みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

第一章 「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い (テキスト形式)後編

2024-03-19 16:00:00 | 賢治渉猟
 抜きがたい「農民蔑視」
 さて私個人としては、先の仮説〝②〟が成り立つとしたならば、賢治は甚次郎には「小作人たれ」と強く迫ったのだが自分自身は小作人になることもせず、田圃を耕すこともしなかったということの了解ができるので、つまり賢治からすれば、甚次郎に対しては「小作人たれ/農村劇をやれ」なのだが、自分に対してはそうではないというダブルスタンダードがあったのだと解釈すれば今までの疑問はほぼ氷解するのであった。
 ただし、もちろんそんな基準はアンフェアだから納得はできないのだが、賢治にとってはそのようなことは埒外のことであったということなのであろう。だからこそ逆に、賢治はあのような素晴らしい作品を沢山残せたのだということになるのかもしれない。凡人の常識的な倫理観で天才賢治の言動を論うことは、どうやらもともと無意味なことのようだ。
 さりながら、そのような賢治が凡人の眼から見て(つまり常識的に考えて)どのように評価されるかを一度は検証しておくことも無意味なことではなかろう。まして、ここまで賢治のことを少しく調べてみた限りでは、私の眼にはそのようなことが今まであまり為されてこなかったと映るからである。
 †農民蔑視
 では、なぜ賢治は甚次郎には「小作人たれ」と強く迫りながら、賢治自身は「小作人」にはならなかったのかということをもう少し別の観点から見てみよう。
 たまたま手に取った『太陽 5月号 No.156』に宮澤賢治の特集があり、その中の特集対談において肥料設計等に関連した次のような内容も話し合われていた。
T だけれども、たとえば農民に肥料相談をし肥料設計をしてやっている宮沢賢治と、童話の主人公の名前を何回も書き直して苦労して原稿を書き直している宮沢賢治との間には当然どこかで葛藤があると思うのね。それが私にとって、たいへんドラマティックに見えるんだけれども。それは農民なんかずるいのを知っているわけよ。田舎の人だから。だから自分の教えてあげた肥料でうまいこといったら、先生様だし、それが失敗したらなんだといって、ジャガイモ一つもくれないようなね。
A それはもう当りまえですよ。
T そいうことを知っているはずでしょう。
A もちろん知っていますね。
<『太陽5月号 No.156』(平凡社、昭和51年4月発行)94p >
 私はこの二人(A:宮澤賢治研究の第一人者、T:女流作家)のやりとりを知って、とりわけ作家T氏の『それは農民なんかずるいのを知っているわけよ。田舎の人だから』という発言等に遭って、びっくりした。
 まずそれは第一に、T氏はこのように農民のことを見ているのかということに対してである。せめて心のうちで
  ・農民なんかずるい
 ・それは田舎の人だから
と思っているのであればまだしもだが、このような決め付け方と論理で公の場でかような発言をし、しかもそのことを活字にして世に送り出していたということを当の農民が知ったならば、農民がどう感ずるだろうかということは明らかなことであり、そのことが心配になったからだ。またもちろん、人間がずるいかずるくないかをその職業のくくりで決めつけられたのではたまったものではなかろう。
 その上、言葉に対して敏感なはずの作家が『農民はずるい』ではなくて『農民なんかずるい』というように表現しているからである。この「なんか」の一言からT氏の「農民」に対する蔑視がいかようなものかがほぼわかる。さらには、その理由が「田舎の人だから」とT氏は決めつけていることになる。はたしてこのような倫理観や論理でよいのだろうか。
 第二に、そのことをA氏が否定していないことにもである。ただし、A氏の『それは当たりまえですよ』とは『農民なんかずるい』に対してではなくて、『うまいこといったら、先生様だし、それが失敗したらなんだといって、ジャガイモ一つもくれない』ということに対して述べたことだったのだということであれば多少は私の心は軽くなるが。
 そして第三に、賢治は「そういうことを知っている」と二人はそれぞれ推測し、断定していることにである。なぜなら、ここでの「知っている」とは会話の流れから言って『それは農民なんかずるいのを知っているわけよ』の「知っている」であり、そしてそれはとりもなおさず、
 農民なんかずるいのを知っていた。それは農民は田舎の人だからである。……③
と賢治も農民を見ていたとこの二人は言っていることになる、と私には思われるからである。どうも、そこには抜きがたい「農民蔑視」が賢治にもあったということをこの二人は当然の如くに認めていると思えるからである。
 †賢治にもそれはあった
 さりながらよくよく思い返してみると、たしかに賢治もまた〝③〟と見ていた節があり、彼にも抜きがたい「農民蔑視」があったことは否めない。それは、例えば次のような詩を読み直してみれば、そのような点が賢治にもあったことを否定しきれないからだ。
  七三五  饗宴
                  一九二六、九、三、   酸っぱい胡瓜をぽくぽく嚙んで
   みんなは酒を飲んでゐる
    ……土橋は曇りの午前にできて
      いまうら青い榾のけむりは
      稲いちめんに這ひかゝり
      そのせきぶちの杉や楢には
      雨がどしゃどしゃ注いでゐる……
   みんなは地主や賦役に出ない人たちから
   集めた酒を飲んでゐる
    ……われにもあらず
      ぼんやり稲の種類を云ふ
      こゝは天山北路であるか……
   さっき十ぺん
   あの赤砂利をかつがせられた
   顔のむくんだ弱さうな子が
   みんなのうしろの板の間で
   座って素麺をたべてゐる
     (紫雲英植れば米とれるてが
      藁ばりとったて間に合ぁなじゃ)
   こどもはむぎを食ふのをやめて
   ちらっとこっちをぬすみみる
<『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)24p >
  一〇三五  〔えい木偶のぼう〕
                  一九二七、四、十一、   えい木偶のぼう
   かげらふに足をさらはれ
   桑の枝にひっからまられながら
   しゃちほこばって
   おれの仕事を見てやがる
   黒股引の泥人形め
   川も青いし
   タキスのそらもひかってるんだ
   はやくみんなかげらふに持ってかれてしまへ
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)122p>
 前者では、「下根子桜」に移り住んだ直後に詠んだであろうその出だしの「酸っぱい胡瓜をぽくぽく噛んで/みんなは酒を飲んでゐる」からそれを感じ取れる。
 また、それから約一年が経ったというのに、その時に詠んだであろう後者からはズバリそれが読み取れる。この「えい木偶のぼう」も「黒股引の泥人形め」もともに近隣の小作人のようなある百姓のことであろうし、しかもあの〔雨ニモマケズ〕の「デクノボー」がここでは「えい木偶のぼう」と苦々しい思いを込めて詠み込まれているのである。まさに賢治の教え子小原忠の、
 櫻での生活は赤裸々に書き残されているのでそれを見れば一目瞭然で、過労と無収入のためかムキ出しの人間賢治が浮き出されている。
<『賢治研究13号』(宮沢賢治研究会)5p >
という評は、このようなことを指しているのかもしれないと私は思ってしまう。
 あるいは一方で、座談会「宮沢賢治先生を語る会」におけるK(高橋慶吾)の証言、
 (賢治は)純粹の百姓の中から藝術家は出來ないと云うてゐた。若し出たとすれば、それはその人の先祖が商人であつたとか、士族であつたとかさういう系統を引いた人なんだと云つた。
<『宮澤賢治素描』(関登久也著、共榮出版)249p>
 はたまた、名須川溢男の論文「宮沢賢治について」における川村尚三証言の中の
