宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

昭和二年の上京(三ヶ月間のチェロ猛勉強)

2017年01月09日 | 常識でこそ見えてくる














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*****************************なお、以下はテキスト形式版である。****************************
  昭和二年の上京(三ヶ月間のチェロ猛勉強)
 さて先の考察によって、賢治が澤里一人に見送られながら上京したことを裏付ける典拠として最もふさわしいのは、初出である『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)所収の「澤里武治氏聞書」であることがわかった。そして、この内容と『岩手日報』の連載の「宮澤賢治物語(49)セロ(一)」とは整合性があって、何ら矛盾もない。
 ところが現実には、この連載が単行本化される際に、連載では、
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。
であった澤里武治の証言が、単行本化された『宮沢賢治物語』においては、
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。
となっていて、関登久也以外の何者かの手によって改竄されていたことが分かった。
 さて、それは何故だったのだろうか。少なくとも言えることは、前者ならば意味がすんなり解るが、後者はそうではなく、意味を攪乱させることができるということである。そしてそれ以上のことは今のところ私には殆ど分からないが、一つだけ、この両者に出てきている「宮沢賢治年譜」が大きなヒントをくれる可能性があ
りそうだ。
 そこでまずは、当時の「宮沢賢治年譜」等を調べて、関連する2項目「昭和2年9月の上京」と「昭和3年1月の身体衰弱」についてピックアップしてみると以下のようなリストができる。
   【「宮澤賢治年譜」リスト】
(1) 『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和17年9月)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」
昭和二年  三十二歳(二五八七)
 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(二五八八)
 一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
(2) 『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和22年7月、第四版)所収「宮澤賢治年譜」
昭和二年  三十二歳(一九二七)
△ 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を制作す。
昭和三年 三十三歳(一九二八)
△ 一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より、過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表す。
(3) 『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和26年3月発行)所収「宮沢賢治年譜 宮澤清六編」
昭和二年  三十二歳(一九二七)
 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(一九二八)
 一月、肥料設計、作詩を継続、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊による栄養不足にて漸次身体衰弱す。
(4) 『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月、第三版)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」
昭和二年 三十二歳(二五八七)
 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(二五八八)
 一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
(5) 『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年6月)所収の「年譜 小倉豊文編」
昭和二年(1927)  三十二歳
 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作。
昭和三年(1928) 三十三歳
 一月、肥料設計。この頃より漸次身體衰弱す。

……昭和31年1月1日~6月30日 関登久也著「宮澤賢治物語」が『岩手日報』に連載)……

(6) 『宮澤賢治全集十一』(筑摩書房、昭和32年2月)所収「年譜 宮澤清六編」
昭和二年(一九二七)  三十二歳
 九月、上京して詩「自動車群夜となる」を創作した。
昭和三年(一九二八)  三十三歳
 肥料設計、作詩を續けたが漸次身體が衰弱して來た。
(7) 『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、昭和41年3月)
    記載なし。
(8) 『宮澤賢治全集第十二巻』(筑摩書房、昭和43年12月)所収「年譜 宮澤清六編」
昭和三年(一九二八)  三十三歳
 肥料設計、作詩を續けたが漸次身體が衰弱してきた。
 ただし、旧字体が使われていることから推して、ここは以前のものをそのまま使ったと思われる。
(9) 『校本 宮澤賢治全集 第十四巻』(筑摩書房、昭和52年10月)
    記載なし。
(10) 『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房、平成13年12月)
    記載なし。

