みちのくの山野草

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昭和2年の水稲の作況

2015-06-30 09:00:00 | 昭和2年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 以前、〝当時冷害はなかったという事実〟において、
 後述する予定だが、昭和2年の稗貫郡内の作柄は「良」であって、少なくとも福井の言うような「ひどい凶作であった」とはと言えないはずだ。
と述べたので、このことについてここでは論じたい。例年、11月に入れば「第二回稲作予想収穫高」が発表されているはずだからだ。
 ただしその前に一度確認しておく。当時盛岡測候所長であった福井規矩三が「測候所と宮澤君」の中で
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。
               <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317pより>
と述べているが、少なくとも阿部晁の『家政日誌』からは花巻周辺ではそんなことは言えないし、当時の新聞報道を見ても岩手県全体としても福井の証言は矛盾がある。いずれ、「第二回稲作予想収穫高」を見てみればそのあたりが明らかになることだろう。

「第二回稲作予想収穫高」発表
 いよいよ、その「第二回稲作予想収穫高」が11月12日付『岩手日報』に載った。それは次のようなものであった。
 ・本縣米作(第二回)豫想収穫高 百六萬九百五十二石 平年に比し七厘四毛増収
…本縣における十月末現在米第二囘豫想収穫高は水稲百四萬八千三百二十四石陸稲一萬二千六百二十四石合計百六萬九百五十二石にして之を九月二十日現在第一囘豫想収穫高合計百六萬七千八十一石に比すれば六千百二十九石(五厘七毛)の減収を豫想されてゐる之は本年の稲作は概して草たけ徒長の傾向にあつたが九月下旬に至り多少の風雨の害を蒙り為に倒伏したるもの又は岩手、紫波、和賀、胆澤地方における稲熱病等の被害割合に多かつたためである…(略)…前年五ヶ年平均収穫高百五萬三千百二十一石に比するも七千八百三十一石(七厘四毛)の増収の見込みである。

 さて、11月12日のこの報道によれば、
 本年の稲作は概して草たけ徒長の傾向にあつたが九月下旬に至り多少の風雨の害を蒙り為に倒伏したるもの
ということではあるが、少なくとも花巻周辺では「九月下旬に至り多少の風雨の害を蒙り」ということはなかったものとほぼ判断できる。なぜならば、下表
【「賢治下根子桜時代の花巻の9月の天候」】


              <阿部晁の『家政日誌』より>
からは、昭和2年の9月下旬10日間の内8日間もの「晴」の日があることがわかり、残りの2日間は「曇」と「小雨」だから、「九月下旬に至り多少の風雨の害を蒙り為に倒伏」するような被害は花巻周辺の天気ではなかったとほぼ推断できるからである。
 また、同報道によれば
又は岩手、紫波、和賀、胆澤地方における稲熱病等の被害割合に多かつたためである
ということではあるが、この中に稲熱病の被害の多かった地方は「岩手、紫波、和賀、胆澤地方」とあるのでそこに「稗貫地方」が入っておらず、稗貫地方はその周囲の地方とは異なり、それほど稲熱病による被害はなかったと判断できる。
 実際、上表から稗貫のデータなどを抜き出して見ると、
             水稲
     第二回豫想  第一回豫想    比較増減  
 紫波   118,887   122,639     △3,752  
 稗貫   110,881   109,879      1,002    
 和賀   113,035   114,668     △1,631
    
ということだから、紫波や和賀では第1回の予想収穫高より第2回のそれは減少しているが、逆に稗貫の場合は収穫高の予想は増えていることがわかる。したがって、
 昭和2年の場合、隣接する和賀郡などでは「穂首いもち病」などの稲熱病が猖獗してその被害が甚大であったが、稗貫郡の場合はそのようなことはなかった。
であろうということが導ける。
 ここで前年との比較をしてみる、とおおよそ
     第二回豫想  前年収穫高比増減  増収割合(概数)
 紫波   118,887       25,440       2割7分2厘増
 稗貫   110,881       6,991         6分7厘増  
 和賀   113,035       3,071         2分8厘増
となっているので、稗貫の場合は前年より約6.7%程の増収だし、紫波は前年大干魃だったせいもあって約27.2%という大幅な増収、和賀にしても昭和2年は稲熱病の被害が甚大だという報道は目立つものの、郡全体としてはそれでも約2.8%の増収であることが導かれる。また、岩手県全体であっても、「平年に比し七厘四毛増収」、すなわち0.74%の増収ということになる。
 そこで改めて確認すれば、例えば『「羅須地人協会」賢治と農民』という論考(『宮沢賢治 第6号』、洋々社)の中(78p)に、
 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった
という記述はあるものの、この『岩手日報』の報道によればそうとは言えなさそうだし、福井規矩三の証言
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。
              <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317pより>
も同様であり、これはどうやら福井の勘違いだった可能性が頗る高い。