 農民は底にひそめた叛逆思想をもっていて、すくいがたいがとにかく今一番困ることに手助けしてやらねば……というようなことを言ったのも記憶している。
<『岩手史学研究NO.50』(岩手史学会)220p>
などを思い起こしてみると、賢治自身もやはり心の底では前頁の〝③〟のように、あるいは
   農民なんかずるい。とりわけ小作人は。
と捉えていたことは否めないようだ。そして、賢治の農民に対する姿勢は、あくまでも「手助けしてやる」という上から目線であったということもである。
 つまるところ、抜きがたい農民に対する蔑視が賢治にもあったということになりそうだ。だから当然、そのような立場になること、とりわけ「小作人」になるなどということは毛頭彼の頭の中にはなかったのだったと解釈すれば、すなわち、賢治からすれば、甚次郎に対しては「小作人たれ/農村劇をやれ」なのだが、自分に対してはそうではないというダブルスタンダードがやはりあったのだと解釈すれば今までの疑問はほぼ完全に氷解する。端的に言えば、甚次郎は「純粹の百姓」であり、それと違って自分は「先祖が商人」であるという抜きがたい階級意識が賢治にはあったのかもしれない。
 とはいえもちろんあの賢治のことだから、「羅須地人協会時代」にこのような抜きがたい農民蔑視があったことの重大さと深刻さに後々賢治は初めて気付き、自責と悔恨の念が次第にもたげてきて慙愧に堪えなかったはずで、そのことが賢治をして、
・「殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした」という謝罪の書簡(258)を伊藤忠一へ出させしめ、
・手帳に〔雨ニモマケズ〕を書かせしめ、
・柳原宛書簡(488)には「慢」の一字を書かせしめた。
のだという蓋然性がかなり高いのではなかろうかということを私は思い付く。
 そしてまさにそこにこそ人間賢治の「真骨頂」があり、素晴らしさがあるのだと私は確信する。葛藤と苦悩の果ての賢治にこそ私は人間的魅力を感じ、愛すべき賢治をそこに垣間見る。

 昭和二年は「ひどい凶作であつた」という誤認
 さて話は変わって、当時盛岡測候所長であった福井規矩三が「測候所と宮澤君」の中で
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p>
と述べているが、いわゆる『阿部晁の家政日誌』に記されている当時の天気から判断すれば、花巻周辺ではそんな「ひどい凶作であつた」とは言えなさそうだし、当時の新聞報道を見ても少なくとも花巻の稲作の作況と福井のこの証言との間には矛盾がある。そのことを以下で検証してみたい。
 まずは、昭和2年10月1日付『岩手日報』に岩手県の昭和2年の「第一回米作予想収穫高」の記事が載っているのでそれを見てみると次のように、
   本縣第一回米作豫想高 百六萬七千八十石
     平年作に比し一分一厘增収
 九月二十日現在…(筆者略)…豫想収穫高は水稲百五萬五千五百八十八石陸稲一萬一千四百九十三石
と報道されていて、前年に比せば、
計十一萬九千六百九石(一割三分)の增収を示せり
ともある。
 次に、同記事から稗貫及び隣の郡を抜き出して見ると、
        水   稲
    豫想石高 前年収穫高比増減 前年収穫高
 紫波 122,639石    29,192石 93,447石
 稗貫 109,879石     5,989石 103,890石
 和賀 114,668石     4,702石 109,966石
となっていた。紫波の場合は前年は旱害被害が甚大であったから、昭和2年は逆にかなりの増収見込みとなったのだろうし、稗貫の場合もそれなりの増収予想であったことがわかる。
 そして、11月12日付『岩手日報』に「第二回米作予想収穫高」が載っていて、それは次のようなものであった。
  本縣米作(第二回)豫想収穫高 百六萬九百五十二石        平年に比し七厘四毛增収
…本縣における十月末現在米第二回豫想収穫高は水稲百四萬八千三百二十四石陸稲一萬二千六百二十四石合計百六萬九百五十二石にして之を九月二十日現在第一囘豫想収穫高合計百六萬七千八十一石に比すれば六千百二十九石(五厘七毛)の減収を豫想されてゐる之は本年の稲作は概して草たけ徒長の傾向にあつたが九月下旬に至り多少の風雨の害を蒙り為に倒伏したるもの又は岩手、紫波、和賀、胆澤地方における稲熱病等の被害割合に多かつたためである…(筆者略)…前年五ヶ年平均収穫高百五萬三千百二十一石に比するも七千八百三十一石(七厘四毛)の増収の見込みである。
つまり、昭和2年の「第二回予想収穫高」は第一回のそれよりも少し減ったが、それでも前年よりも増収の見込みである。
 次にこの記事から稗貫等のデータなどを抜き出してみると、
            水稲収穫高
     第二回豫想  第一回豫想   比較増減
  紫波 118,887石  122,639石   △3,752石
  稗貫 110,881石  109,879石    1,002石
  和賀 113,035石  114,668石   △1,633石
ということだから、紫波や和賀では第一回の予想収穫高よりも第二回のそれは減少しているが、逆に稗貫の場合は収穫高の予想は増えていることがわかる。したがって、
 昭和2年の場合、隣接する和賀郡などでは稲熱病が猖獗してその被害が甚大であったが、稗貫の場合はそのようなことはなかった。
であろうということが予想される。
 ここで前年との比較をしてみる、
  第二回豫想 前年収穫高比増減  増収割合
  紫波 118,887石  25,440石    2割7分2厘増
  稗貫 110,881石  6,991石      6分7厘増
  和賀 113,035石  3,069石      2分8厘増
となっているので、稗貫の場合は前年より約6.7%程の増収だし、紫波は前年大干魃だったせいもあって約27.2%という大幅な増収、和賀にしても昭和2年は稲熱病の被害が甚大だという報道は目立つものの、郡全体としてはそれでも約2.8%の増収であることが導かれる。また、岩手県全体であっても、「平年に比し七厘四毛増収」、すなわち0.74%の増収ということになる。
 どうやら、福井規矩三の証言「昭和二年は…ひどい凶作であつた」は彼の勘違いだった蓋然性が極めて高くなってきた。
 実際、「昭和2年岩手県米実収高」が昭和3年1月22日付『岩手日報』に載っていて、
   本縣米實収高 平年作より八厘增
          前年比一割二分增
とあり、この報道からは
       作付面積  収穫高   反別収穫高
   昭和2年  54,904町 1,061,578石  1.9335石
   大正15年  53,804町  947,472石  1.7610石
   5年平均  53,705町 1,053,120石  1.9609石
ということが判るから
   1,061,578÷ 947,472=1.120
   1,061,578÷1,053,120=1.008
となり、たしかに新聞報道どおり
   前年比収穫高は1割2分の増収
   5年平均収穫高では8厘の増収
であり、「ひどい凶作であつた」わけでは全くない。
 ただし、反別収穫高で比べると
   1.9335÷1.9609=0.986 
となるので作況指数は99となっていて100を割るものの、
・県全体としては平年作より0.8%の増収
・県の作況指数は99であり平年作
であったことがわかる。
 ちなみに、稗貫とその周辺の郡では
            水    稲
    第二回豫想   実収高(粳+糯)  比較増減
   紫波 118,887石 109,301+9,016=118,317石  △570石
   稗貫 110,881石 101,485+9,652=111,137石   256石
   和賀 113,035石 100,371+10,949=111,320石△1,715石
となっているので、紫波郡や和賀郡は実収高が「第二回豫想」よりも減っているが、稗貫郡は逆に増えていることがわかる。これはおそらく、同報道によれば
