂れ葉をねえ、
   斯ういふふうな枝垂れ葉をねえ
   むしってとってしまふんだ
       ……汗を拭く
         青田のなかでせわしく額の汗を拭くそのこども……
   それから いゝかい
   今月末にあの稲が君の胸より延びたらねえ
   ちゃうどシャッツの上のボタンを定規にしてねえ
   葉尖を刈ってしまふんだ
       ……泣いてゐるのか
         泪を拭いてゐるのだな……
       ……冬わたくしの講習に来たときは
         一年はたらいたあととは云へ
         まだかゞやかな苹果のわらひをもってゐた
         今日はもう悼ましく汗と日に焼け
         幾日の養蚕の夜にやつれてゐる……
   君が自分で設計した
   あの田もすっかり見て来たよ
   陸羽一三二号のはうね
   あれはずゐぶん上手に行った
   肥えも少しもむらがないし
   植えかたも育ち工合もほんたうにいゝ
   硫安だってきみがじぶんで播いたらう
   みんながいろいろ云ふだらうが
   あっちは少しも心配がない
   反当二石五斗ならもうきまったやうなものなんだ
   しっかりやるんだよ
   これからの本統の勉強はねえ
   テニスをしながら 商売の先生から
   きまった時間で習ふことではないんだよ
   きみのやうにさ
   吹雪やわづかな仕事のひまで
   泣きながら
   からだに刻んで行く勉強が
   あたらしい芽をぐんぐん噴いて
   どこまで延びるかわからない
   それがあたらしい時代の百姓全体の学問なんだ
   ぢゃ さようなら
       雲からも風からも
       透明なエネルギーが
       そのこどもにそゝぎくだれ
             <『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)185p~より>
となっている。
 以前、この詩が書かれた下書稿のコピーを見たことがあるが、そこには菊池信一のメモがあったから、この詩に登場しているく「」とは多分彼のことだろう。となれば、賢治は石鳥谷好地の菊池信一の家、「東田屋」まで行ったときにこの詩を詠んだのだろうか。もしそうだったとすれば、菊池信一は花巻農学校を大正14年に卒業しているから、この詩が詠まれたであろう日付1927,7,10であれば彼はまだ17歳頃の少年だったはずだ。
 おそらく賢治はこの時に、その少年に
   陸羽一三二号のはうね
   あれはずゐぶん上手に行った
   肥えも少しもむらがないし
   植えかたも育ち工合もほんたうにいゝ
   硫安だってきみがじぶんで播いたらう
   みんながいろいろ云ふだらうが
   あっちは少しも心配がない
   反当二石五斗ならもうきまったやうなものなんだ
と声をかけ、褒めて励ましたのだろう。当時の稲作といえばその収穫量は普通反当二石前後だったから、それが二石五斗であったならば上出来である。そしてそもそも、「陸羽132号」とは肥料に適合する品種改良という逆転した対応によって生まれた品種(『岩手県の百年』(長江好道ら共著、山川出版)より)であり、施肥の仕方を間違わねばその収量が「反当二石五斗ならもうきまったやうなもの」という見通しは妥当なものであったであろう。ということからは逆に、この詩〈〔あすこの田はねえ〕〉には基本的には虚構はなかったであろうと推断できる。

「聖燈」の場合
 一方この詩は推敲されて、後に梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」として発表されたのだが、それは次のような
  稲作挿話(未定稿)
               宮 澤 賢 治
   あすこの田はねえ
   あの種類では
   窒素が余り多過ぎるから
   もうきつぱりと灌水を切つてね
   三番除草はしないんだ
      ……一しんに畔を走つて来て
         青田のなかに汗拭くその子……
   燐酸がまだ残つてゐない?
   みんな使つた?
   それではもしもこの天候が
   これから五日続いたら
   あの枝垂れ葉をねえ
   斯ういふ風な枝垂れ葉をねえ
   むしつて除つてしまふんだ
       ……せわしくうなづき汗拭くその子
          冬講習に来たときは
          一年はたらいたあとゝは云へ
          まだかゞやかな苹果のわらひをもってゐた
          今日はもう日と汗に焼け
          幾夜の不眠にやつれてゐる……
   それからいゝかい
   今月末にあの稲が
   君の胸より延びたらねえ
   ちゃうどシヤッツの上のぼたんを定規にしてねえ
   葉尖をとってしまふんだ
         ……汗だけでない
            涙も拭いてゐるんだな……
   君が自分でかんがへた
   あの田もすっかり見て来たよ
   陸羽百三十二号のはうね
   あれはずゐぶん上手に行った
   肥えも少しもむらがないし
   いかにも強く育ってゐる
   硫安だってきみが自分で播いたらう
   みんながいろいろ云ふだらうが
   あっちは少しも心配ない
    反当三石二斗なら
    もう決まったと云つていゝ
   しっかりやるんだよ
   これからの本統の勉強はねえ
   テニスをしながら商売の先生から
   義理で教はることでないんだ
   きみのやうにさ
   吹雪やわづかの仕事のひまで
   泣きながら
   からだに刻んで行く勉強が
   まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
   どこまでのびるかわからない
   それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ
   ではさようなら
      ……雲からも風からも
         透明なエネルギーが
         そのこどもに
         うつれ……
              <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
というものであった。
 そしてこの詩について境忠一は、
 この作品は、…(投稿者略)…彼の稲作指導の典型をなす作品であるといえる。「開墾」(昭2・3・27)「野の師父」(昭2・3・28)<*2>を経て、賢治の農村活動が稲作指導をとおして、ひとつの頂点を迎えたことを示している。
              <『評伝 宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社)293pより>
と高く評価している。
 さて、そこでこの2つを比べてみると


