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第二章 「羅須地人協会時代」終焉の真相(テキスト形式)前編

2024-03-20 08:00:00 | 賢治渉猟
第二章 「羅須地人協会時代」終焉の真相

 ずっと以前から疑問に思ってきたことがある、あの「演習」とは一体何のことだったのだろうかと。

 「演習」とは何か
 それは、宮澤賢治が愛弟子の一人澤里武治に宛てた昭和3年9月23日付書簡(243)、
お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
<『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)15p >
の中に出てくる、この「演習」のことである。
 普通、「すっかりすがすがしくなりました」というのであれば、病気のために実家へ戻って病臥していたはずの賢治なのだから、「そろそろ下根子桜に戻ってそれまでのような営為を行いたい」と賢治は伝えるであろうと思いきや、「演習が終るころ」まではそこに戻らないと愛弟子に伝えているわけだから、この「演習」は極めて重要な意味合いを持っていると言わざるを得ない。そのような「演習」とは一体何のことだろうかと私は長らく気になっていた。
 さて、この「演習」に関しては、『新校本年譜』の昭和3年の「九月二三日」の項に次のような記述があり、
 …だんだん無理が重なってこんなことになったのです。/演(*)習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)〉
この「演習」の注釈〝*45〟について、
   盛岡の工兵隊がきて架橋演習などをしていた。
と同巻では述べている。
 ところがこの「盛岡の工兵隊がきて架橋演習」に関しては、『花巻の歴史 下』によれば、
 架橋演習には第二師団管下の前沢演習場を使用することに臨時に定めらていた。
 ところが、その後まもなく黒沢尻――日詰間に演習場設置の話があったので、根子村・矢沢村・花巻両町が共同して敷地の寄付をすることになり、下根子桜に、明治四十一年(一九〇八)、東西百間、南北五十間の演習廠舎を建てた。
 毎年、七月下旬から八月上旬までは、騎兵、八月上旬から九月上旬までは、工兵が来舎して、それぞれ演習を行った。
〈『花巻の歴史 下』(及川雅義著)67p~〉
となっている。つまり、下根子桜に建てられた「工兵廠舎(花巻演習場廠舎)」に盛岡の工兵隊等が来舎して架橋演習が行われた期間は「七月下旬~九月上旬」であったということになる。
 そこでこの『花巻の歴史 下』の記述に従えば、賢治が澤里に宛てた書簡(243)の日付は9月23日だからこの時点では既にこの「架橋演習」は終わっていたことになる。一方、同書簡の文章表現「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」からすれば、9月23日時点では賢治はまだ根子(「下根子桜」)に戻っていないことは明らかだから、賢治が同書簡にしたためたところの「演習」はまだ終わっていないことになるのでこの架橋演習のことではないということになる。
 つまり、この書簡の中に出て来ている「演習」とはこの注釈に述べられているような「架橋演習」のことではなく、別の「演習」を指しているということを賢治自身が教えてくれている。しかもその「演習」とは、このままでも教え子にも通ずるようなそれであるということも、である。

 「かつての賢治年譜」の検証
 そこで『新校本年譜』を再び見てみると、昭和3年の
八月一〇日(金) 「文語詩篇」ノートに、「八月 疾ム」とあり。高橋武治あて手紙に八月一〇日から 丁度四〇日間熱と汗に苦しんだとあるので、この日からと推定する。病室は別棟二階建て階下西向きの部屋である。
となっており、この記述の仕方は不完全だがそれはさておき、賢治が「下根子桜」から撤退して実家に戻って病臥するようになった日はこの10日であると推定すると述べていると言えるだろうし、「通説」もそうなっている。
 一方、「かつての賢治年譜」ではおしなべて、
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
となっていると言っていい。つまり、賢治が「下根子桜」から実家に戻ったのは病気になったためであり、それを引き起こしたのは「氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し」たためであった、となっている。
 ところがこの両者を比べてみると、「かつての賢治年譜」のような記述内容は『新校本年譜』からはほぼ消え去っているし、注意深く比べてみれば、かつては断定していたものがいつの間にか推定に変わっていることにも気付く。ということは、「かつての賢治年譜」の記載内容には問題があったということを示唆していると考えられる。そこでこれを、
  (1) 心身の疲勞を癒す暇もなかった。
 (2) 気候不順に依る稲作の不良があった。
 (3) 風雨の中を徹宵東奔西走した。
 (4) 遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅した。
の四つに分けてそれぞれ検証してみたい。
 それではまず〝(1)〟についてである。さて、この「心身の疲勞」とは一体何を意味するのか。それを癒す暇もなかったということだし、8月10日から賢治は実家に戻っているということであれば、その時よりもしばらく前に蓄積した「疲勞」と考えられる。まして、賢治自身が「六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで」と先の書簡(243)にしたためていたことに鑑みれば、この「疲れ」こそがこの「心身の疲勞」に当たるとほぼ言えるだろう。 
 一方、先にも引用した伊藤七雄宛昭和3年〔7月はじめ〕書簡(240)の下書㈡の中には、
こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・校異篇』(筑摩書房)>
とあって、「少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました」と書いているから、帰花後も賢治は心身共に相当疲れが残っていたと思われる。