 岩手、紫波、和賀、胆澤地方における稲熱病等の被害割合に多かつたためである
ということではあるが、この中に稲熱病の被害の多かった地方は「岩手、紫波、和賀、胆澤地方」とあるのでそこに「稗貫地方」が入っておらず、稗貫地方はその周囲の地方とは違って、先ほどの「予想」(42p参照)どおりやはり稲熱病による被害はなかったからだと判断できそうだ。逆に言えば、昭和2年の稗貫郡の稲作は天候に恵まれていたということになるだろうし、作柄は前年を結構上回っていたというこがこれでほぼ明らかである。
 具体的には稗貫郡の水稲については、
  (実収高111,137)-(前年収穫高103,890)=7,247(石)
   7,247÷103,890=0.0698
より、
昭和2年の稗貫郡の水稲の実収高は前年比6.98%もの大幅増収であった。
ということが確定した。
 したがって、先の「昭和2年岩手県米実収高」に基づけば昭和2年の水稲は県全体では平年作よりも0.8%の増収だし、稗貫郡のそれについては前年比約7%もの大幅増収だったことも今わかったから、福井規矩三の
 昭和二年は…ひどい凶作であつた。
という証言は、岩手県全体にせよ稗貫地方にせよいずれの場合にも全く当てはまらないので、こうなればこの証言は彼の全くの事実誤認であったと断定せざるを得ない。

 昭和二年は「非常な寒い氣候が續いて」という誤認
 さてここで『新校本年譜』を見てみると、その昭和2年7月に、
七月中旬(〈注十一〉) 「方眼罫手帳」に天候不順を憂えるメモ。「肥料設計ニヨル万一ノ損失は辨償スベシ」
 昔から岩手県では稲作に関して旱魃に凶作なしといい、多雨冷温のときは凶作になるという。
七月一八日(月) 盛岡測候所に調査に出向く(書簡231)。
七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状(書簡231)。
 福井規矩三の「測候所と宮沢君」によれば、「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
というような記述がある。
 たしかに「多雨冷温のときは凶作になる」は尤もなことだし、「稲作に関して旱魃に凶作なし」とは言い切れないということは先にその実例を知った(28p~32p参照)ところだが、それよりもここでもっと問題とせねばならないことは、福井のこの「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」という証言だ。まして福井は当時盛岡測候所長だったから、この証言を皆端から信じ切ってしまうだろうからなおさらに。
 そのせいでだろうか、各著者がその典拠を明らかにしていないので確かなことは言えないが、例えば
 私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。
 <『宮沢賢治 その独自性と同時代性』(翰林書房)173p>
という記述や
 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。
<『イーハトーヴの植物学』(洋々社)79p >
そして、
一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
<『宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p >
というような記述に出会う。
 つまり「一九二七年の冷温多雨の夏」や「昭和二年は…六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった」などという断定表現にしばしば出会う。
 しかしながら、福井の証言「昭和二年は…ひどい凶作であった」は歴史的事実とは言い難いことをつい先ほど実証したところであり、こうなると残りの「(昭和二年は)非常な寒い気候が続いて」の部分についても信頼度が危うくなってきたので検証してみる必要がありそうだ。
 そこでまずは、同年譜が「(昭和二年は)非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作」の典拠であるという福井の「測候所と宮澤君」を見てみると、
 昔から岩手縣では旱魃に凶作なしといふて、多雨冷溫の時は凶作が多いが、旱天には凶作がない。…(筆者略)…あの君としては、水不足が氣象の方から、どういふ變化を示すものであるかといふことを専門家から聽き、盛岡測候所の記錄を調べて、どういふ對策を樹てたらよいかといふことに頭を惱まされたことと思ふ。七月の末の雨の降り樣について、いままでの降雨量や年々の雨の降つた日取りなどを聽き、調べて歸られた。昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)316p~>
という記述があり、たしかにそこには「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であった」と述べていることを確認できる。
 しかも、賢治の『方眼罫手帳』にはたしかに天候不順を憂えているとも思われる次のようなメモ
△△気温比較表ヲ見タシ
△△今月上旬中ノ雨量ハ平年ニ比シ而ク(ママ)大ナルモノナリヤ
 日照量ハ如何
 風速平均は如何
△△本年モ俗伝ノ如ク海温低ク不順ナル七月下旬ト八月トヲ迎フベキヤ否ヤ
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)386p~>
もあるから、この福井の証言は素直に歴史的事実だったと思いたくなる。
 しかし、『新校本年譜』にあるとおりこのメモがこの年の「七月中旬」の記載であるというのであれば、冷静に考えてみると、このメモからは実はそれほど賢治が「それまでの天候不順やあるいは現状を憂えている」とは必ずしも受け取れるわけではなかろう。純粋に科学的な見地からの疑問と、そのための気象データを知りたいということを賢治は備忘的にメモしていたに過ぎないとも解釈できるからだ。だからこのメモから私が読み取れることは、「今後天候不順が起こるのだろうか」という程度のことを賢治は気に留めていたということである。
 それは、例えば農学博士卜蔵建治氏の『ヤマセと冷害』によれば、大正時代以降は大正2年の大冷害以降しばらく「気温的稲作安定期」が続き、
一九三一年(昭和六年)までの一八年間は冷害らしいもの「サムサノナツハオロオロアルキ」はなく気温の面ではかなり安定していた。むしろ暑い夏で…旱魃が多く発生している。
<『ヤマセと冷害』(ト蔵建治著、成山堂書店)15p >
ということだから、賢治のこの最後のメモ「本年モ俗伝ノ如ク海温低ク不順ナル七月下旬ト八月トヲ迎フベキヤ否ヤ」はこの当時は無用な心配であったことからも(この歴史的事実はよく知られていることのはずだし、賢治自身もこのことに当時気付かなかったはずがない)、賢治はそのことを気に留めていた程度であったということが裏付けられるのではなかろうか。
 実は、先に少し触れたように、当時湯口村の村長等を務めたこともある阿部晁はいわゆる『阿部晁の家政日誌』をつけているのだが、その日誌には日々の天気も記してある。そこでその日誌から昭和2、3年7月の天気について拾ってみると次頁の《表 昭和2年と3年花巻の7月の天気と降水量》の表のようになる。しかも、阿部晁の家は花巻の石神(あの鼬幣神社のある地域、花巻農学校の直ぐ近く)であるから、これらの天気は当時の花巻の天気と判断してほぼ間違いなかろう。
 よって同表によれば、昭和2年7月の上旬・月間は同3年に比べると雨量がやや多いとはいえ、田植直後の時期だからそれはそれほど「天候不順」とは見えない。それどころかこの表に従えば、昭和2年はこのとおりこの月は同3年に比べて見てもわかるように気温も高めだから、稲作にとっては歓迎すべきことであり、どうも福井の言うところの「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」と矛盾する。