昭和2年の稗貫の水稲の作柄は良かった
 ちなみに、昭和2年10月7日付の『岩手日報』を見れば、
・豊年の微笑……
續く秋晴れに黄金の波はソクソク刈られ實もはちきれさうになつた穂は長い、ハセに掛けられて行く、掛ける人々の顔にも豊年の微笑みがたゞようふ……稔る秋
という、ハセ掛けの写真入り記事が載っているから、少なくとも10月上旬頃には稲刈りを始めていたことがわかるので、それに対しての「十月末現在米第二囘豫想収穫高」ということであればそれは実際の収穫高との間にはそれ程の差はないと考えられる。
 しかもこの報道にあるように、その予想収穫高は岩手県全体で「平年に比し七厘四毛増収」ということだから、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」わけではなくて、昭和2年の岩手の稲作は天候もまずまずだったので、平年作を稍上回っていた、と言えるであろう。
 まして、先ほどの比較から、
 昭和2年の稗貫地方の稲作は天候にも恵まれて、作柄は平年作を結構上回っていた。
ということはほぼ明らかだ。もちろん、少なくとも稗貫地方に限って言えば、「一九二七(昭和二)年は、多雨冷温天候不順の夏だった」とか「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」というようなことはなかったということもおのずから明らかとなった。
 くどくなってしまうのだが、
 昭和2年の稗貫地方の稲作はその予想収穫高が前年よりも6分7厘の増収ということだから、水稲の作柄は良かった。当然「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」などということは決してなかったのである。
と結論してまず間違いないのだということを再度念を押しておきたい。

昭和2年岩手県米実収高
 そして、実際のこの年の収穫高については以下のとおりである。
 昭和3年1月22日付『岩手日報』に昭和2年の岩手県の米実収高の記事が載っていて、
   本縣米實収高 平年作より八厘増
ということであり、各郡のデータは下表のようなものであった。
【昭和2年岩手県米実収高】

             <昭和3年1月22日付『岩手日報』より抜粋>
 この報道からは
           作付面積      収穫高       反別収穫高
昭和2年      54,904町     1,061,578石      1.9335石
大正15年      53,804町      947,472石      1.7610石
5年平均      53,705町     1,053,120石      1.9609石
ということが判るから
   1,061,578÷ 947,472=1.120
   1,061,578÷1,053,120=1.008
となり、たしかに新聞報道どおり
   前年比収穫高は1割2分増
   5年平均収穫高では8厘増
ではある。
 ただし、反別収穫高で比べると
   1.9335÷1.9609=0.986 (作況指数は99となる)
となるので、
 県全体としては平年作より0.8%の増収(ただし、実質的な収穫高は減であり、作況指数は99 、作柄は平年作である)。
ということになっていたと私は判断した。
 そして、稗貫郡とその周辺では
             水稲
     第二回豫想   実収高(粳+糯)        比較増減  
 紫波   118,887   109,301+9,016=118,317   △570  
 稗貫   110,881   101,485+9,652=111,137    256    
 和賀   113,035   100,371+10,949=111,320  △1,715
となっているので、紫波郡や和賀郡は実収高が第二回豫想よりも減っているが、稗貫郡は逆に増えていることがわかった。
 これで最終的にも、昭和2年の稗貫地方の稲作は天候等に恵まれていたのであろう、作柄は前年を結構上回っていたというこがこれで明らかになった。具体的には
    実収高111,137-前年収穫高103,890=7,247
    7,247/103,890=0.0698
となるから、
    昭和2年の稗貫地方の稲作は実収高で前年と比べて6.98%もの増収であった。
ということが確定した。
 したがって、この『岩手日報』の【昭和2年岩手県米実収高】に基づけば、
 少なくとも稗貫地方に限って言えば、「一九二七(昭和二)年は、多雨冷温天候不順の夏だった」とか「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」というようなことは決してなかった。
ということが実証できたことになる。おのずから、このことに関する賢治研究者の誤解が少なからずあるということが導かれそうだ。

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