みちのくの山野草

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「八三 測候所」の記述の妥当性

2016-12-02 08:00:00 | 昭和2年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》

 この度、『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)を読み直していたところ、そうなんだよなと合点したことがある。それは、同書の「八三 測候所」の中に、賢治が盛岡測候所に出掛けて行って所長の福井規矩三から指導を受けたことに関して次のように書かれていたからである。
 昭和元年には、気候不順に因る不作の苦杯を嘗めた為、昭和二年には屡々気象の調査に測候所に行きました。
 昨日はご多用のところいろいろとご教示を賜はりまして誠に寔に辱けなく存じます。
 お陰様で本日は諸方に手配を定め、茲両三日には十分安全な處理を了るかと存ぜられます。
 まづは虔しんで御禮申し上げます。
              <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)185p>
 ところがこれに対して、このことに関して当の福井本人はどう述べているかというと、
 七月の末に雨の降り様について、いままでの降雨量や年々の雨の降つた日取りなどを聴き、調べて帰られた。昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。ここに偶然なくしないでしまつてあつた手紙がある。
 昨日はご多用のところいろいろとご教示を賜はりまして誠に寔に辱けなく存じます。お陰様で本日は諸方に手配を定め、茲両三日には十分安全な處理を了るかと存ぜられます。
 まづは虔しんで御禮申し上げます。
             <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版、昭和14年発行)317p~より>
と述べている。

 もちろん〝誤認「昭和二年は非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作」〟等で検証したように、福井のこの記述には事実誤認があり、昭和2年は「非常な寒い氣候が續い」たわけでもなければ「ひどい凶作であつた」わけでもない。そうなんだよ、不作や凶作だったのは「昭和二年」ではなくて、佐藤が「昭和元年には、気候不順に因る不作の苦杯を嘗めた」と述べているとおりなんだよと合点したのであった。そうそう、その前年の昭和元年(大正15年)は隣の紫波郡は大旱害であったし、稗貫でもヒデリのせいで不作であったのだと。ところが、賢治はこの時にその旱害で苦悶している農民たちに何一つ救援の手を差し延べなかったからそのことを悔いて、翌昭和2年にはそうあってはならじということで農民たちのために稲作指導に熱心であったということは論理的にはあり得るから、佐藤が「昭和元年には、気候不順に因る不作の苦杯を嘗めた為、昭和二年には屡々気象の調査に測候所に行きました。」と述べている論理は説得力があると。
 さりながら、福井の言うところの「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」から「そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて」という因果関係は成り立たない。それは前述のとおり、昭和2年は「昭和二年は非常な寒い氣候が續いて」いたわけでもなければ「ひどい凶作であつた」わけでもないからである。

 つまり、ここで佐藤が述べているように、「昭和元年には、気候不順に因る不作の苦杯を嘗めた為、昭和二年には屡々気象の調査に測候所に行きました」ということであれば、きわめて妥当性のある論理となり、当時盛測候所長であった福井よりもはるかに佐藤隆房の方が当時の気候と稲作のことを正しく書き残していると言える。
 では、なぜ医者である佐藤隆房がその道の専門家の福井より妥当性のある書き方ができたのかというと、実は
 自分は腰痛で動きがとれないので、飛田三郎君というのに頼んで賢治に接触したあらゆる人々から当時の情報をあつめてもらって、この情報を年代によって整理し、これを基にして、飛田君に口述した。毎日毎日口述がつづいた。出来たのは昭和十七年、冨山房から初版として出版された宮沢賢治である。
               <佐藤隆房著『自叙伝 醫は心に存す』111pより>
と、佐藤が追想していることからおのずからほぼ明らかになりそうだ。もちろん飛田三郎君とはあの飛田三郎その人である。

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《鈴木 守著作案内》
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◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。

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