みちのくの山野草

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二 イーハトーヴの土地、賢治の土地(苦悩)

2018-12-16 12:00:00 | 賢治渉猟
《『宮澤賢治』(國分一太郎著、福村書店)》
 
 さて國分一太郎は、
 質屋というところは、きっと貧乏な人たちがくるはずです。…(投稿者略)…それらの人びとのなかには、ついお金が返せなくなって、しかたなく田畑やそのほかの財産を手ばなしたものもおったでしょう。また荒物屋というのは、いなかでは、肥料や農機具などをあきなうお店ですから、百姓からそのお金をとれなくなったかわりに、田畑や家をとりあげてお金や財産をためたということもきいていたかもしれません。……①
           〈『宮澤賢治』(國分一太郎著、福村書店)29p~〉
とも述べていた。

 一方、当時の社会情勢<*1>はどうであったか。『昭和大凶作 娘身売りと欠食児童』(山下文男著、無明舎出版)等によれば、昭和2年に昭和金融恐慌があり、昭和4年には世界恐慌の煽りを受けて生糸価格は暴落したので養蚕農家は大打撃を受けた。そしてそれが切っ掛けとなって農業恐慌が起こり、しかも昭和6年の凶作もあったので、昭和5~6年頃の農山漁村はすっかり疲弊し、娘の身売り・欠食児童・一家離散・離村が日ごとに増加していったという。したがって、國分が指摘している〝①〟はそのとおりであったことの蓋然性が低くはない。
 また、この時の農業恐慌の際などに抵当に入れていた土地等を宮澤一族から取り上げられたという話を私も遠野のある方から直接聞いている。しかもその方は、取られて悔しかったり恨みがましく思っていたりしているのだが、そのことを宮澤一族に知られることを今でも恐れていた。
 あるいはまた、花巻から釜石へ行く際には宮澤一族の土地だけを通って行けるという話も聞く。そしてそれらの土地は、借金の形として取り上げられたものだともいう。
 そこでよくよく考えて見ると、そもそも賢治の家は質屋や古着商であり、農家でもなかったのだから本来は田畑等は有していなかったはずだ。ところが、父の政次郎は大正4年当時で既に田畑1町強、山林原野が10町あった<*2>という。すると、これらの土地は、やはり「ついお金が返せなくなって、しかたなく田畑やそのほかの財産を手ばなしたものもおった」という蓋然性もかなり高いものとなる。

 もちろん、國分は〝①〟は推測であると言っているのであり、「ついお金が返せなくなって、しかたなく田畑やそのほかの財産を手ばなしたものもおった」とか「いなかでは、肥料や農機具などをあきなうお店ですから、百姓からそのお金をとれなくなったかわりに、田畑や家をとりあげてお金や財産をためた」<*3>とかが事実であったといっている訳ではない。だがしかし、そのような噂が立っていたということについてはもはや想像に難くない。おのずから、そのような噂話〝①〟等を賢治が耳にしていた可能性は極めて高かろう(それは、賢治は質屋家業を嫌悪し、跡を継ぎたくなかったといわれていることからも窺える)。
 だとすれば、賢治は「賢治は質屋家業を嫌悪し、跡を継ぎたくなかった」ということは私にも十分に理解できるし、そのことに賢治がかなり苦悩していたということもまたそのとおりであったに違いない。だから私は賢治に同情を禁じ得ない(なお、それに伴って、清六も苦悩していたであろうことも容易に察することができる)。

<*1:註> 少し調べてみると、1927(昭和2)年から始まった昭和金融恐慌により日本は慢性的な不況が続いていた。そこへ、1929年にウォール街で起こった株価大暴落による世界恐慌の荒波が日本にも諸に襲いかかった。そこでその対策として行った1930(昭和5)年1月の金解禁ではあるが、皮肉なことに実質的には円の切り上げとなって輸出は激減してしまい、同3月には株式市場が暴落して生糸・農産物等の価格は急落したと云う。
 当時の日本の農村には米と繭の生産で成り立っていた農家が多かったから、アメリカへの生糸輸出激減と米価の暴落というダブルパンチで日本の農村は大きな打撃を受けることになってしまった。そこへ輪をかけたのが朝鮮からの米の大量輸入。これでは農家は堪ったものではない。
 悪いことは重なるもので、そこへ襲いかかったのが1931(昭和6)年の東北の凶冷だ。直前の凶冷年(大正2年)の作況指数66等に比べれば、昭和6年のそれ92(前述の『岩手県農業史』より)は数値的にそれほど悪くはない。しかし、先のダブルパンチ等に見舞われていた状況下でのこの凶冷は泣きっ面に蜂だ。これが岩手の農村を疲弊のどん底に引きずり込んでいったのだろう。そしてついには、少なからぬ農家に多くの欠食児童が生じたり、貧すれば鈍すで、泣く泣く娘の身売りをするという非人道的な行為にさえ及んだりしたのであろう。
<*2:註> 大正4年の「岩手紳士録」に、
   宮沢政次郎 田五町七反、畑四町四反、山林原野十町
   <『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)272p>
とある。
<*3:註> 平成25年に行われた『宮沢清六展』によれば、賢治の生家は弟の清六が大正15年3月31日に除隊になると、質・古着商を止めて宮沢商会を開業し、建築材料の卸と小売、モーター、ラジオ、そして後に自動車部品、タイヤなども販売をし、戦時下の困難な時期を越えて、昭和24、25年頃まで営業ということであった。したがって、上掲の記述によれば、「肥料や農機具などをあきなう」荒物屋であったとは言い切れない。
 なお、佐藤司著『今日の賢治先生』によれば、「大正15年3月31日」について、
 弟清六は除隊し、この同じ日に家業を受け継いだが、五月、古着・質商をやめ宮澤商会をおこした。建築材料卸小売り(鉄材、セメント、釘、針金など)さらにモートル、ラジオなども扱った。後には自動車部品、タイヤなども販売した。一九四二年まで一七年間経営した。
            <『今日の賢治先生』(佐藤司著)136pより>
と述べている。したがってこちらの場合は、宮澤商会は昭和17年に廃業したということになる。先の「昭和24、25年頃まで営業」と矛盾する。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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