 しかも、実はその福井自身が発行している『岩手県気象年報(大正15年、昭和2年、昭和3年)』(岩手県盛岡・宮古測候所)に基づいて大正15年~昭和3年の花巻の稲作期間の気温と降水量のデータをグラフ化してみると、それぞれ、48pの《図1 花巻の稲作期間気温》と《図2 花巻の稲作期間雨量》のようになる(これらは次頁の表のデータとも矛盾していない)。
 ちなみに、《図2》からは昭和2年の6月の田植時に雨量が少ないことが判るが、前年に比べればまだましであるし、七月には雨量も多い。また《図1》からは同2年は気温も高めであり、「羅須地人協会時代」3年間の中では一番高いのでこの年は稲作にとっては好ましい傾向の年だったと言える。
 一方で、岩手の農家が一番恐れているのが冷害だと思うのだが、一般に
    冷害=冷温多雨
という図式が成り立つ。がしかし、少なくともこの昭和2年はこれらのグラフ等からわかるように
    高温多雨
だから、この図式には当てはまらないのでその心配もない。つまり、福井自身がこの年報を通して、
 昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった
ということを否定していてるということになる。
 それでは一体歴史的事実はどちらかというと、記憶よりはもちろん客観的なデータから導かれる方であり、
 昭和2年の稲作期間の天候は決して「昭和二年は非常な寒い気候が続いて…」などということはなかった。
ということにならざるを得ない。そしてこのことは先にわかった、
 昭和2年の稲作は県全体では平年作よりも0.8%の増収、稗貫郡の場合は前年比約7%もの大幅増収だった。
によっても裏付けられる(43p参照)。
 したがって、福井の「測候所と宮沢君」における「昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」という記述は完全に勘違いであり、彼の事実誤認であったということにならざるを得ない。歴史的事実はそれどころか、
 昭和2年の稗貫郡の水稲は天候にも恵まれ、稲熱病による被害もそれほどなく、前年比約7%の大幅増収。また、
 
《図1 花巻の稲作期間気温》   《図2 花巻の稲作期間雨量》
県全体としても水稲は平年作より0.8%の増収だった。
ということが先にわかったところである。
 そしてまた、『岩手県農業史』(森嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)によれば、賢治が生きていた(賢治は明治29年生まれ、昭和8年歿)当時の冷害・干害等発生年は次表のごとくであり、
 〈冷害〉           〈干害〉
  明治21年         明治42年
  明治22年         明治44年
  明治30年         大正5年
 明治35年(39)       大正13年
 明治38年(34)       大正15年
 明治39年         昭和3年
  大正2年(66)       昭和4年
  昭和6年         昭和7年
  昭和9年(44)       昭和8年
  昭和10年(78)       昭和11年
       注:( )内は作況指数で、80未満の場合に示した。
前述した卜蔵建治氏の言説(〈注十二〉)とも符合している。
 したがって、賢治が「サムサノナツハオロオロアルキ」するようなことがもしあったとすれば、それこそ〔雨ニモマケズ〕をあの手帳に書いた昭和6年の大冷害の時であれば理屈上は可能だったはずが、その年の賢治は東北砕石工場花巻出張所長としての営業活動や、発熱・病臥のために実質叶わぬことであったということになるのではなかろうか。
 結局、『岩手県気象年報』『岩手県農業史』『阿部晁の家政日誌』もそして卜蔵建治氏も皆、「昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて」は事実誤認であることを教えてくれている。

〈注十一:本文44p〉実は、あくまでもこの「(昭和2年)七月中旬」は『校本全集』による推定であり、賢治がそう記していたわけではなかった。
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)698p>
〈注十二:本文49p〉ト蔵建治氏は次のように述べている。
 この物語(筆者注:「グスコーブドリの伝記」)が世に出るキッカケとなった一九三一年(昭和六年)までの一八年間は冷害らしいもの「サムサノナツハオロオロアルキ」はなく気温の面ではかなり安定していた。…(筆者略)…この物語にも挙げたように冷害年の天候の描写が何度かでてくるが、彼が体験した一八九〇年代後半から一九一三年までの冷害頻発期(図2・2)のものや江戸時代からの言い伝えなどを文章にしたものだろう。
<『ヤマセと冷害』(ト蔵建治著、成山堂書店)15p~>
 なお、この18年間の気温面の安定、いわば「冷害空白時代」については、『都道府県農業基礎統計』(加用信文監修)の「岩手県水稲反収」の推移や池田雅美氏の論文「岩手県における冷害と対策について」所収の「表2 水稲収量と冷害年の気象(岩手県)」等、あるいは当時の『岩手日報』の一年毎の「米実収高」の報道をコツコツ調べれば確認ができることである。

 昭和三年の「ヒデリ」
 さて、先の考察結果(33p参照)において述べたことだが、
 大正15年の「ヒデリ」による大干魃被害の際に賢治は一切救援活動をしなかった。
ということをもはや私は否定できなくなってしまったから、
 大正15年の賢治は「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」
ということをほぼ認めざるを得なくなった。
 では「羅須地人協会時代」全体を通じてはどうであったのだろうか。この時代に「ヒデリ」だったのは大正15年だけでなく、よく知られているように昭和3年の夏もそうであり、花巻一帯では約40日間ほども雨が一切降らなかったと云われている。したがって、この年の夏であれば賢治は「ヒデリノトキニ涙ヲ流シ」ていた可能性がある。
 例えば、昭和3年8月25日付『岩手日報』のには次のような記事、
 四十日以上打ち續く日照りに
    陸稻始め野菜類全滅!!
      大根などは全然發芽しない
        悲慘な農村
續く日照に盛岡を中心とする一帯の地方の陸稲は生育殆と停止の状態にあり両三日中に雨を見なければ陸稲作は全滅するものと縣農事試験場に於いて観測してゐる。
が載っているし
 また、昭和3年の『阿部晁の家政日誌』にも、
・昭和3年7月5日:本日ヨリ暫ク天気快晴
・同年9月18日:七月十八日以来六十日有二日間殆ント雨ラシキ雨フラズ土用後温度却ッテ下ラズ
 今朝初メテノ雨今度ハ晴レ相モナシ
 稲作モ畑作モ大弱リ
という記述がそれぞれあり、しかも、『宮野目小史』には、昭和3年の花巻の宮野目地区の天候の記録があり、
   昭和3年 7月18日~8月25日(39日間) 晴
<『宮野目小史』(花巻市宮野目地域振興協議会)20p >
ということだから、7月半ば頃から40日以上もの間花巻一帯では「ヒデリ」が続いたことはまず間違い。
 となれば、
 昭和3年の夏はものすごい「ヒデリ」の日々が続いていたから、賢治はこの年の「ヒデリノトキニハ涙ヲ流シ」ていた。
という可能性があり得る。
 また、この「ヒデリ」による被害は上段の新聞報道のとおりだろうし、
 盛岡だけでなく、花巻も同様に「陸稲始め野菜類全滅!!」であったであろうことはほぼ自明だ。
ということもまず間違いなかろう。
 一方で、時に云われる「二八年の天候不順による水稲の被害」についてだが、これが事実であったかどうかということになるとどうも危うい。
 というのは、次頁の《表 昭和3年6月~8月の花巻の天気》一覧表を見た限りではそのような天候不順があったとは思えず、水稲被害はまずなさそうだからである。それどころか逆に、「天候不順」というよりは水稲にはふさわしい良い天気が
          県の第一回予想収穫高
   稗貫郡 作付け反別 収穫予想高  前年比較
   水稲  6,326町  113,267石  2,130石