 ところが、時期は〔7月はじめ〕という推定ではあるものの、仮に昭和3年7月始めに賢治が「いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります」とその下書に書いてあったとおりであるとすれば、この時の上京の際の疲れは7月初め頃にはもうすっかり取れていたと推測できる。
 ちなみに、以前に掲げた51頁の「天気一覧表」《表 昭和3年6月~8月の花巻の天気》に従えば、伊藤七雄宛昭和3年〔7月はじめ〕書簡下書(240)に、
 こちらも一昨日までは雨でした。昨日今日はじつに河谷いっぱいの和風、県会は南の方の透明な高気圧へ感謝状を出します。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・本文篇』(筑摩書房)>
という一文があるということなので、この書簡下書(240)が書かれた日は、「一昨日までは雨でした。昨日今日は…」に注意すれば、この「天気一覧表」からその日は7月5日であるとほぼ判断できるから、上段の「推測」を裏付けてくれる。そして、この頃から賢治は「やっと勢いもつきあちこちはねあるいて居」たということになろう。
 したがって、少なくとも7月上旬には「東京行」の際にたまった「疲勞」は癒されていたとほぼ断定できるだろう。しかも、この他に「心身の疲勞を癒す暇もなかった」というような「疲勞」は考えられない。だからもちろん、賢治がこの書簡下書を書いたであろう7月上旬から約一ヶ月もの長時間が経った後の8月10日頃に家に戻った直接の理由に、この〝(1)〟がならないことはほぼ明白である。
 次に〝(2)〟についてだが、この「天気一覧表」を見た限りにおいてはそんなことはまずなさそうだと判断できる。それどころか、この時期としては願ったり叶ったりの水稲にはふさわしい天気が続いているということが判るからだ。
 もちろん、これだけ雨が降らなければ干魃の心配はある。とはいっても、この時期であればもう田植時及びその直後の水不足とは違って水稲の被害はそれほど心配なかろう。それどころか逆に、この地方の言い伝えである「日照りに不作なし」を農民は唱えながら稔りの秋を楽しみにしていたと考えられる。実際、この昭和3年に岩手が干魃によって水稲が不作だったという記録も資料もないはずだ。
 がしかし、水稲はそれでいいとしてもこのような気候であれば陸稲が心配だ。ちなみに、昭和3年10月3日付『岩手日報』によれば
    県の第一回予想収穫高
  稗貫郡  作付け反別  収穫予想高  前年比較
  水 稲  6,326町  113,267石   2,130石
  陸 稲  195町   1,117石  △1,169石
であった。なんと、陸稲の収穫予想高は前年比較1,169石減だから予想収穫高は前年収穫高の半分以下の激減であろうことがわかる。とはいえ、当時の稲作における稗貫地方の陸稲の作付け面積は、
  195町歩÷(6,326+195)町歩=0.03=3%
だから、稗貫郡内の陸稲作付け割合は稲作全体のわずか3%にしか過ぎないこともわかる。しかも常識的に考えて、この195町歩の陸稲のために賢治一人だけが稗貫郡内全てを東奔西走したとは考えられない。
 それからもう一つ、この時期賢治は稲熱病のことを心配していたと言う人もいるが、この病気は「日照不足」や特に「低温(稲熱病の菌糸の発育適温は25℃といわれている)多湿」の場合に蔓延するものであり、仮に稲熱病にかかった水稲があったにしても、昭和3年の稲作期間は雨の日が殆どなかった(この年は夏に40日を超えるような「ヒデリ」が続いたということは周知の事実)のだから少なくとも多湿とは言えないのでそれが蔓延したということは普通起こり得ない。
 実際、「県南地方に予想されたという稲熱病の被害はそれほどではなかった」ということは先に明らかにした(53p参照)ところでもあるし、「昭和3年、花巻で稲熱病が蔓延した」という事実も見つからない。しかも、この年の岩手県の稲作は不作などではなく、稗貫のその作柄も平年作以上であったとほぼ断定できるということも既に明らかにした(52p~参照)ところである。つまり、この年は夏に40日を超えるような「ヒデリ」が続いたという意味での「気候不順」は事実あったのだが、それは「ヒデリに不作なし」というタイプの「ヒデリ」だったから歓迎されこそすれ憂うべきものではなかった。しかも、このような天候だったので稲熱病が蔓延することもなかったので、
 昭和3年の岩手県も稗貫郡も共に、米の作柄は実際悪くはなかったのだから、この年は「気候不順に依る稲作の不良があった」とは言えない。
ということになるだろう。
 では今度は〝(3) 風雨の中を徹宵東奔西走した〟についてだが、やはり先の《表 昭和3年6月~8月の花巻の天気》一覧表(51p参照)に従えば、帰花後~8月10日の間に「風」が吹いた日は7月26日の一日だけあったが、それは晴れた日にである。「風雨」の日は一日もないし、そもそも「雨」が降った日でさえも、賢治が帰花後やっと活動し出したと思われる7月5日以降は殆どないし、特に賢治が実家に戻る直前の7月28日~8月10日の間にはそのような日は全くない。これではいくら賢治が「東奔西走」しようとしても、それが雨の中でということはこの頃はまず不可能であったということがこれで明らかだ。
 しかも、稲熱病の蔓延も、大干魃による水稲の不作も共に心配のない年であったのだから、賢治がそのようなことを心配して「徹宵東奔西走」する必要もまたなかった。したがって、〝(1)〟の場合と同様、実はこの〝(2)〟や〝(3)〟も賢治が8月10日頃に実家に戻る「主たる理由」にはなり得なかったと判断するのが妥当であろう。
 となれば、その「主たる理由」は最後の〝(4) 遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅した〟ためだであったということになるのであろうか。このことに関しては菊池忠二氏が次のようなことを述べている。
 私がもっとも伊藤さんに聞いてみたかったのは、ここでの農耕生活が病気のために挫折した時、宮澤賢治はどのようにして豊沢町の実家へ帰ったのか、という点だった。それを尋ねると、伊藤さんはふっと遠くを眺めるような目つきをしてから、次のように語ってくれたのである。
 「今でも覚えているのは、私が裏の畑でかせいでいた時、作業服を着た賢治さんが『体の工合が悪いのでちょっと家で休んできますから』と言って、そろそろと静かに歩いて行ったことであんす。」
〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)37p 〉