 このように並べてみるとまず第一に言えることは、関登久也の「宮澤賢治物語」が昭和31年に『岩手日報』に連載される以前の「宮澤賢治年譜」のいずれにおいても、
 昭和2年の賢治については:九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。……①
という内容が記載されていたのだが、この新聞連載の時期とほぼ相前後してこの記載事項が消滅していったという不思議な現象が起こっていたということである。つまりこの連載をほぼ境として、それ以降、賢治は「宮澤賢治年譜」上では昭和2年には上京していなかったことになっていったということである。
 その第二は、同じくそれまでは、
 昭和3年の1月において賢治は:過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
とあったのが、ほぼ時を同じくしてこの項目も消え去ってしまったことである。
 したがって、
 関登久也の「宮澤賢治物語」が新聞連載された頃を境として、それまで通説になっていた「賢治年譜」が大きく書き変えられ、澤里の証言が当てはまらないような新たな「賢治年譜」が作られていった。
という見方ができることになる。
 なお注意深く見てみれば、具体的には「(6) 昭和32年の「宮沢賢治年譜」」がその境目であり、過渡期と言えそうだ。なぜならばそれまではこれらの二つの事項「上京、詩「自動車群夜となる」を創作す」及び「漸次身體が衰弱してきた」についてはそれぞれ「九月」「一月」と月が限定されて明記してあったのに、(6)では後者の「一月」が明記されず、それ以降はいずれの事項そのものまでもが消え去っているからである。
 ということは、この「昭和32年」とはもしかすると賢治周辺で何か重大なことが起こっていた年だったのであろう。実際、澤里は初出では言及していない「昭和二年には先生は上京しておりません」の一言が、昭和31年の『岩手日報』紙上連載の「宮澤賢治物語(49)」で唐突に登場しているということは、そこに何者かによる企てがあったと常識的には推測されるだろう。
 なぜならば、澤里は「宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません」と述べているし、上掲のリストによれば、少なくとも31年以前の「賢治年譜」の場合にはいずれも皆前頁の〝①〟と同じ内容の記載となっているから、この時に澤里が見せられていた「賢治年譜」は従前公になっていたもとのは異なるもの、すなわち「昭和二年に賢治は上京していない」となっている、特異なそれ(すなわち、現在流布しているような『賢治年譜』)を見せられていたということになりそうだ。だから、そのことに対する無理強いと苛立ちが澤里をして「どう考えても」の一言を書かせしめたのだと推理すれば、すんなりとことの顚末が理解できる。

 そこでなおさらのこと、『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)所収の、初出であるところの「澤里武治氏聞書」の信憑性が最も高いであろうことが導かれるので、先の澤里の証言内容はほぼ歴史的事実だと私は確信できたから、〝「大正15年12月2日の上京」の牽強付会〟において検証できたところの、
〈仮説3〉賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、しばらくチェロを猛勉強したがその結果病気となり、3ヶ月弱後の昭和3年1月に帰花した。
の妥当性をさらに確信できたので、『現 賢治年譜』は、
・大正15年12月2日:柳原、澤里に見送られて上京。
・昭和2年11月頃:霙の降る寒い夜、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」と賢治はひとり見送る澤里に言い残して、チェロを持って上京。
・昭和3年1月:滞京しながらチェロの猛勉強をしていたがそれがたたって病気となり、帰花。漸次身体衰弱。
というような修訂が必至だと改めて確信した。つまり、巻末の《表2『修訂 宮澤賢治年譜』》のようにならなければならないのだと。
 なお、この最後の項目、「・昭和3年1月:……漸次身体衰弱」を私が何故書き加えたのかというと、それはかつての「賢治年譜」にはおしなべて載っていた「昭和三年 一月……漸次身体衰弱す」に倣って復活したからである。しかもかつてはどの「賢治年譜」にあったこの記載が、ある時を境にして消えたのだがその理由が一切述べられてこなかったからである。
 もちろんこれで、《表1『現 宮澤賢治年譜』》であれば「解消困難な「三か月間の滞京」という難題」があったのだが、《表2『修訂 宮澤賢治年譜』》であればすんなりと「三か月間の滞京」を当てはめることができるので、難題はあっけなく解決できる。
 そして、《表2『修訂 宮澤賢治年譜』》であれば、同じく巻末の《表3下根子桜時代の詩創作数》における、昭和2年10月~同3年3月の詩の創作の空白期間も腑に落ちる。なぜなら前掲したように、その期間は澤里武治が、
 滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
と伝えているからである。つまり、チェロの猛勉強で詩を詠む暇さえもなかったと解釈すればすんなりと理解できるからである。
 それからもう一つ傍証となりそうなものがある。それは、『年譜 宮澤賢治伝』の中の次のような書簡である。
昭和三年 (一九二八) 三十二歳
一月十六日 新潟市旭町二ノ五二四一 『詩人時代』編集部あて書簡
 ――新年おめでたう存じます。お詞の詩らしきもの、とにかく同封いたしました。他にぴんとした原稿澤山ありましたらしばらくお取り棄てねがひます。病気も先の見透しがついて参りましたし、きつと心身を整へて、今一度何かにご一所いたしますから。乍末筆新歳筆硯の御多祥をお祈りあげます。十六日
 吉野信夫様
『詩人時代』は昭和六年(一九三一)五月創刊…
  <『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、
昭和41年)、184p~より>
つまり、昭和3年1月16日付書簡からは、この頃の賢治は「病気も先の見透しがついて参りました」という体調にあり、〈仮説3〉の中の「チェロを猛勉強したがその結果病気となり、3ヶ月弱後の昭和3年1月に帰花した」を裏付けてくれる。よって、〈仮説3〉についての妥当性がますます増したので、これで〈仮説3〉は今後反例が提示されない限りという限定付きの「事実」であると自信を持って言えるようになった。