というようになっている。もちろんこうして比べてみて一番気になったところは、私の場合には
  〔あすこの田はねえ〕:二石五斗
  稲作挿話(未定稿)  :三石二斗
の違いだ。ということは、
  (三石二斗)/(二石五斗)=1.28
だから、その収穫予想高を3割弱「水増し」したことになる。 
 ところで、佐藤成氏の論考『賢治と「オリザ」』によれば、
5、「稲作挿話」
 賢治が農学校の教師、そしてまた「羅須地人協会」活動に南船北馬、流れる汗をしぼっていた頃の岩手県並びに稗貫郡の米の反収を見ると次の通りである。

             <『江古田文学45号』(江古田文学会、星雲社)より>
という。そこで、この表のデータを基にしてグラフ化すると、当時の稗貫郡の水稲反当収量の推移は下図のようになる。
《水稲反当収量の推移(大正10~昭和2年)》

したがって、当時の反当収量は2石前後であることが確認できるし、稗貫の場合岩手県の平均よりはいつでも多いということも読み取れる。そしてなにより反当3.2石というのは当時は夢のまた夢であったであろうことも、である。
 さてこうなると、賢治はどうして
  〔あすこの田はねえ〕:二石五斗
  稲作挿話(未定稿)  :三石二斗
というように書き変えたのだろうか。疑問と不安が湧いてくる。

『春と修羅 第三集』の場合
 そして実は、賢治は〈稲作挿話(未定稿)〉のみならず、『春と修羅 第三集』所収の〈〔あすこの田はねえ〕〉で既に次のように書き変えていたのだった。
一〇八二  〔あすこの田はねえ〕    一九二七、七、一〇、
   あすこの田はねえ
   あの種類では窒素があんまり多過ぎるから
   もうきっぱりと灌水を切ってね
   三番除草はしないんだ
      ……一しんに畔を走つて来て
         青田のなかに汗拭くその子……
   燐酸がまだ残つてゐない?
   みんな使つた?
   それではもしもこの天候が
   これから五日続いたら
   あの枝垂れ葉をねえ
   斯ういふ風な枝垂れ葉をねえ
   むしってとってしまふんだ
       ……せわしくうなづき汗拭くその子
          冬講習に来たときは
          一年はたらいたあとゝは云へ
          まだかゞやかなりんごのわらひを持つてゐた
          今日はもう日と汗にやけ
          幾夜の不眠にやつれてゐる……
   それからいゝかい
   今月末にあの稲が
   君の胸より延びたらねえ
   ちようどシヤツの上のぼたんを定規にしてねえ
   葉尖をとつてしまふんだ
         ……汗だけでない
            涙も拭いてゐるんだな……
   君が自分で設計した
   あの田もすつかり見て来たよ
   陸羽百三十二号のはうね
   あれはずゐぶん上手に行つた
   肥えも少しもむらがないし
   いかにも強く育つてゐる
   硫安だつてきみが自分で播いたらう
   みんながいろいろ云ふだらうが
   あつちは少しも心配ない
    反当三石二斗なら
    もう決まつたと云つていゝ
   しつかりやるんだよ
   これからの本統の勉強はねえ
   テニスをしながら商売の先生から
   義理で教はることでないんだ
   きみのやうにさ
   吹雪やわづかの仕事のひまで
   泣きながら
   からだに刻んで行く勉強が
   まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
   どこまでのびるかわからない
   それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ
   ぢやさようなら
      ……雲からも風からも
         透明なエネルギーが
         そのこどもにそゝぎくだれ……
              <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
つまり
  「詩ノート」所収の      〔あすこの田はねえ〕:二石五斗
  『春と修羅 第三集』所収の〔あすこの田はねえ〕:三石二斗
となっている。
 さて、ではなぜ賢治は反当収量の数値をこのように変えたのだろか。当時の平均の反当収量が2石前後、それが2.5石というのであればそれは嬉しいが、さらに3割弱の水増しをしてしまったのでは、
  (三石二斗)/(二石)=1.6
だから当時の平均収穫高よりも6割も多いことになるから嬉しさもさらに増すかもしれないが、逆に一体そこにはどれだけの真実味があったのだろうかと却って不安になってしまう。
 そして実は反当収量に関しての疑問は、中村が「「和風は河谷いっぱいに吹く」を頂点とする作品群」と評価したその〈和風は河谷いっぱいに吹く〉の推敲課程でも生じてくるのだがそれについては後ほど述べることにしたい。

<*1:註> 一方で天沢氏は、
 しかし「野の師父」はさらなる改稿を受けるにつれて、茫然とした空虚な表情へとうつろいを見せ、「和風は……」の下書稿はまだ七月の、台風襲来以前の段階で発想されており、最終形と同日付の「〔もはたらくな〕」は、ごらんの通り、失意の暗い怒りの詩である。これら、一見リアルな、生活体験に発想したと見られる詩篇もまた、単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟であることがわかる。
            <『新編宮沢賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)414pより>
と冷静に見極めており、私はこのことは常に留意せねばならないと、全くそのとおりだと思っている。
<*2:註> 一般に「野の師父」については、『新校本年譜』において「八月〔推定〕<一〇二〇 野の師父>」となっているように日付は付されていないと思うが、境ははっきりとこう断定している。境のことだからそれなりの根拠があるとは思うのだが。

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