 つまり伊藤忠一の証言によれば、少なくとも伊藤の目からはその時の賢治の病状はそれほど極端に悪化していたとは見えなかった、と言えそうだ。しかも、菊池氏はこの日のことについては宮澤清六自身からも直接訊いており、
 初めは「どうだったか忘れてしまったなあ」と語っていた清六さんが、だんだんに「特にこちらから迎えに行ったという記憶はないですねえ」ということだった。そして「これは大事なことですね」と二回ほどつぶやかれたのであった。その口調から私は、伊藤忠一の語った事実が本当であったことを、あらためて確認することができたのである。
〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)46P 〉
と述べている。したがって、賢治が実家に帰った時はそれほど重篤であったわけでもなかったということを弟の清六も証言しているということになる。となれば、〝(4)〟も賢治が8月10日頃に豊沢の実家に戻った件の「理由」になる蓋然性はかなり低いことになる。
 さて、こうしてここまで「かつての年譜」を検証してみたのだが、〝(1)~(4)〟のいずれにもかなりあやかしな点がある。これではいずれもその「主たる理由」にはならない蓋然性がかなり高いから、賢治が「下根子桜」を撤退して実家に戻ったのにはもっと別の大きな理由があったと考えることはおのずから導かれる道理であろう。
 すると、そのヒントとなるのではなかろうかと脳裡をよぎったのが、この章の始めで触れた書簡中の「演習が終るころはまた根子へ戻って云々」の「演習」であった。もし賢治がまた「下根子桜」に戻るとするならば、愛弟子の澤里武治に宛てた手紙には「病気が治ったならばまた根子へ戻って云々」とに書くはずだが、そうではなくて「演習が終るころ」に戻ると賢治が書いているではないか。そのことを私に気付かせてくれた。

 「逃避行」していた賢治
 ところで、昭和3年6月の賢治の上京は実は「東京への逃避行」だったという見方もあるという。それは、佐藤竜一氏が自身の著書『宮沢賢治の東京』の中で主張していることなのだが、
  東京へ逃避行
 一九二八年六月八日夕方、賢治は水戸から東京に着いた。一年半ぶりである。…(筆者略)…
 東京に着いてすぐ書かれた(六月一〇日付)「高架線」という詩には、世相が表現されている。
「労農党は解散される」とあり、次のフレーズが続く。
  一千九百二十八年では
  みんながこんな不況のなかにありながら
  大へん元気に見えるのは
  これはあるいはごく古くから戒められた
  東洋風の倫理から
  解き放たれたためでないかと思はれまする
  ところがどうも
  その結末がひどいのです
 国家主義が台頭してきていた。その動きは当然、羅須地人協会の活動に影を落とした。このときの東京行きは、現実からの逃避行でもあったに違いない。…(筆者略)…
 伊藤七雄は日本労農党に属しており、賢治は活動に理解を示していたからふたりには接点があった。
〈『宮沢賢治の東京』(佐藤竜一著、日本地域社会研究所)166p~〉
という見方である。
 一方、名須川溢男の論文「宮沢賢治について」によれば、
 (昭和2年の)夏頃、こいと言うので桜に行ったら玉菜(キャベツ)の手入をしていた、…(筆者略)…その頃、レーニンの『国家と革命』を教えてくれ、と言われ私なりに一時間ぐらい話をすれば、『こんどは俺がやる』と、交換に土壌学を賢治から教わったものだった。疲れればレコードを聞いたり、セロをかなでた。夏から秋にかけて読んでひとくぎりしたある夜おそく『どうもありがとう、ところで講義してもらったがこれはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起らない』と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町をまわった。(花巻市宮野目本館、川村尚三談、一九六七・八・一八)
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~>
ということであり、賢治と二人で交換授業をしたと証言している川村尚三なる人物がいて、この川村は当時労農党稗和支部の実質的な代表者であったという(〈注十四〉)。
 そうすると、先の佐藤氏の引用文によれば、伊藤七雄は当時労農党員であったということでもあるから、賢治はこのような労農党の幹部等とかなり親交があったと言えそうなので、賢治は労農党の単なるシンパであったというよりはそれ以上の存在だったと考えた方が自然だろう。
 それは当時の労農党盛岡支部役員小館長右衛門の次のような証言、
「宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。…(筆者略)…いずれにしろ労農党稗和支部の事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった」(S45・6・21採録)
〈『鑑賞現代日本文学⑬宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)265p~〉
からも裏付けられるだろう。
 そういえばこの昭和3年とは、3月15日にはあの「三・一五事件」が起きて共産党員が一斉検挙され、労農党等も捜索されたというし、4月11日には同事件及び労農党等の解散命令が報道されたという年だ。となれば、前頁で述べたような「存在」であった賢治は6月に岩手から一時逃避したということは十分にあり得る。さらには、草野心平が『太平洋詩人』二巻三号(昭和2年3月)において、『(賢治は)岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが』と述べていることは周知のとおりであり、当時の賢治は少なくとも一部の人からはそう見られていたということ、逆に言えば賢治は当時官憲から厳しいマークを受けていたことはほぼ疑いようがない(後述「論じてこられなかった理由と意味」、83p~参照)から、なおさらにあり得たことだろう。