 さりながら一方で、何故何者かの手による証言の改竄や、牽強付会な証言の使い方がなされたのだろうかということに、憤りを否定できない。常識的には前掲の澤里の証言、
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…(筆者略)…滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
 <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、
昭和23年)、60p~>
に不都合な部分があったからだ、ということになるだろうが、どうも釈然としない。
 さて、では「不都合な部分があったからだ」ったとするならば一体何が不都合であったのかというと、『岩手日報』連載の、
   宮澤賢治物語(49)
    セロ(一)
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京、タイピスト学校において…(筆者略)…言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
        <昭和31年2月22日付『岩手日報』)より>
の中の、改竄前の当該個所である「宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません」が示唆してくれていそうだ。
 まず、澤里は「昭和二年には先生は上京しておりません」ということを訝っているということがわかる。一方で、その当時のほぼ全ての「賢治年譜」に、昭和2年には少なくとも上京しているということが載っている訳だから、まずは、
(ⅰ) 賢治が昭和二年に上京していたということが不都合であった。
ということが先ず一つ論理的には導かれるだろう。そして実際、かつての「賢治年譜」とは違って、『現 賢治年譜』等においては昭和2年に賢治は上京していないことになっている。
 それからもう一つある。それは、『現 賢治年譜』は澤里の証言を一部用いて大正15年12月2日の上京の典拠にしているわけだが、その証言の中の「少なくとも三ヵ月は滞京する」については完全に無視していることが教えてくれる。つまり、
(ⅱ) 賢治は昭和二年十一月頃、「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する」と言い残して上京したはずだが、この時の「三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました」ということが不都合であった。
ということがさらにもう一つ導かれるだろう。そして、このことはかつてのどの「賢治年譜」にも載っていた「昭和3年1月:過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す」が「現賢治年譜」から消えてしまったこととも符合する。そこで逆に、
 賢治は昭和2年11月頃から約3ヶ月間滞京してチェロを猛勉強したが、それが祟って病気となり昭和3年1月に帰花した。
ということを隠したかった、という有力な見方が浮かんでくるし、実際このような滞京や帰花は『現 賢治年譜』には書かれておらず、まるで「知らぬ顔の半兵衛」を決め込んでいるみたいだ。
 ところで実は、賢治のチェロは全く上達しなかったということは「知る人ぞ知る」ところであり、この「3ヶ月間の滞京」は客観的には無意味なそれであり、老農とか聖農とさえも讃えられる「羅須地人協会時代」の賢治にとっては全くそぐわないことであるから、人によってはこのことをできれば無理矢理隠してしまいたくなるのも道理である。そして実際に、澤里の証言を恣意的に使って大正15年12月の上京の典拠としている『現 賢治年譜』はその牽強付会によって、「解消困難な「三か月間の滞京」という難題」を解消できずに抱え込んでしまっている。いみじくもこの無茶が、「無理矢理」がそこにあるということを示唆している、と私には見える。

