みちのくの山野草

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おわりに

2015-07-06 09:00:00 | 昭和2年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
賢治のように素直に正直に
 どうやら、澤里武治の件の証言を恣意的に使っている「宮澤賢治年譜」には致命的な欠陥がある。とりわけ、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」という賢治の発言中の、「少なくとも三か月は滞在する」という部分を理由も明示せぬままに「宮澤賢治年譜」は完全に無視しているという欠陥が、である。そもそも伝記研究において、ある一つの証言の一部は都合よく使い、残りの不都合な部分は無視するということでは正しい伝記とはならないことは当たり前のことだし、そのようなことは許されざることの最たるもののはずだ。しかしそのような実態が「宮澤賢治年譜」に現実にある。もちろんそれを無視しないとなれば「現通説」は根底から覆ることになるがそれは甘受するしかない。まずは、何はともあれ「大正15年12月2日の現通説」は棄却せねばならない。
 そして、その部分を無視せずに澤里の証言を正しく使うとなれば、
 「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」間の長い賢治の空白は、澤里武治の証言どおり、「賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した」し、その後しばし心神衰弱であったからである。
とほぼなりそうだ、ということは先にわかったところである。
 そして、こうなったとしても賢治にとって不都合なことでも何でもない。以前に触れたように、当時の賢治は包み隠さずに
 最近精神身体共に衰弱していて、詩が書けないでいる。それで、旧作に属する詩を一篇送るから、かんべんしてもらいたい
とか、
 病気も先の見透しがついて参りましたし、きつと心身を整へて、今一度何かにご一所いたしますから。
とそれぞれ正直に市島三千雄と吉野信夫に自分は心身共に衰弱しているというように書簡で伝えていたと判断できるからだ。
 あるいはまた、[246〔(1928年)十二月 あて先不明〕下書]には、
昨日はご懇なお手紙を戴きましてまことに辱けなく存じます。当地御在住中は何かと失礼ばかり申し上げ殊にも私退職の際その他に折角のご厚志に背きましたこと一再ならずいつもお申し訳なく存じて居ります。
この度の自ら招いた病気に就てもいろいろとご心配下さいまして何とお礼の申しあげやうもございません。何分神経性の突発的な病状でございましたためこの八月までもこの冬は越せないものと覚悟いた
                  <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
というように、誰かに「自ら招いた病気に就ても…(略)…何分神経性の突発的な病状」と当時の賢治は素直に伝えようとしていたからだ。
 そして、そもそも人間ならば大なり小なり精神的に参ってしまうということは誰にでもいつでも普通に起こり得ることだし、賢治だって人間なのだからその例に漏れないはずだ。だから、そのようなことも賢治にはあったんだと、ありのままの賢治を素直に私たちは受け容れるという姿勢が必要だと私は思うし、そうなることを賢治も希求しているのではなかろうか。換言すれば、そろそろ
     《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
というコンセプトで賢治を位置付けていくべきではなかろうか。そうなれば、賢治の素晴らしい作品が今まで以上に、今以上に多くの人々に親しまれ愛されもっともっと評価されてゆくに違いないと私は思っている。賢治のような不羈奔放な生き方は無理だとしても、素直に正直にであればそれはそれほどまでには難しくないはずだから。

 以上をもって『昭和2年の宮澤賢治』シリーズを終えたい。

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