 しかも、これがもし「逃避行」でなかったとするならば、この時の上京によって賢治は農繁期に半月以上もの期間花巻を留守にしてしまったのだから、帰花後賢治はそのことを気に掛けながら、早速周辺の農家の水稲の生育状況等を大車輪で見廻っていたはずだ。ところが賢治は、花巻に戻ってからも約10日間ほどをぼんやりと無為に過ごしていた(65p参照)と言える。したがって、昭和3年の賢治は農繁期に半月以上もの間上京していて花巻を留守にしていたから、結局その農繁期に稲作指導等をまったくしない計約一ヶ月間もの空白を作ってしまっていたことになる。この点からいっても、佐藤氏の「東京への逃避行」だったという見方はたしかに頷ける。しかもこの時期、当時の賢治は高瀬露との関係でトラブルをかかえていたからそこからも逃げ出したかったという可能性も否定できないので、「東京への逃避行」はなおさらにあり得た。

〈注十四:本文68p〉名須川溢男は同論文「宮沢賢治について」において、
 昭和二年(一九二七)労農党稗貫(ママ)支部は、二十歳前後の若者たちで結成された。…(略)…支部長には泉国三郎がなったが、花巻にはあまりいないので実質中心になったのが川村尚三であった。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)219p~>
ということも述べている。

 「演習」とは「陸軍大演習」のことだった
 さて前頁の川村の証言によれば、賢治は昭和2年、川村との「交換授業」が一段落した時に、『日本に限ってこの思想による革命は起こらない』『仏教にかえる』と断言して翌夜からうちわ太鼓で町をまわったいうことだから、賢治はその後すっかり労農党とは縁を切ったものと推測されがちである。
 ところがあながちそうとばかりも言えなさそうだ(後述84p参照)。それは煤孫利吉によれば、
 「第一回普選は昭和三年(一九二八)二月二十日だったから、二月初め頃だったと思うが、労農党稗和支部の長屋の事務所は混雑していた。…(筆者略)…事務所に帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ二十円があった『宮沢賢治さんが、これタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったものだ、と聞いた。……。」(花巻市御田屋町、煤孫利吉談'67・8・8採録)
<『國文學』昭和50年4月号(學燈社)126p~>
ということだし、その後も賢治は労農党の強力なシンパであったといえそうだからだ。
 そしてこのことに関しては、父政次郎も小倉豊文に対して
 それらを知った父政次郎翁が「女に白い歯をみせるからだ」と賢治を叱責したということは、翁自身から私は聞いている。労農党支部へのシンパ的行動と共に――。
    <『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房、昭和58年)48p >
ということであり、川村尚三も、
 賢治と私とは他の人々との交際とはちがい、社会主義や労農党のことからであった。…(筆者略)…
 盛岡で労農党の横田忠夫らが中心で啄木会があったが、進歩思想の集まりとして警察から目をつけられていた。その会に花巻から賢治と私が入っていた。賢治は啄木を崇拝していた。昭和二年の春頃『労農党の事務所がなくて困っている』と賢治に話したら『俺がかりてくれる』と言って宮沢町の長屋―三間に一間半ぐらい―をかりてくれた。そして桜から(羅須地人協会)机や椅子をもってきてかしてくれた。賢治はシンパだった。経費なども賢治が出したと思う。ドイツ語の本を売った金だとも言っていた。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~>
と語っているというし、しかも『新校本年譜』によれば、
 昭和二年一一月から三年三月の三・一五事件で検挙されるまで「無産者新聞」の「編集局の一員として、各地の支局通信を管理もしていた」石堂清倫は「岩手の花巻支局員は有能かつ熱心なひとで、一カ月に二回は通信をおくってきました、そのなかで宮沢についての報告が二回あいり、一回は無新の輪転機購入カンパニアに応じて彼から金子をもらったとあります。」「二回目の通信には彼が労農党の支部に印刷器(たぶん謄写版でなかったかと思いますが)をカンパしたとありました。」と栗原敦あての書信(平成八年一〇月二九日消印)で証言している。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)361p>
という。よって、もはやカンパの受け取り側の者までもがこのように証言していることになるから、賢治は労農党の強力なシンパであったことはこれで確定的だし、進歩思想の集まりとして警察から目をつけられていた『啄木会』の賢治は会員でもあったということを川村は証言しているということになる。
 どうやらこれだけの証言が揃った以上、賢治はかなりの期間にわたって労農党の少なくとも「強力なシンパ」以上の存在であったことは間違いなかろうから、官憲からはかなりマークされていたであろうことはもはや疑いようがない。
 そこでもう少し『啄木会』のことを調べてみようと思って資料を漁っていた時、たまたま手に取った『啄木 賢治 光太郎』の中に、
 労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。…(筆者略)…
 この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。横田兄弟や川村尚三らは、次々に「狐森」(盛岡刑務所の所在地、現前九年三丁目)に送り込まれたいった。
<『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)28p~>
という記述に出くわした。その途端私は、
 これだっ!、件の「演習」とはこの「陸軍大演習」のことだったのだ。
と直感し、抃舞した。
 そして思い出した。たしか、何かの本に
 八重樫賢師は賢治から教えを受けた若者で、下根子に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていたという。しかもこの八重樫は「陸軍大演習」の直前に要注意人物ということで北海道に所払いとなり、客死した。
というような内容のことが書かれていた(〈注十五〉)ことを。
 それからもう一つ、賢治の教え子の小原忠が論考「ポラーノの広場とポランの広場」の中で、
 昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらチェックされる今では到底考えられない時代であった。
<『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)4p >