   陸稲   195町   1,117石 △1,169石
   合計  6,521町  114,384石  961石(0.8%)
だという。陸稲の収穫予想高は前年比較1,169石減であり、予想収穫高は前年の半分以下ということで激減している。がしかし、当時の稲作における稗貫郡の陸稲の作付け面積はほんの僅かにすぎない。具体的には、
   195÷6,521=0.03=3%
だから、同郡内の陸稲作付け割合は稲作全体のわずか3%にしか過ぎないこともわかるし、トータルすればその米の予想収穫高は前年の昭和2年よりも961石(0.8%)の増だ。
 しかも先に、
 稗貫郡の昭和2年の水稲は天候にも恵まれ、周りの郡とは違っては稲熱病による被害もそれほどではなく、昭和2年の稲作は少なくとも平年作を上回っていた。
と判断した方がより事実に近かったと言えるだろうということがわかっている(43p参照)から、このことを踏まえれば、
 昭和3年の稗貫郡の米の作柄は昭和2年よりももっと良く、少なくとも平年作以上であった。
とほぼ言えるだろう。
 それからもう一つ、この年のこの時期に賢治は「イモチ病になった稲の対策に走りまわり」と云われているようだが、この病気は「低温多湿」の場合に蔓延するものであり、仮に稲熱病
にかかった水稲があったにしても、この年の夏の稗貫地方は雨の日が殆どなかったから「多湿」であったとは言えず、蔓延の条件が成立しないので昭和3年の稲熱病による不作ということは稗貫地方では普通は起こり得ないと推測できる。
 したがって、昭和3年10月3日時点では
 一九二八年の夏たしかに稗貫は旱魃ではあったが、米の作柄は平年作以上であった。……④
とほぼ言えそうだ。
 では実際にはどうであったのであろうか。そこで昭和3年の県米実収高を調べてみたならば、昭和4年1月23日付『岩手日報』に載っていて、県全体では
     「昭和3年岩手県米実収高」
  水稲の反当収量は1.988石で前年比3.6%増収
  陸稲の反当収量は0.984石  〃 13.7(?)%減収
  全体の反当収量は1.970石  〃  3.3%増収
とあった。さらには
 最近五ヶ年平均収穫高(平年作)に比するときは4.1%の増収
であったと報じている。そして、同記事の中には岩手県の天気の概況などについて、
 …七月中旬に及び天候一時囘復し氣温漸次上昂して生育著しく促進し、分けつ數も相當多きを加へたり、然るに七月下旬に至り気温再び低下し出穂亦約一週間を遅延したり殊に二百十日以後の天候は稍降雨量多く縣南地方一般に稻熱病発生し被害甚大なるが如くに豫想せられたものの登熟期に入り、天候全く囘復して間もなく稻熱病も終息し結實(?)合に完全に行はれ豫想以上の収穫を見又陸稻は生育期に於いて縣下各地に旱害をこほむり、作況一般に不良にして作附段別の增加に反し前述の如き著しき減収を見るに至つた、今郡市別に米實収成績を示せば左の如し
岩手県米実収穫高
前五ヶ年平均 一、〇五二、九四〇石
昭和二年   一、〇六一、五七八石
大正十五年     九四七、四七二石
ということも報じられていた。
 したがって、「縣南地方一般に稻熱病発生し被害甚大なるが如くに豫想せられたものの登熟期に入り、天候全く囘復して間もなく稻熱病も終息し…豫想以上の収穫を見」とあることから、それが「豫想せられたものの」、実際昭和3年に、「縣南」に位置する花巻で稲熱病が蔓延したということはないということがはっきりしたから、前頁の「推測」が裏付けられた。
 ただし残念なことに、『岩手日報』は「郡市別に米實収成績を示せば左の如し」と述べていながら、実はその記載がないから稗貫郡の詳細はわからなかった。とはいえ前述したように、昭和3年10月3日付『岩手日報』の新聞報道によれば、
昭和3年の稗貫郡の米の予想収穫高は前年比〝961石増〟
であったのだが、明けて昭和4年1月23日付『岩手日報』によれば何と、
 県全体での実収高は〝34,836石増〟という大幅増収であった。
ということだから、稗貫郡以外がとてつもなく予想収穫高よりも増えたということは考えられない。まず間違いなく稗貫郡も予想より増えたであろうし、百歩譲っても、少なくとも作柄は前頁〝④〟を下回ることはないと判断できる(〈注十三〉)から、
 一九二八年の夏たしかに稗貫は旱魃ではあったが、米の作柄は平年作以上であった。
と今度は断定しても構わないだろう。
 したがって、前述したような
 天候不順による農作物の被害が賢治に自分の力の限界を感じさせた
とか、この時に賢治は
 イモチ病になった稲の対策に走りまわり
というようなことは、昭和3年の場合どうも事実であったとは言い難いようだ。
 なぜならば、前掲の《図1 花巻の稲作期間気温》《図2 花巻の稲作期間雨量》や《表 昭和3年6月~8月の花巻の天気》一覧表を基に昭和3年を概観すれば、田植の時期には3年間の中で最も雨量が多く、夏は「ヒデリ」だったし、その上8月~9月は雨量が最も少なかったのだから、少なくとも水稲の場合には「天候不順」どころか逆に、稲熱病蔓延の心配もなく、水稲にとってはとてもふさわしい年であったと言えるからである。だから、「イモチ病になった稲の対策のために走りまわ」ることは普通考えられない。
 もちろん、この年は「ヒデリ」による陸稲や野菜の被害はあったのだろうが、当時稗貫地方の稲作に占める陸稲の割合は以前述べた(52p参照)ように3%程だし、稲作全体としては平年作以上であったと前頁で判断できたのだから悪いとは言えず良い方だ。しかも、『日本作物氣象の硏究』(大後美保著、朝倉書店、579p)によれば、岩手の陸稲の反当収量は昭和2年1.33石、同3年0.98石、同4年0.29石ということだから、昭和3年の陸稲が極端に悪いわけでもなかった。したがって、稗貫地方の農民たちが「農作物の被害」で自分の力の限界を感ずることはほぼあり得ず、おのずから、「天候不順による農作物の被害が賢治に自分の力の限界を感じさせた」ということも考えにくい。
 どうやら、
 客観的には、賢治は昭和3年のお米の出来を心配して、「ヒデリノトキニ涙ヲ流シ」たりすることなどはなかった。
ということになりそうだ。

〈注十三:本文53p〉県全体の概況としての、昭和3年の「七月下旬に至り気温再び低下し出穂亦約一週間を遅延したり殊に二百十日以後の天候は稍降雨量多く」は稲作にとってはたしかに好ましくないものだが、翻って花巻はどうだったかというと、前掲の《表 昭和2年と3年花巻の7月の天気と降水量》《図1 花巻の稲作期間気温》《図2 花巻の稲作期間雨量》や《表 昭和3年6月~8月の花巻の天気》一覧から判断できるように、「七月下旬に至り気温再び低下し」とは言えそうにないし、「二百十日以後の天候は稍降雨量多く」についてもやはりそうとは言えそうにもない。

 昭和三年の賢治の稲作指導
 さて、客観的には昭和3年の「ヒデリノトキニ涙ヲ流シ」たりすることは賢治に必要がなかったと言えそうだということがこれでわかったのだが、稲作指導者という立場からは賢治が昭和3年の「ヒデリ」を心配して「涙ヲ流シ」たということはもちろんあり得るので、次はそのことを考察してみたい。
 この昭和3年の「ヒデリノトキ」には、賢治は、2年前の大正15年の赤石村等を始めとする紫波郡内等の「ヒデリ」による大旱魃被害があったので、田植時の「ヒデリ」を今度はとても心配していたと推測できる。それは15年の大干魃の際に賢治は何一つ救援活動をしていなかったからその悔いがあったであろうことと、その大干魃害被害の最大の原因は田植時に用水を確保できず、全く雨も降らなかったからである。
 ところが昭和3年の田植時に賢治は何をしていたのかというと、この推測に反して周知のように、
六月七日(木) 水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的をもって花巻駅発。仙台にて「東北産業博覧会」見学。東北大学見学、古本屋で浮世絵を漁る。書簡(235)。
六月八日(金) 早朝水戸着。偕楽園見学。夕方東京着、上州屋に宿泊。書簡(236)。
六月一〇日(日) <高架線>
六月一二日(火) 書簡(237)。この日大島へ出発、 伊藤七雄宅訪問?
