みちのくの山野草

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4131 賢治と稲熱病

2014-08-25 13:00:00 | 羅須地人協会の終焉
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
稲熱病とは
 昨日(2014年8月24日)胆澤郡金ヶ崎町のある農家の方(70歳位)に『今年の米の出来はどうですか』と訊いた。すると、
 今年は、お盆前は天候も良好で順調に育っていたが、お盆前後から天候が不良で雨降りの日が続いたので少し赤くなっている<*1>ところがある。夜の高温多湿が続いたので稲熱病が発生しているためだ。稲熱病の原因となるイモチ菌の胞子というのは短時間であっという間に一気に広範囲に拡がってしまうから油断がならない。今日のように日中の気温が30度を超すようであればそれ程拡がることはないのだが…。
と心配そうに話してくれた。ついでに、『肥料と稲熱病の因果関係はどうなんですか』と訊ねたところ
    窒素が効き過ぎて徒長になった場合などが稲熱病に罹りやすいのさ。
ということを教えてもらえた。

賢治と稲熱病
 翻って、以前「賢治年譜」に関して昭和3年8月頃の賢治を調べた際に、ある本の「賢治年譜」に
    七~八月、稲熱病や旱魃対策に奔走。
という項目があったことを思い出したので、この「稲熱病」のことがさらに気になってしまった。どうやら、稲熱病の最大の敵は「夜の高温多湿」のようだからだ。
 というのは、昭和3年7月~8月 花巻は日照り続きの毎日だったということが阿部晁の『家政日誌』等からわかる、『岩手県気象年報』(岩手県盛岡・宮古測候所、福井規矩三発行人)に依れば例年になく雨量も少ないことがわかるので、論理的に考えてこの時に「夜の高温多湿」が続いたということはあり得なかろう。つまり、「稲熱病に奔走」するような「稲熱病の蔓延」は昭和3年7月~8月には起こり得なかったはずだ。
 またさらには、『新校本年譜』(筑摩書房)では昭和3年の項として
七月 平來作の記述によると、「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教えられた事がある。
 先生は先きに立つて一々水田を巡り色々お話をして下さつた。先生は田に手を入れ土を圧して見たり又稲株を握つて見たりして、肥料の吸収状態をのべ又病気に対しての方法などをわかり易くおはなしして下さった。」とあるが、これは七月一八日の項に述べたこと<*2>や七、八月旱魃四〇日以上に及んだことと併せ、この年のことと推定する。
               <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
という記述があるが、推定の根拠は少し薄れてしまったようだ。というのは、前掲の気象データなどからは昭和3年の夏に「高温多湿」は続かなかったことがほぼ確実だから、「七月の大暑当時非常に稲熱病が発生」したということはほぼ起こり得なかったという可能性がかなり大だからである。どちらかというと、この平來作の証言は『家政日誌』から知ることができる天気等から判断すれば、昭和2年ことであると私には思われる。この頃はどちらかというと毎年旱魃傾向が強く、そうでなかったのは昭和2年だけだったからである。
 ちなみに、昭和2年と同3年を比べてみると下表のとおりである。



<天気は『阿部晁家政日誌』より、降水量は「盛岡地方気象台」より。
 なお、降水量欄については 〝記載なし〟=〝全く雨降らず〟、〝0.0〟=〝雨は降ったが降水量はゼロ〟 昭和2年の6月のデータは未入手。>
 さて、平たち教え子は賢治を招いて「色々と駆除予防法などを教えられた」ということだが、実際にはどのような対策を教わったのだろか、興味深いところだ。

<*1:投稿者註> 実際、賢治の詩の中の補遺詩篇 Ⅱに
      稲熱病  
   稲熱に赤く敗られた稲に
   みんなめいめい影を落して
   ならんで畔に立ってゐると
      …

              <『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)445pより>
と詠まれている。
<*2:投稿者註> 同年譜には 昭和3年のこととして
 七月一八日 農学校へ斑点の出た稲を持参し、ゴマハガレ病でないか調べるよう、堀籠文之進へ依頼。検鏡結果イモチ病とわかる。
とある。

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