と述べていたことも思い出した。もちろん小原が言うところの「昭和三年の大演習」とはこの「陸軍大演習」のことである(それ以外の「昭和三年の大演習」は考えられないからだ)。
 こうなってしまうとただごとではない。「陸軍大演習」を前にして行われたすさまじい「アカ狩り」で川村が捕まり、八重樫が北海道に追放されたのだから、彼等との繋がりの強かった賢治に官憲の手が伸びないはずがない。そして前述の小館長右衛門は当時戦闘的な活動家だったと聞くが、この時の「アカ狩り」によって彼が小樽に奔ったのも昭和3年8月だった(後述73p参照)はずだが、賢治が「下根子桜」から撤退したのも昭和3年8月だ。となれば、この「撤退」が「陸軍大演習」と無関係だったということはもはや否定しがたい。
 しかもこの「演習」であれば「架橋演習」等とは違って、教え子の小原が知っていたように、このままでも教え子の澤里にも十分意味が通じたであろう(64p参照)。それは、当時の新聞は八月末以降この「大演習」に関してしばしば報道していたからでもある。どうやら、あの「演習」とはこの「陸軍大演習」のことだったとして間違いなさそうだ。

〈注十五:本文71p〉名須川の「賢治と労農党」には次のような注がある。
 八重樫賢師とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えをうけていた若者。下根子に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていた。後に陸軍大演習、天皇御幸のとき昭和三年、北海道に要注意人物で追放され、その地に死す。
  <鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)266p~>

 八重樫賢師について
 さて、この時の「アカ狩り」で函館に追われたという八重樫賢師ついてだが、上田仲雄氏の論文「岩手無産運動史」の中に、
 五月以降I(筆者イニシャル化)盛岡署長による無産運動え(ママ)の圧迫ははげしくなり、旧労農党支部事務所の捜査、党員は金銭、物品、商品の貸借関係を欺偽、横領の罪名で取り調べられ、党員の盛岡市外の外出は浮浪罪をよび、七月党事務所は奪取せらる。一方盛岡署の私服は党員を訪問、脱退を勧告し、肯んじない場合は拘留、投獄、又は勤務先の訪問をもって脅かし、旧労農党はこの弾圧に数ヶ月にして殆ど破壊されるに至っている。三・一五事件に続いて無産運動に加えられた弾圧は、この年の十月県下で行われた陸軍大演習によって更に徹底せしめられる。演習二週間前に更迭したT(筆者イニシャル化)新盛岡警察署長により無産運動家の大検束が行われた。この大検束を期として、本県無産運動指導者の間に清算主義的傾向が生じ、岩手無産運動の一つの転期を孕んで来た。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)54p >
ということが論じられていて、この時に「一週間以上~一日内外」の検束処分にされた者の注釈が前掲書の68pにあって、花巻署管内では
    川村尚二(ママ) 八重樫賢志(ママ) 
という二人の名前の記載があり、おそらく正しい名はそれぞれ川村尚三、八重樫賢師であろう。したがって、八重樫は昭和3年の「陸軍大演習」を前にして行われた大検束の際に検束処分にされたと考えてほぼ間違いなかろう。
 一方、この八重樫賢師は「羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者」でもあるということなのでそのことを確認しようと思ってあちこち尋ね廻ってみたところ、平成25年3月6日にD氏(当時約80歳)に会うことができて、八重樫賢師に関して次のようなこと等を教えてもらえた。
・賢師は、昭和3年の「陸軍大演習」を前にして行われた警察の取り締まりから逃れるために、その8月頃に函館へ行った。
・函館の五稜郭の近くに親戚がおり、そこに身を寄せたが、2年後の昭和5年8月、享年23歳で亡くなった。
・農学校の傍で生徒みたいなこともしていたという。
・頭も良くて、人間的にも立派な方だったと聞いている。
・賢治さんの使い走りのようなことをさせられていたという。
・昭和3年当時、八重樫の家の周りを特務機関の方がウロウロしていたということを八重樫の隣人から教わった。
併せて、私はそれまで八重樫賢師の〝賢師〟の読み方はついつい〝けんじ〟だとばかり思っていたのだが、D氏からその時に〝けんし〟ですよということや、名須川溢男が訪ねて来てD氏の義母から聴き取りをしていた際に、その傍にいてそのやりとりを聞いておりましたということなども教えてもらった。
 私はD氏のこれらの証言などを聞きながら、昭和3年の夏に花巻でも無産運動等に対してすさまじい「アカ狩り」が行われていたことは紛れもない事実であったということを確信した。そして、八重樫は昭和3年8月頃に官憲に追われて函館へ奔り、程なく客死していたということはほぼ事実であったのだろうということもである。
 あるいはこれとは別に、私の先輩T氏からは、
 私のおばが、『ある時、「下ノ畑」の傍で賢治と二人で小屋を造っている人を見たことがある。その人は、そこに農園のようなものを開いていた鍛冶町のけんじであった』と言っていた。
ということを教えてもらった(平成26年2月19日、花巻市I館にて)。私はそれを聞いてすぐに、その「鍛冶町のけんじ」とは昭和3年に函館に追われた「八重樫賢師」その人に他ならないと確信した。なぜならば、その「八重樫賢師」の家は鍛冶町のかつての「八重樫麩屋さん」だからである。そしてこのことは、名須川溢男の論文「賢治と労農党」中の、
 八重樫賢師とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者。下根子に賢治のような農園をひらき…
<『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)266p>
という記述も裏付けてくれる。
 よって、
・八重樫賢師は宮澤賢治とかなり親交が深かった。
・八重樫賢師は「下ノ畑」の傍で農園を開いていた。
ことはほぼ間違いない事実であった判断してよさそうだ。なお『新校本年譜』の310pには、八重樫賢師は花巻農学校で行われたあの国民高等学校の聴講生であったという記載もある。
