みちのくの山野草

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3ヶ月弱の滞京と心身衰弱

2015-07-05 09:00:00 | 昭和2年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
猛勉強の結果病気
 しかも、「現賢治年譜」における透明な存在期間は年が明けてからも続き、それは「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」の長きにわたる。ではその空白期間の真相は何かといえば、澤里武治の証言(「澤里武治氏聞書」の生原稿)どおりで、
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居りましたからられました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。 「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞剣だ少なくとも三ヶ月は滞京する俺のこの命懸けの修業が、花を結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。
其の時花巻駅迄セロをもつてお見送りしたのは、私一人でた。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は「風を引くといけないからもう帰つてくれ、俺はもう一人でいゝいのだ。」折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此処で見捨てて帰ると云ふ事は私としてはどうしても偲びなかつたし、又、先生と音楽について様々の話をし合ふ事は私としては大変楽しい事でありました。滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。
最初の中は、ほとんど弓を彈くこと、一本の糸を弾くに、二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過ごされたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。
ということであったという蓋然性が高いであろう。簡潔に言えば、それは
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。……①
という蓋然性がかなり高いこということである。

その裏付け
 ちなみに、「現通説」でもある『新校本年譜』の大正15年12月2日については、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
となっているが、このことに対して賢治の愛弟子の柳原昌悦は、
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。
と、同僚であった実証的賢治研究家の菊池忠二氏に証言している。つまり、柳原は「大正15年12月2日の現通説」はおかしいと訝っているわけである。またもちろん、澤里も同様に訝っているわけで、彼が証言している「霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京」したは、あくまでも「昭和2年11月頃」である。
 また、『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版、昭和14年)所収の「宮澤賢治年譜」に
 昭和三年
   △ 一月、…この頃より、過勞と自炊に依る榮養不足にて漸次身體衰弱す。
とあるように、かつての「賢治年譜」には皆、昭和3年1月賢治は漸次身體衰弱というような意味の記述がされているから、この記述は澤里の「そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました」という証言をたしかに裏付けている。昭和2年11月から「三ヶ月」後といえばそれは昭和3年1月だからである。
 したがって、これらのことと先ほどの〝①〟とを併せて判断すれば、
 賢治の「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」間の長い賢治の空白は、澤里の言うとおり、「賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した」からであり、その後しばし心神衰弱であった。
と結論できるだろう。
 逆に言えば、このことは不都合なことだから「現通説」においては、「どう考えても昭和二年十一月ころ」であった証言がなんと大正15年「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る」と改竄され、しかもそこには続けて「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」と賢治は言ったと「現通説」は言及しながらも、正しくは「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」と澤里は証言しているというのにもかかわらず、肝心の「少なくとも三か月は滞在する」の部分を『新校本年譜』等はしれっとして無視しているのである、と言わざるを得ないし、何とも牽強付会なことだと嘆かざるを得ない。しかも、こんなおかしいことは賢治研究家ならば誰でも容易に気付くはずのことなのに誰一人としてこのことを公的には非難していないし、指摘さえもしていない。

結論
 だから、誤解を恐れずに正直に言えば、
 たしかに、この賢治の発言である「少なくとも三か月は滞在する」を無視しないとなれば、「現通説」は全く成り立たなくなることは明らかだから触らぬ神にたたりなしということなのか。
と言いたい。
 とまれ、現時点での昭和2年12月の賢治についての私の結論は、
 昭和2年11月のみならずこの12月の場合にも賢治の営為が「賢治年譜」から全くといっていいほど見えてこないのは、「賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花し、その後しばし心神衰弱であった」のだが、実はそれが公にされてこなかったためである。
ということになる。

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