六月一三日(水) <三原三部>
六月一四日(木) <三原三部> 東京へ戻る。
六月一五日(金) <浮世絵展覧会印象> メモ「図書館、浮展、新演」。 
六月一六日(土) 書簡(238)。メモ「図書館、浮展、築地」「図、浮、P」。  
六月一七日(日) メモ「図書館」「築」。
六月一八日(月) メモ「図書館」「新、」。
六月一九日(火) <神田の夜> メモ「農商ム省」「新、」
六月二〇日(水) メモ「農商ム省」「市、」
六月二一日(木) メモ「図書館、浮展」「図、浮、本、明」。
六月二四日(日) 帰花。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)>
ということである。
 よってこの年譜に従うと、この時期に「ヒデリ」に関して、
 大正15年の時とは違って今年はちゃんと田植はできるのだろうか。
とか、
 田植はしたものの雨が今年は降ってくれるだろうか、はたまた、用水は確保できるだろうか。
などということを賢治が真剣に心配していた、とはどうも言い切れない。なにしろ、農繁期のその時期に賢治は故郷にはしばらくいなかったからである。
 それでは賢治がしばしの滞京を終えて帰花した直後はどうであったであろうか。同じく『新校本年譜』によれば、
六月二四日(日) 帰花。
六月下旬〔推定〕〈〔澱った光の澱の底〕〉
七月三日(火) 菊池信一あて(書簡239)に、「約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。」とあり、また「約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして」という。…(筆者略)…村をまはる方は七月下旬その通り行われる。
七月初め 伊藤七雄にあてた礼状の下書四通(書簡240と下書㈡~㈣)
七月五日(木) あて先不明の書簡下書(書簡241)
七月一八日(水) 農学校へ斑点の出た稲を持参し、ゴマハガレ病でないか調べるよう、堀籠へ依頼。イモチ病とわかる。
七月二〇日(金) <停留所にてスヰトンを喫す>
七月二四日(火) <穂孕期>
七月 平来作の記述によると、「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教へられた事がある。…(筆者略)…」とあるが、これは七月一八日の項に述べたことやこの七、八月旱魃四〇日以上に及んだことと併せ、この年のことと推定する。
とある。
 そこで私は、2週間以上も農繁期の故郷を留守にしていた賢治はその長期の不在を悔い、帰花すると直ぐに
   〔澱った光の澱の底〕
   澱った光の澱の底
   夜ひるのあの騒音のなかから
   わたくしはいますきとほってうすらつめたく
   シトリンの天と浅黄の山と
   青々つづく稲の氈
   わが岩手県へ帰って来た
…(筆者略)…
   眠りのたらぬこの二週間
   瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来たが
   さああしたからわたくしは
   あの古い麦わらの帽子をかぶり
   黄いろな木綿の寛衣をつけて
   南は二子の沖積地から
   飯豊 太田 湯口 宮の目
   湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
   ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
   しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
   稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
   みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)283p~>
と〔澱った光の澱の底〕に詠んだのだと推測できたから、今までの私は、帰花後の賢治はさぞや稲作指導に意気込んでいたであろうとばかり思っていた。というのは、田植やそれが終わったこの時期はあの賢治ならばあちこち飛び回って稲作指導をしていたであろう時期であり、一方で肥料設計をしてもらった農民達は特にその巡回指導を首を長くして待っていた時期であるはずだからでもある。それ故にこそ、賢治は〔澱った光の澱の底〕を昭和3年6月下旬に詠んだという『新校本年譜』の推定は妥当だと以前の私は納得していた。
 ところが、伊藤七雄に宛てたというこの年の〔七月初め〕伊藤七雄あて書簡(240)下書㈡に、
 …こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・校異篇』(筑摩書房)>
ということが書かれているということをある時知った。それまでは、当時眼を患っていたと賢治が言っていたことは知っていたのだが、「しばらくぼんやりして居りました」ということを全く知らずにいたので吃驚した。
 そしてもしそうであったとするならば、この下書の「しばらく」という表現や「やっと」というそれからも、賢治が帰花直後の24日や25日にこの〔澱った光の澱の底〕を詠んだということはなかったであろうことが言えそうだ。このような「勢い」を帰花直後の賢治は持ち合わせていなかったであろうと判断できるからだ。この表現からは、帰花後の数日は何もせぬままに賢治ぼーっと過ごしていたという蓋然性が高い。
 しかも7月3日付書簡(239)に、
約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして
としたためているから、約束でさえも後回しにしていることが知れるので、7月初め頃もまだ賢治のやる気はあまり起きていなかったと言えそうで、「しばらくぼんやりして居りました」ことがこのことからも裏付けられそうだ。
 それはまた、賢治が
   さああしたからわたくしは
   あの古い麦わらの帽子をかぶり
   黄いろな木綿の寛衣をつけて
   南は二子の沖積地から
   飯豊 太田 湯口 宮の目
   湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
        …(筆者略)…
   みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
と詠んではいるものの、「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう」ということであれば、ざっと考えただけでも賢治にとってそれはかなり無茶な行程となってしまうことからも裏付けられそうだ。
 そこでそのことを次に検証してみる。まずはそのために、この行程を当時の『巖手縣全圖』(大正7年、東京雄文館藏版)を用いて、地図上で巡回地点間の直線距離を測ってみると、おおよそ、 
「下根子桜」→8㎞→二子→6㎞→飯豊→6㎞→太田→ 4㎞→湯口→8㎞→宮野目→6㎞→湯本→8㎞→好地
→2㎞→八幡→8㎞→矢沢→7㎞→「下根子桜」
となる。つまり、
  全行程最短距離=(8+6+6+4+8+6+8+2+8+7)㎞=63㎞
となる。
では、この全行程を賢治ならば何時間ほどで廻りきれるだろうか。一般には1時間で歩ける距離は4㎞が標準だろうが、賢治は健脚だったと云われているようだから仮に1時間に5㎞歩けるとしても
    最短歩行時間=63÷5=12.6時間
となり、歩くだけでも半日以上はかかる(賢治は自転車には乗らなかったし乗れなかったと聞くから、歩くしかなかったはずだ)。しかも、これはあくまでも移動に要する最短時間である。道は曲がりくねっているだろうし、橋のない川を渡る訳にもいかなかっただろう。その上に、稲作指導のための時間を加味すればとても「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって」しまえそうにはない。
 まして、
    眠りのたらぬこの二週間
    瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来た