 以上、これらのことに基づけば、昭和3年10月の「陸軍大演習」を前にして花巻でも無産運動等に対してすさまじい「アカ狩り」が行われていたことは紛れもない事実であり、同年8月頃に八重樫は特高から追われて函館に奔ったということはほぼ事実であったと判断できる。
 また、前出の小館長右衛門についても、
 労農協議会に属し、最も戦斗的な小館長右ェ門が八月無産運動より逃避し、北海道、小樽に移転、商業を営む。
〈注:傍点筆者〉
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)68p~>
と、上田仲雄氏は「岩手県無産運動史」で述べている。そこで、賢治が実家に戻った時期がちょうどその「八月」だったということに特に注意すれば、当時のそのような社会情勢と賢治の労農党との親和性に鑑みて、賢治も特高等からの強い圧力は避けられなかったことはもはや疑いようがなかろう。言い換えれば、賢治が実家に戻ったことが昭和3年10月の「陸軍大演習」を前にして起こったすさまじい「アカ狩り」と全く無関係だったとはもはや言えなかろう。

 警察からの圧力と賢治の対処
 さて、特高等のすさまじい「アカ狩り」によって、昭和3年夏8月頃に賢治と親交のあった八重樫は北海道は函館に、賢治のことをよく知っている小館長右衛門は同年8月に小樽にそれぞれ追われたというし、そういえば賢治の母校盛岡中学の英語教師平井直衛が同じく「アカ狩り」でその地位を追われたのもその年の8月だった(〈注十六〉)。よって、この年の10月に行われる「陸軍大演習(陸軍特別大演習)」を前にしてその8月頃にはとりわけすさまじい「アカ狩り」旋風が岩手に吹き荒れていたであろうことが容易に想像できる。
 となれば、そのような社会情勢下では賢治も官憲等からの強い圧力が避けられなかったであろうことも当然予想できる。それは、賢治が実家に戻った時期がまさに昭和3年のその8月であったことが如実に物語っているからでもある。
 とはいえそれは、井上ひさしが『イーハトーボの劇列車』の中で花巻警察署伊藤儀一郎をして言わしめている、次のような科白と似たものであったということが考えられるのではなかろうか。
 あんたがただの水呑百姓の倅なら、労働農民党の事務所の保証人というだけでとうの昔に捕まっていましたぜ。…(筆者略)…だが、町会議員、学務委員、そしてこの十一月三日明治節には町政の功労者として高松宮殿下から表彰されなすった宮沢政次郎さんの御長男ともなればそうはいかん。宮沢さんは、御自身でも何度も署へ足を運ばれて、署長と……。
<『イーハトーボの劇列車』(井上ひさし著、新潮文庫)133p>
 たしかに伊藤の「科白」のとおりであり、父の政次郎は花巻の名士で実力者の一人だった。しかも、この「陸軍大演習」の最初の演習が行われたのは花巻においてであり、10月6日には花巻の日居城野で「御野立」が行われたのだが、その前々日の4日付『岩手日報』によれば
 大演習南軍の主力部隊、第三旅團長中川金藏少将の統率の將校以下二千四百名は三日午後三時五分着下り臨時軍用列車で來花…(中略)…第三旅團長中川金藏少將は花巻川口町宮澤善治宅に宿泊した。
という記事があり、第三旅団長が賢治の母の実家「宮善」に泊まっていたというのだ。ということであれば、花巻警察署は「宮澤マキ」や賢治の父政次郎にはそれなりの配慮もしたであろうことは十分にあり得る。
 そんな折、私は豊田穣が『浅沼稲次郎 人間機関車』において次のようなことを紹介していることを知った。
 大正12年9月1日に発生した関東大震災の2、3日後のこと、農民運動社に泊まっていた浅沼稲次郎は夜中の一時過ぎに兵隊によって揺り起こされ、戸山ヶ原騎兵連隊の営倉にぶち込まれ、次に市ヶ谷監獄に入れられたという。そして約一ヶ月後保釈された浅沼は早稲田警察の特高から、
「本来ならば引きつづき当署で留置すべきところであるが、神妙にして郷里で謹慎していれば大目に見よう。もし、また出てきたら検束する」
といわれ、さすがの人間機関車も、それ以上悪名高い特高でリンチに耐える自信もなく、孤影悄然として三宅島にかえった。大正十二年十月のことである。
<『浅沼稲次郎 人間機関車』(豊田穣、岳陽書房)113p>
これは浅沼自身が著した「私の履歴書」に基づいて豊田が述べたもののようであり、実際にその「私の履歴書」を見てみると、
(早稲田警察の特高から)『田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する』と言い渡された。こうして私はしょんぼり故郷三宅島へ帰った。
<『浅沼稲次郎』(浅沼稲次郎、日本図書センター)30p >
ということである。そこで私は、あの人間機関車でさえもそういう辛い選択をせねばならなかったことがあったのかと同情すると共に、その浅沼の判断を責めることもまた酷なことだと思った。そしてなにより、
 特高は当時、危険分子と目した人物に対して「自宅謹慎か検束か」という取引策も用いていた。
ということはほぼ確実であり、この取引策によって万やむを得ず筋金入りの大闘士でさえも「自宅謹慎」を選択せざるを得なかった実例があったということを知ることができた。
 一方で、先にも引用したのだが、上田仲雄氏によれば、
 (昭和3年)五月以降I盛岡署長による無産運動への圧迫はげしくなり、…(筆者略)…。三・一五事件に続いて無産運動に加えられた弾圧は、この年の十月県下で行われた陸軍大演習によって更に徹底せしめられる。演習二週間前に更迭したT盛岡警察署長により無産運動家の大拘束が行われた。この大拘束を期として、本県無産運動指導者の間に清算主義的傾向が生じ、岩手無産運動の一つの転期を孕んで来た。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)54p~>
ということであり、当時その弾圧の激しさに抗しきれずに清算主義に傾く活動家も少なくなかったということも私は知っていた。
 そこで閃いたのが、
 花巻警察署から、検束などはしないからその代わり、この10月に行われる「陸軍大演習」では花巻でも天皇の「御野立」が行われるので、それが終わるまではどうか実家で静かにしていてほしいと懇願され、それに従って賢治は自宅謹慎した。
という可能性を否定できないということだった。
 言い換えれば、次のような有力な仮説
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。……○*
が定立できることに気付いた。そして、たしかに今まで考察してきた事柄を振り返ってみれば、