 したがって、私からすればこの〈仮説3〉は何ら荒唐無稽でもないのだが、周りからはそんな仮説は荒唐無稽だとかなり言われるだろうなと思いつつも、このことなどについて拙ブログおいて〝「賢治の十回目の上京の可能性」〟というシリーズで投稿した。するとその最終回「10回目の上京の別な可能性(余録)」に、入沢康夫氏から次のようなコメントを頂いた。
祝 完結 (入沢康夫)2012-02-07 09:08:09「賢治の十回目の上京(=賢治昭和二年の上京:筆者註)の可能性」」に関するシリーズの完結をお慶び申します。「賢治と一緒に暮らした男」同様に、冊子として、ご事情もありましょうがなるべく早く上梓なさることを期待致します。
しかも、入沢氏はご自身のツイッター上で、
入沢康夫 ‏@fladonogakobuta · 2012年2月6日
「みちのくの山野草」http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku というブログで「賢治の10回目の上京の可能性」という、40回余にわたって展開された論考が完結しました。価値ある新説だと思いますので、諸賢のご検討を期待しております。
とツイートしていることも偶々私は知った。
 そこで私は、先の〈仮説3〉に対しての強力な支持を頂いたと思い、それ程荒唐無稽なことでもないのかと自信も持てたし、入沢氏は出版を慫慂して下さっているのだと私は受け止めた。これが、〝「賢治の十回目の上京の可能性」のシリーズ〟を、『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』というタイトルの一冊の本にして平成25年2月に自費出版した大きな訳だった。

  後日談
 ところで、前掲拙著出版のおおよそ8ヶ月後頃から、「宮沢賢治奨励賞受賞者」のお一人H氏は、『鈴木さんの「賢治昭和2年上京説」は、なかなかはっきりとは否定しにくいというのが現状のようです』と認めつつも、
 ただ私としては、次に述べるようなことから、やはりこの仮説は成立しにくいのではないかと考えているところです。(それはなぜかというと)、沢里武治の(訂正前の)証言をほぼ唯一の根拠として、全体が「一本足で」立っている形なので、こうなるとその存立はやや危うい感じもしてきます。
と主張する、「仮説検証型研究」の何たるかをごご存じないのではなかろうかと思われる、未だかつて私は聞いたこともない「一本足で」理論を持ち出す無茶振りのコメントや、あたかも「その取り巻きと思われる方々」から拙ブログにクレームが執拗に寄せられるようになった。また、ツイッター上でも私を面白おかしく誹謗中傷するようなやりとりが彼らの間で行われるようになっていった。
 実はかつて、賢治についての「真実」を綴ったある人が、それを賢治周縁のある人に見せたならばその人からものすごい圧力を受けた(その構図はこの時の私の置かれた状況にも似ている)ということを私は知っている。そして、彼はその理不尽な「圧力」に対して無念さを抱きつつも、書き溜めていた原稿を焼き捨て、万止むを得ずその後は沈黙せざるを得なかった(したがって、これは「ヒドリ」問題を言っているわけではなく、その人は除いてのこと)という。
 そうなってしまうと、当時はそのような「真実」を公にする手段や場がもはや他にはなかったであろうから、当然そのような「真実」はこれまで知られることなく今に至っているであろう。ところが今の時代はその頃とは違う。今は理不尽な「圧力」にも対抗できるこのようなブログという手段もある。しかも、私はそのような人の無念さを代弁しているのかもしれないということにふと気が付いたことが、このクレーマー達の嫌がらせに屈しなかった大きな理由だ。
 それからそのもう一つの大きな理由は、ついにはその「宮沢賢治奨励賞受賞者」からの、「正義のためと思って戦っていたつもりが、知らないうちに「フォースの暗黒面に堕ちていた」ということになりますが」というような、どうも私は脅かされているのかなと感ずるようなコメントや、あたかも「その取り巻きと思われる方々」からの、匿名性をいいことに正直不愉快な、あるいは脅しているのかなと感ずるようなコメントまで頂くようになったので、私も止むを得ず先に述べたような拙著出版の経緯、
 この私の「賢治昭和二年上京説」に対しては著名な宮澤賢治研究家のお一人が、この説を私が本ブログに掲載し終えた際に、
「賢治の十回目の上京(=賢治昭和二年の上京:鈴木註)の可能性」に関するシリーズの完結をお慶び申します。「賢治と一緒に暮らした男」同様に、冊子として、ご事情もありましょうがなるべく早く上梓なさることを期待致します。
というコメントを寄せて下さって、その出版を薦めて下さったからこの『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』を出版したのです。
をクレーマーに伝えたところ、そのことによって、それ以降クレーマーからの執拗なコメントがピタリと止んだことだった。
 そしてもうお分かりのように、その際にクレーマーたちにはお名前を明かさなかったこの「著名な宮澤賢治研究家のお一人」とは、もちろん入沢康夫氏その人である。
***************************** 以上 ****************************

《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』             ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)         ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』    ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』   ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』



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