賢治にとっては、この詩に詠んだような行程を一日で廻りきるのはちょっと無理であろうことはほぼ自明である。だからこの〔澱った光の澱の底〕はあくまでも詩であり、賢治がその通りに行動したと安易に還元はできないし、その通りにはもともと行動することはまずできなかったということである。
 また前掲の、
七月一八日(水) 農学校へ斑点の出た稲を持参し、ゴマハガレ病でないか調べるように堀籠に依頼。検鏡の結果イモチ病とわかる。
についてだが、なぜ賢治は最初「イモチ病」ではなくて「ゴマハガレ病」だと思ったかということを推測してみれば、先に掲げた《表 昭和2年と3年花巻の7月の天気と降水量》(47p参照)の一覧表に基づけば、昭和3年のこの時期は雨も殆ど降っていないから、賢治は「イモチ病」ではないと思ったのだろう。それは、「イモチ病」が蔓延する必要条件に「多湿」があるのだが、3年7月はそのような気象条件になかったからである。
 また、上掲年譜の最後の
   七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した〔推定〕
という推定はあまり妥当なものではなかろう。というのは、「七月の大暑」とは7月23日頃のことだから、先の天気一覧表から昭和3年7月下旬は雨も殆ど降っておらず、先ほどと同じ理由が成り立つからである。つまり、仮に窒素施肥過多によって稲熱病が発生した田圃はあったとしても、蔓延の必要条件「多湿」を満たさないから、それが蔓延することは少なくともなかったはずだ。もちろん、蔓延しなければ当然「非常に稲熱病が発生した」はずもない。実際、この年に花巻で稲熱病が蔓延したという新聞報道等も見つけ出せなかった。
 では次に、同年の8月の賢治の営為を『新校本年譜』によって見てみれば、
八月八日(水) 佐々木喜善あて(書簡242)
八月一〇日(金) 「文語詩」ノートに、「八月疾ム」とあり。〔下根子桜から豊沢町の実家に戻り病臥〕
八月中旬 菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で下根子桜の別宅を訪れる。
ということだから、8月10日以降は賢治が稲作指導をしようにも体がそれを許さなくなってしまったようだ。
 その一方で、かつての「賢治年譜」の昭和3年8月には皆、
 氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し……⑤
というようなことが書かれているが、一般にも知られていることだし、先に掲げた《表 昭和3年6月~8月の花巻の天気》(51p参照)によっても、同年の夏は日照りがしばらく続いたことが明らかだから、「風雨の中を徹宵東奔西走」できるような風雨の日はまずなかったということになる。
 つまり、〝⑤〟はどうも事実であったとは言い難く、このような稲作指導をこの時に賢治が為したということが確かであったという保証はないことになる。
 さて、稲作指導者という立場から賢治が昭和3年の「ヒデリ」を心配して「涙ヲ流シ」たということはあり得るということでここまで考察してきた。ところが、たしかにこの年の夏は「ヒデリ」が40日以上も続いていたのだが、賢治は農繁期である6月にもかかわらず上京・滞京していてしばし故郷を留守にしていたことや、帰花後は体調不良でしばらくぼんやりしていたこと、そして8月10日以降は実家に戻って病臥していたことなどからは、
 稲作指導者という立場から賢治が昭和3年の「ヒデリ」を心配して「涙ヲ流シ」たりすることは、どうやら客観的には必然性がない。
と判断する方がより妥当と言えよう。ましてこの年の「ヒデリ」は、「ヒデリに不作なし」というタイプの好ましい方のそれであって、2年前の大正15年の飢饉寸前と言えるような、紫波郡の赤石村を始めとする甚大な旱害を引き起こしたようなタイプの「ヒデリ」では全くなかったからでもある。
 となれば、この年に賢治が仮に「ナミダ」をもし流したとすればそれは「稲作指導者という立場」からではなく、主観的なものとなろう。つまり、賢治自身の稲作指導が不十分であったことのふがいなさに対してということはもちろんあり得る。しかし、それではその「ナミダ」は件の「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」の「ナミダ」とは性格が違ってしまう。それは農民のためのではなく己に対しての「ナミダ」となるからだ。そしてそもそも、昭和3年の夏たしかに稗貫は旱魃ではあったが、米の作柄は少なくとも平年作以上であったと判断しても構わないであろうことは先に示したとおりだから、結局、
 昭和3年の夏、賢治が稲作指導者としての立場からも「ヒデリノトキニ涙ヲ流シ」たことはなかった。
とならざるを得ないだろう。
 したがってここまでの検証の結果、
 「羅須地人協会時代」の賢治は「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」。
というのが現時点での私の結論である。
 そしてもしそうであったとしたならば、後々、とりわけ大正15年の未曾有の大旱害罹災の際に何一つ具体的な救援活動をしなかったことに対して賢治は後悔せねばならなかっただろう。おそらく、賢治は良き稲作指導者でもあると自負していたつもりであったのだが、肝心の時に困っている貧しい農民を手助けできるような稲作指導をしてこなかったし、それ以前に人間として、わけても15年の大干害に際して何一つ救援活動もしなかったどころか、結果的には「無関心」だった自分がいたということに後になってやっと気付いて愕然とし、忸怩たる思いで悔い続けていたのではなかろうか。
 どうやらこの辺りの賢治のもどかしさが、私が〝ずっともやもやしていた〟一つの大きな理由だったようだということがここまで検証してきた結果わかりつつある。私がかつて持っていた賢治のイメージ(それは多くの方々が持っているそれでもあろうと思われる)からは、とりわけ大正15年の隣の紫波郡内の大干魃の際などは、その惨状を知ったならば何はさておき、いの一番にその救援に駆けつけたであろうというのが賢治のイメージだったのだが、実は「羅須地人協会時代」の賢治はどうやらそうではなかったということにならざるを得ないようだ。しかも、客観的には賢治はその時「無関心」だったと言われても仕方がないということが私にはとても辛いし、賢治本人はなおさら後々そうであったであろうことにも気付く。
 そして、この時の大干魃被害に際して賢治が「涙ヲ流サナカッタ」ことへの悔いはその後の賢治の心の澱となって消え去ることはなく、そしてそのことが、例えばあの書簡(258)中の「殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので」に繋がっていったのではなかろうか…。

 「涙ヲ流サナカッタ」ことの悔い
 さて、こうして「羅須地人協会時代」の賢治のことを少しく調べてきたわけだが、「通説」となっている賢治のこの時代の営為の中にはどうやら事実でないことも少なくないようだ。
 例えば、かつて私が抱いていた「羅須地人協会時代」の賢治のイメージは、多くの人もそうであるように、
   ヒデリノトキハナミダヲナガシ
   サムサノナツハオロオロアルキ
に象徴されるものであり、賢治は貧しい近隣の農民たちのために献身的に活動する聖農であり、聖人・君子だった。
 ところが、よくよく調べてみると、遠く都会の小学生からのものさえも含む救援の手があちこちから陸続と差し伸べられていた大正15年の紫波郡の赤石村等の大干魃被害に際してさえも、賢治は何ら救援活動をしていなかった、というよりは無関心だったということに代表されるように、案外そうではなかったからだ。
 一方で、少なからぬ賢治研究家たちが例えば、
 わたしたちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。
とか、
 一九二八年の旱魃の際も、東京・大島旅行の疲れを癒やす暇もなく、イモチ病になった稲の対策に走りまわり、その結果、高熱を出し、倒れたのである。