・当時、「陸軍大演習」を前にして凄まじい「アカ狩り」が行われた。
・賢治は当時、労農党稗和支部の「強力なシンパ」以上の存在だった。
・賢治は川村尚三や八重樫賢師と接触があった。
・当初の賢治の病状はそれほど重病であったとは言えない。
ということを明らかにできているからこれらは皆この仮説〝○*〟を裏付けてくれる。
 その一方で、この仮説の反例となるのではなかろうかと思われる、かつての昭和3年の「賢治年譜」の
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
という記述についてだが、先に、
 当時の気象データ等に基づけば、「氣候不順に依る稲作の不良」も「風雨の中を徹宵東奔西走」するような「風雨」も共になかった。
ということを明らかにできている(66p参照)ので、この年譜の記述にはあやかしな点が多くてとても反例たり得ない。
 また、現時点ではその他にこの仮説の反例となり得るものは見つかっていないはずだし、前述したように、
 昭和3年夏8月頃八重樫は北海道は函館に、小館は8月に小樽へ、平井も8月に盛中教師の職を追われるというすさまじい「アカ狩り」旋風が岩手に吹き荒れていた。
ということを併せて考えれば、先の仮説
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。……○*
が検証できるので、なかなか筋のいい仮説だと私は自信を持ったのだった。
 そこで、この件に関して拙ブログ『みちのくの山野草』において、「昭和3年賢治自宅謹慎」というテーマでかつて投稿したことがあり、その中の〝 「昭和3年賢治自宅謹慎」の結論(最終回)〟等において前述したような内容の報告をした。
 するとこのことに関して大内秀明氏が、論文「労農派シンパの宮沢賢治」(『土着社会主義の水脈を求めて』所収)の中で、
 羅須地人協会と賢治の活動の真実に基づく実像を明らかにする上で、大変貴重な検証が行われたと評価したいと思います。とくに羅須地人協会の賢治が、ロシア革命によるコミンテルンの指導で、地下で再建された日本共産党に対抗して無産政党を目指した「労農派」の「有力なシンパ」だったこと。社会主義者川村や八重樫とレーニンのボルシェビズムなどを激しくを議論していたこと。そのため岩手で行われた「陸軍特別大演習」に際しての「アカ狩り」大弾圧を受ける危険性があり、そのため父母の計らいもあって、賢治は病気療養を理由に「自宅謹慎」していた。
 確かに「賢治年譜」には「不都合な真実」を曖昧にする意図が感じられます。もっと賢治の実像が明確になるように書くべきだったし、今日の時点では「真実」が書かれても、賢治にとって「不本意」なことだったにしても、さほど「不都合な真実」では無いように思われます。昭和三年といえば、有名な三・一五事件の大弾圧があった年だし、さらに盛岡や花巻で天皇の行幸啓による「陸軍特別大演習」が続き、官憲が予防検束で東北から根こそぎ危険分子を洗い出そうとしていた。そうした中で、賢治自身もそうでしょうし、それ以上に宮沢家や地元の周囲の人々もまた累が及ばぬように警戒するのは当然でしょう。事実、賢治と交友のあった上記の川村、八重樫の両名は犠牲になった。「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐を通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います。
    <『土着社会主義の水脈を求めて』(大内秀明・平山昇共著、社会評論社)302p~>
と論評してくださっていることを知って、私は感謝すると共にはっとした。
 それは、このような「病気を理由に大弾圧の嵐を通り過ぎるのを、身を潜めて待つ」という身の処し方にそれまでは正直抵抗感があったのだが、冷静に考えてみればそのような身の処し方の是非を今の時代を生きる私が論うことはできないのだ、と。平たく言えば、賢治は警察から睨まれて「下根子桜」に居られなくなったので仮病を使って実家に戻って謹慎したということが事実であったならばそれは弱虫のすることだと思っていたのだが、大内氏の「「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐を通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います」という受け止め方を知って、私は己の狭量さを知ったからだ。
 またこの仮説に従うならば、例の澤里宛書簡の中の「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」の意味するところは、
 10月上旬に行われる「陸軍大演習」が終わるころ再び「下根子桜」に戻る。ただし、そこに戻ったならば今までとは違い、創作の方を主にする。
という決意を述べていたのだということの蓋然性が極めて高いということになり、もしそれが事の真相であったとすればそのような賢治の変節については多少違和感はあるものの、それはそれほど責められるべきことでもなかろう。
 なにしろ私が同じような立場におかれたならばいともたやすくにそうしかねないし、当時そうする人も少なくなかったようだったからだ。そしてなによりも、そのような身の処し方をする賢治の方がかえって身近な存在と感ずることができて、賢治は実はとても愛すべき人間だったのだと私には思えてくる。

〈注十六:本文74p〉金田一京助、平井直衛、金田一他人、荒木田家寿は皆兄弟であるが、その荒木田家寿が、
『種蒔く人』を初めて盛岡に持ち込んだのが、この直衛なんです。思想的には特にアカというのではなかったが、昭和三年、陸軍演習を前にして〝アカ狩り〟で盛中をクビになってしまった。
<『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)37p >
と兄の直衛が盛岡中学の英語教師をクビになった事情を説明しているし、『白堊同窓会名簿』を見てみれば、「平井直衛 T12.3~S3.8 英語」となっていることから、盛岡中学を辞めさせられた時期が昭和3年の8月であることが確認できる。

 「自宅謹慎」
 さて、先に私は仮説〝○*〟を定立したわけだが、今のところこの反例は見つかっていないし、次のような証言もあるのでこの仮説をさらに傍証してくれている。
 まずその一つが、菊池武雄の追想「賢治さんを思ひ出す」の中の述べてある次のような証言である。
