みちのくの山野草

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そこに何があったのか

2015-07-04 09:00:00 | 昭和2年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
「澤里証言」の経年変化
 ところで、関登久也が澤里武治から「聽取」したという「チェロを持って上京する賢治を澤里ひとりが見送った」件に関する証言は、次のような関登久也の幾つかの著書等に載っている。以下に、年代順にそれらを並べるとその変化が見られる。
(1) 澤里武治?の「生原稿」
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居りましたからられました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。
(2)『續 宮澤賢治素描』(眞日本社、昭和23年2月)
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
(3)『宮沢賢治物語(49)』(『岩手日報』連載、昭和31年2月22日)
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。
(4)『宮沢賢治物語』(単行本、岩手日報社、昭和32年8月)
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。
とりわけ、
  (1)「確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます」
→(2)「確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます」
→(3)「どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが」
→(4)「どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが」
の部分の変化に注意すれば、
 (1)も(2)も、そこからは、その上京が「十一月の頃」であったことに澤里武治は自信があるということが読み取れるし、続けてさらに「十一月のビショみぞれの降る寒い日」というように迷いもなく今度は「十一月の」と言い切っていることからは、その時期について澤里はかなり自信を持っていたということが伝わってくる。
 ところが、(3)になると、「どう考えても」という表現からは、誰からかそうではないと迫られているが、澤里自身はいやそんなことはなく、どのように考えてもそれは「昭和二年十一月ころ」であると主張しているように私には感じられる。
 しかも、(3)ではそのとき澤里が見た「宮沢賢治年譜」には「昭和二年には先生は上京しておりません」と記載されているが、関登久也が亡くなってから出版された(4)ではそれが「昭和二年には上京して花巻にはおりません」というように、全く逆の意味になるように書き変えられている。
 そしてそれだけではなくて、『宮沢賢治物語(49)』が載ったのは昭和31年2月22日付『岩手日報』なわけだが、その時点までに出版物等で公にされている「宮澤賢治年譜」には、「昭和二年には上京して花巻にはおりません」などということが書かれているものは何一つないというのに、澤里がその時に資料にしていた「宮沢賢治年譜」にはそのように書いてある奇妙なものであったということになる。なぜ、その時に澤里はそのような奇妙な「賢治年譜」に基づかねばならなかったのだろうか。

 その背景には一体何があったのだろう。また、一体誰が関登久也の記述を書き変えたのだろうか。しかも、「澤里武治氏聞書」のこの件の証言を「旧校本年譜」も『新校本年譜』も共に無理矢理「大正15年12月の上京」の典拠にしている(それもあろうことか、資料にある「年」も「月」も書き変え、しかも「少なくとも三ヵ月は滞京する」という賢治の発言を完全に無視しているというきわめて恣意的で杜撰な「証言」の使い方で)と言える。だから、誰が考えても極めておかしいこのことをとりわけしかるべき人は座視などせずに、勇気と覚悟を持ってこれは看過できぬ由々しき問題だと提起し、昭和2年11月から12月(精確には昭和2年11月4日~昭和3年2月8日)にかけてのあまりにも「透明な存在の賢治」から賢治を救い出してやってほしい。
 そしてそもそも、「宮澤賢治年譜」には看過できないいくつかのこのような「あやかし」があるのでそれらを書き改め、そこには真実の賢治を書き記そうではないかと指摘・提言するのは片田舎の一老人ではなくて、結果的には、その「あやかし」を知りながらもそれを座視してきたということになるしかるべき人たちのはずだ。
 いずれにせよ、真実はいつまでも隠し通せるものではないのだから、このような「あやかし」がないような「賢治年譜」に修正して、ぼちぼち
    《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
なるようにしようではありませんか。そして、そうなることを最も望んでいる人物は他ならぬ賢治だとは私は確信している。
 
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