あるいはまた、
 賢治が大島に渡った昭和三年といえば、賢治のふるさと岩手県が大干魃にみまわれた年でもある。その夏の日照りは五〇日にもおよび、稲も野菜も全滅し、井戸水さえも枯(ママ)れ果てたという。賢治は、この異変のなかを、文字通り東奔西走した。そして、ついに過労に倒れた。
というようなことを断定調で述べている。
 がしかし、前掲項目の中の
・一九二七年の冷温多雨の夏
・イモチ病になった稲の対策に走りまわり
・その結果、高熱を出し、倒れた
・稲も…全滅し
などの典拠は一体どうすれば見つかるのだろうか。どういうわけか、私がここまで調べてみた限りではどこをどう探し廻ってもこれらの事項を否定する資料等しか見つからない。
 具体的には、ここまでの検証の結果は、例えば
・「一九二七年は冷温多雨の夏」であったというわけではなかった。
・「一九二八年の夏の四〇日の旱魃」の際にとった賢治の行動はそれ程のものではなかった。
・「一九二八年の旱魃の際」に、賢治は「イモチ病になった稲の対策に走りまわ」ったとは言えない(この年花巻周辺で稲熱病病が蔓延したわけではない)。
・「昭和三年といえば、賢治のふるさと岩手県が大干魃にみまわれた年でもある」ことは確かだが、大旱魃ではあっても岩手県の水稲が大旱害であったというわけではなく、まして稲が全滅したなどという事実は全くなかった。
・昭和3年の反当収量は県全体でも2石前後(当時普通反収2石といわれていた)だから平年並みの収量だし、昭和3年の稗貫の稲作も平年作以上であったと断定しても構わない。
というようなものである。
 したがって、前掲の賢治研究家たちの記述には事実誤認があるのではなかろうかと、私は自分勝手なことをついつい妄想してしまう。それにしても、どのような資料を基にしてこれらの賢治研究家たちは先のような断定をしているのだろうか、その資料を是非教えていただきたいものだ。
 しかも、私がここまで検証してきた限りでは、「その結果、高熱を出し、倒れた」がたしかに「通説」ではあるものの、それが真実であったとは言いきれなさそうだ。具体的には、
・賢治は、この異変のなかを、文字通り東奔西走した。そして、ついに過労に倒れた。
かというと、それよりは
 たしかに体調が悪かったことは否めないが、その真相は、秋10月に行われる「陸軍特別大演習」を前にして行われた凄まじい「アカ狩り」に対処するために賢治は実家に戻って自宅謹慎していたのであった。
と判断することの方が遥かに妥当であると結論できたことを先に拙著『羅須地人協会の終焉―その真実―』で既に明らかにしたところである(本書の「第二章 「羅須地人協会時代」終焉の真相」でもこのことに関しては詳述してある)。
 また、先に実証したように、大正15年の大旱害の時に賢治は一切救援活動をしなかったどころか、全く無関心であった(33p参照)と言わざるを得ないから、残念ながらその時に賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」ていたわけではなかった。なおかつ前述のとおり、昭和3年の夏の40日をも超える「ヒデリ」の場合には今度は「ナミダヲナガシ」たりする必要がなかったことがわかったから、結局、「羅須地人協会時代」の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言うことができない。
 しかもこれも先に触れた(49p参照)ように、「羅須地人協会時代」に冷害はなかったから、賢治はその時代に「サムサノナツハオロオロアルキ」したわけでもない。さらに賢治は、甚次郎には「小作人たれ/農村劇をやれ」と強く「訓へ」たのに、甚次郎とほぼ同じような環境と立場にありながら賢治はそうはならなかったし、しなかったというダブルスタンダードがあった。いわば、甚次郎は「賢治精神」を実践したが、賢治自身はそのような「賢治精神」を実践しなかったということになる。
 だから当然あの賢治ならば後々、大旱害に全く無関心であったり、甚次郎への「訓へ」に関わってアンフェアなダブルスタンダードがあったりという「羅須地人協会時代」の己を振り返って恥じ、慚愧の念に堪えなかったはずだ。凡人の私でさえも、こんなことであったならばわざわざ花巻農学校を依願退職までして「下根子桜」に移り住んだということの意味と価値は半減してしまっただろうにと残念でならないくらいだから、本人である、天才賢治は後々「羅須地人協会時代」の自分を責め、己を恥じるのはなおさら当たり前のことだったであろうからだ。そう考えれば、昭和5年3月の伊藤忠一宛書簡(258)における、「羅須地人協会時代」についての
殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
という詫びは、まさにその証左となりそうだ。
 さらには、同年4月に澤里武治に宛てた書簡(260)においては、農学校時代の最後の頃の自分にまで遡って、
わづかばかりの自分の才能に慢じてじつに虚傲な態度になってしまったことを悔いてももう及びません。
<共に『新校本全集第十五巻書簡本文篇』>
とその奢りを後悔していることからなおさらそう言えそうだ。
 しかしながら、賢治にはまだまだ起伏があったようで、明けて昭和6年になるとその7月には森荘已池に対して、
   私も随分かわったでしょう。変節したでしょう
<『宮沢賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)109p>
と言っていたということであり、かつての賢治らしさがかなり失われていたということもあったようだし、同年10月24日には佐藤勝治が言うところの憤怒の〔聖女のさましてちかづけるもの〕を手帳に書いてしまったわけだから、賢治といえどもなかなか簡単には「慢」からは脱しきれずにいたようだ。
 がしかし、その後賢治は自己嫌悪に陥り、忸怩たる思いで過ごしたのであろう10日程を経た11月3日になりやっと気持ちの整理がつき、今までのことを虚心坦懐になって己を振り返ることができて、「雨ニモマケズ…サムサノナツハオロオロアルキ」というような自分にできなかったことなどを素直に手帳に書き記して悔恨したということなのではなかろうか。
 実際、改めて〔雨ニモマケズ〕を冷静に読み直してみると、「羅須地人協会時代」の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たわけでもなければ「サムサノナツハオロオロアルキ」したわけでもないということに代表されるように、〔雨ニモマケズ〕に書かれている他の事柄の多くもまた実は似たり寄ったりで、実は賢治がそのようにできたことは殆どない。それ故にこそ賢治は、その最後を「サフイウモノニ/ワタシハナリタイ」と締めくくったのだと、私はここまでの考察の結果からすんなりと了解できた。
 どうやら、この11月3日、「羅須地人協会時代」のしかるべき時にしかるべきことを為さなかった賢治は己を恥じ、せめてこれからはそのような場合にはそのようなことを為す人間になりたいと懺悔したことが、簡潔に言い換えれば、ヒデリノトキに「涙ヲ流サナカッタ」ことの悔いが、賢治をして〔雨ニモマケズ〕を書かせしめた、という一つの見方も充分に成り立ち得るのではなかろうか。
 そして何よりも、これで「慢」から抜け出せる新たな境地に賢治が達したというところに、賢治が〔雨ニモマケズ〕を書いた意味と価値があるのだと私はここに至ってやっと合点した。特にそれは、かつては「黒股引の泥人形」を「えい木偶のぼう」と蔑んだその「デクノボートヨバレ」という一行に象徴されているように私からは見える。
 それにしても不思議に思うことは、この大正15年の紫波郡赤石村等の大旱害に賢治がどう対応したかは、「羅須地人協会時代」の本質が問われ、かつその在り方の是非が判定できる貴重な試金石だと私は思うのだが、賢治研究家の誰一人としてこの対応についての論考等を一切著していないどころか、言及さえもしていないということだ。一体なぜなのだろうか?

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