 私どもは雜草の庭からそこばくのトマト畑の存在を見出して、玄關先の小黑板に「トマトを食べました」と斷はつて歸つたことでしたが、もうその頃は餘程健康を害してゐたので、二三日前豊澤町の生家の方に引き上げて床について居られた時だったことを後で聞いてすぐ見舞に行つたが、あまりよくないので面會は出來ませんでした。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)325p>
つまり、賢治が実家に戻ったと言われている8月10日直後に菊池と藤原嘉藤治の二人は羅須地人協会を訪れたのだが賢治は留守だったということになる。そこで菊池は賢治を見舞うためにその後わざわざ賢治の実家を訪れたのだが、賢治の病状があまりよくなくて面会が叶わなかったという証言である。
 そしてもう一つは、佐藤隆房が自身の著書『宮澤賢治』において次のようなことを述べているのだが、
 昭和三年の八月、食事の不規律や、粗食や、また甚だしい過労などがたたって病気となり、たいした発熱があるというわけではありませんでしたが、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。その時の主治医花巻(共立)病院内科医長佐藤長松博士でありましたが…
  <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和26年3月1日発行版)269p~>
という証言である。
 後者を知って驚くことは、賢治の実質的な主治医とも云われている佐藤隆房が、実家に戻った賢治にはそれほど熱があったわけではなかったと証言していることである。しかも、その佐藤が、
   両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。
という表現をしていることはいささか奇妙なことだ。どうしてこの部分を素直に
   両側の肺浸潤で病臥する身となりました。
と表現せずに、なぜわざわざ「という診断」という文言を付したのだろうか。このような言い回しでは逆に、賢治はたいした熱があった訳ではないが、主治医佐藤長松医師に頼んで「肺浸潤」であるという病名を付けてもらって重症であるということにした、という虞(おそれ)までも生じてくる。
 実際、佐藤隆房は『宮澤賢治』(昭和17年9月8日発行版)の中の「八七 發病」では、  
 賢治さんは…(筆者略)…昭和三年の夏の或る日、腹の空いてゐるところへひどい夕立に降り込められ、へとへとになつてやつと孤家に歸り着いたことがあります。これが賢治さんから健康を奪ひ去つた直接の原因となりました。
 不加減になつた賢治さんは、その八月父母の家に歸つて、療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました。今まで家人のいふことを聽かないでそれがもとで、病氣になつて歸つて來たといふので、いくらか遠慮に思つてゐたらしいのです。
   <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年9月8日発行)195p~>
ということも述べている。なんと賢治は、「傍菊造りなどをして秋を過ごし」ていたというのだ。
 ところがその一方で、かつての「賢治年譜」の殆どは昭和3年の、
 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母の元に病臥す。
と述べているから、この佐藤が伝えるところの賢治の療養の仕方はとても奇妙である。なぜならば、昭和3年の8月に実家に戻った賢治のことを医者である佐藤が前掲書の前者では
 たいした発熱があるというわけではありませんでしたが
と、そして同後者では
 八月父母の家に歸つて、療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました
と証言していることになるから、
 どう考えても、昭和3年の8月に実家に戻った頃の賢治が重篤だったとは思えない。
ということになり、これではとても「病臥す」とは言えないからだ。
 そこでこれらのことから浮かび上がってくることは、前述したように菊池武雄が実家に戻ったという賢治を折角見舞った際に面会を謝絶されたということだが、もし菊池が直に賢治に会ってしまえば、病臥するほどの病状か否かをすぐ読み取られるかもしれないということをそれは恐れたからだという可能性である。あるいは、賢治の妹のクニが刈屋主計と9月5日に養子縁組をしたがその際の宴にも賢治は出席していない(『新校本年譜』より)ということが知られているが、どうして「療養の傍菊造りなどをして秋を過ごし」ていた賢治がそのような妹の大切な祝いの席に参列しなかったのかという理由を推理してみれば、そのような公的な席に賢治は出られなかったということが一つ考えられるということである。
 となれば、先に触れたように、あの浅沼稲次郎が特高に命じられて三宅島の実家に戻って謹慎した(74p参照)のと同様に、
 賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻って謹慎をしているように命じられ、それに従って実家で謹慎していた。
とすれば、全てのことが皆すんなりと説明がつく。
 それは、
 もしこの時期に賢治が病気になって「下根子桜」から撤退して実家に戻って重篤故に病臥していたというのであれば、多くの人々がとても心配して賢治を見舞っただろうが、あの関登久也や藤原嘉藤治そして森荘已池までもがこの療養中に賢治を見舞ったということを一切公には書き残していない。……⑥
はずだから十分に頷けるけることである。
 また、いくら丁寧に調べてみても、賢治が昭和3年8月に実家に戻ってから少なくとも「陸軍大演習」が終わるころまでの間に、家族や担当医以外の者で直に賢治に会えた人物がいたということの公の証言も記述も『新校本年譜』等を始めとして一切見つからない(阿部晁については後述。81p参照)。だから、この時の賢治の療養の仕方は極めて奇妙で不自然であった。
 それではこのような自宅での不自然な過ごし方を普通世間一般では何と言うかというと、まさに「自宅謹慎」と言うのではなかろうか。どうやら、不自然な療養の仕方の意味はそこにあったようだ。言い換えれば、上掲の菊池武雄や佐藤隆房の証言もこの仮説〝○*〟の妥当性を傍証している。

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